【第11話】雪舞う夜の境界線
十二月の後半に差し掛かり、鹿児島市内の夜気は一段と鋭さを増していた。
数日前から日本列島を覆い始めた強い寒波の影響で、南国であるはずの街にも凍てつくような風が吹き荒れている。
天文館の華やかなイルミネーションの光は冷たい強風に揺らされ、通りを行き交う人々は厚手のコートやマフラーに身を包み、足早に家路を急いでいた。
アスファルトの表面は白く乾き、吐き出す息だけでなく、街全体が冷えた鉄のような緊張感を纏っている。
その賑わいの中心から遠く離れ、古いビルが肩を寄せ合う静まり返った路地裏。
看板もなく、表札すら掲げられていないその黒い板壁は、冬の闇夜に溶け込むように不気味なほどの静寂を放っている。
水野航平は、冷え切ったアスファルトの上で革靴の音を響かせながら、スマートフォンの画面と目の前の古い家屋を交互に見上げていた。
地図アプリの示す目的地は間違いなくこの場所なのだが、そこにあるのはうらぶれた格子戸と、淀んだ空気を閉じ込めたような壁だけだった。
「こんなところで、本当に……合ってるのかよ」
航平は小さく呟き、右手に持っていたビジネスバッグの持ち手を強く握りしめた。
二十代後半の航平は、市内の大手建設会社で施工管理の現場監督として働いていた。
連日続く突貫工事の指揮、元請けと下請けの板挟み、そして終わりの見えない図面修正と安全管理。
体力的な限界はもちろんのこと、心の中はすり減り、いつ現場で大きな事故が起きるかというプレッシャーで常にパンク寸前だった。
そんな時、ネットの片隅で見かけた「どんな迷いも断ち切る奇妙な家」の噂にたどり着いた。
初めはただの都市伝説の類だと鼻で笑っていたが、昨夜、現場での大きな凡ミスが発覚し、上司から激しい叱責を受けたことで、彼の精神的余裕は完全に音を立てて崩れ去った。
逃げ出したいわけではない。
だが、このままでは自分自身が壊れてしまうという恐怖が、彼をこの闇夜の路地裏へと引きずり出したのだ。
ふと、それまで頬を容赦なく叩いていた冷たい木枯らしが、嘘のようにぴたりと止まった。
閉ざされた古い格子戸の隙間からは、濃密な沈香の香りが漂っている。
航平は凍えた指先で、古びた木製の引き戸にそっと触れた。
恐る恐る指の腹で左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
中を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
そして、中央の円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
「……うわ、何だこの薄気味悪さは……」
思わず呟いた航平は、足を踏み入れるのを一瞬ためらったが、引き返しても明日の過酷な現場が待っているだけの絶望感から、おそるおそる戸を押し広げて中へ入った。
足を踏み入れた航平は、薄暗い室内の異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、奥の暗がりへ向かっておずおずと声を張った。
「すみません、誰かいますか……?」
だが、すぐに返事は返ってこない。
不気味な静けさの中、航平は居心地の悪さに身悶えしながら、円卓の前に置かれた丸椅子におずおずと腰掛けた。
バッグを膝の上に抱え込み、もう一度、怯えたような調子で声を絞り出す。
「あの……ネットの噂を聞いて来たんですけど、どなたか……いらっしゃいますか?」
その直後、奥の暗がりから姿を現した男――阿門甲斐吽の、底知れぬ光を宿した双眸に捉えられた瞬間、航平は息を呑んだ。
「凍てつくこんな夜にそんな暗い顔をして表を歩いていると悪きものに足元をすくわれますよ」
甲斐吽の重い声が空間を揺らす。
航平はビクリと肩を震わせたが、虚勢を張る余裕など最初から持ち合わせていなかった。
彼はただ力なくうなだれ、震える声で答えた。
「……すみません。藁にもすがる思いで、ここに来ました。最近、仕事のプレッシャーがどうしても重くて……まともに眠れなくて、何が正しいのか分からなくなってしまったんです」
素直に弱音を吐き出す航平に、甲斐吽は微動だにせず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「人の進むべき道が見えなくなるのは、抱え込む荷物が自分の許容量を超えているからです。あなたの今の迷いを、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「塔」のカード。
積み上げてきたものの大きさと、そこから生じる限界や揺らぎ。
周囲を囲むカードには、「隠者」の逆位置が示す孤立感と、「星」の逆位置が示す先の見えない不安が静かに描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は穏やかな、しかし芯のある声で告げた。
「あなたが一人で全てを背負い込もうとしているから、その心が折れかかっているのです。すべてを完璧にこなそうと無理を重ねる姿は、まるで嵐の海に小さな小舟で漕ぎ出すようなものだ。あなたが恐れているのは失敗そのものよりも、『人に迷惑をかけてしまうこと』や『頼りない人間だと思われること』なのでしょう」
その言葉は、航平の胸の奥底を静かに、しかし優しく包み込むように的確に言い当てた。
図星を突かれたショックよりも、自分の苦しみを初めて他人に理解してもらえたという安堵から、航平の目頭が熱くなる。
「……そうなんです……。誰も助けてくれない気がして、自分で何とかしなきゃって焦るばかりで……。気づいたら、息をするのも苦しくなっていました……」
航平の声が微かに震え、抑えていた感情が溢れ出す。
甲斐吽は慈愛を湛えた眼差しで、その青年の姿を見つめた。
「よくここまで一人で耐えてきましたね。ですが、もう一人で抱え込む必要はありません。その重荷をここで下ろすと誓いなさい。そうすれば、私があなたの因縁と乱れた気息を御祈祷し、きれいに整えて差し上げましょう。ただし、明日から周囲を少し頼り、自分の弱さを認めて歩むという覚悟を持ちなさい」
航平は静かに頷いた。
見栄を張ることも、強がることも、もうどうでもよかった。
ただこの苦しみから解放されたい一心で、彼は両手を合わせて深く頭を下げた。
「……お願いします。どうか、俺を楽にしてください」
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来たるべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。
言霊の響きが空間を震わせ、航平の背中から重くのしかかっていた澱のような疲労がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけ、あたたかな静寂が戻った。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた余計な荷物は、ここで綺麗に祓われました」
甲斐吽の告げる穏やかな声に、航平は深く息を吐き出した。
憑かれていた重荷が消えた代わりに、心地よい疲労感と、生身の体がしっかりと地に足をつけている感覚が戻ってくる。
「……ありがとうございました。なんだか、嘘みたいに体が軽いです。……あの、お代はどれくらいでしょうか」
航平が財布を取り出そうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えていた悩みの重みと、これから新しく歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに驚きながらも、航平は「自分の能力の価値」ではなく「自分の人生を取り戻す覚悟」を問われているのだと理解し、深く頭を下げた。
引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる十二月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような痛みや息苦しさは綺麗に消え去っていた。
現場の納期も、山積みの課題も一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ冬の夜空を捉えていた。
ビジネスバッグをしっかりと抱きしめ、航平は冷え切った街の中へと静かに歩き出す。
そして数年後、誰もが航平の確かな実績と、温かい笑顔に満ちた仕事ぶりを目にすることになる。
第11話(完)




