【第12話】初春の雪解け
新年の空気がまだ街の隅々にまで張り詰めている一月の初旬、鹿児島市内の空は高く澄み渡り、冷え切った青空の下で遠くの桜島がうっすらと白く雪化粧をまとっていた。
冬の太陽の光は降り注いでいるものの、肌を刺すような寒風は容赦なく吹き抜け、通りを行き交う人々のマフラーや厚手のコートを揺らしている。
その天文館の華やかな表通りから外れ、古い雑居ビルが肩を寄せ合う静まり返った路地裏は、まるで時間の流れから取り残されたかのような深い静寂に包まれていた。
近代的なビル群の喧騒が嘘のように消え去るその空間に、看板もなく表札すら掲げられていない黒い板壁の家がひっそりと佇んでいる。
真壁涼太は、凍てつくアスファルトの上で革靴の音を響かせながら、スマートフォンの画面と目の前の路地を交互に見渡していた。
地図アプリの示す目的地は間違いなくこの場所なのだが、そこにあるのはうらぶれた格子戸と、古びた壁だけだった。
「こんなところで、本当に合ってるのかな……」
涼太は小さく呟き、手元にあった革製のトートバッグの持ち手をぎゅっと握りしめた。
二十代後半の涼太は、市内の老舗百貨店で広報およびイベント企画のチーフを務めていた。
年始の大きなセールや新春イベントの取り仕切りを任され、数ヶ月前から連日連夜の残業が続いていた。
華やかな表舞台の裏で、上がらない売上へのプレッシャー、協力を得られない他部署との板挟み、そして自分の企画が会社に損害を与えるのではないかという恐怖に押し潰されそうになっていた。
周囲からは「若手のホープ」ともてはやされていたが、その内面は限界だった。
眠ろうとしても頭の中でイベントのスケジュールや数字が回り続け、睡眠薬を飲んでも数時間で目が覚めてしまう。
そんな限界を迎えていたとき、ネットの片隅で「どんな迷いも断ち切る奇妙な家」の噂を目にしたのだ。
ふと、それまで頬を打っていた冷たい木枯らしが、嘘のようにぴたりと止まった。
閉ざされた古い格子戸の隙間からは、濃密な沈香の香りが漂っている。
涼太は冷え切った指先で、古びた木製の引き戸にそっと触れた。
恐る恐る左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
中を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
涼太は、足を踏み入れるのを一瞬ためらったが、引き返しても明日の過酷な仕事が待っているだけの絶望感から、おそるおそる戸を押し広げて中へ入った。
足を踏み入れた涼太は、薄暗い室内の異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、奥の暗がりへ向かって声を張った。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか……?」
だが、すぐに返事は返ってこない。
不気味な静けさの中、涼太は居心地の悪さに身悶えしながら、円卓の前に置かれた丸椅子に腰掛けた。
バッグを膝の上に抱え込み、もう一度、怯えたような調子で声を絞り出す。
「あの……ネットの噂を聞いて来たんですけど、どなたか……いらっしゃいますか?」
その直後、奥の暗がりから姿を現した男――阿門甲斐吽の、底知れぬ光を宿した双眸に捉えられた瞬間、涼太は息を呑んだ。
「新年の喧騒の裏で、その冷え切った焦燥と、心労の澱みが、外を歩くだけで悪しきものを引き寄せますよ」
甲斐吽の重い声が空間を揺らす。
涼太はビクリと肩を震わせたが、虚勢を張る余裕など最初から持ち合わせていなかった。
彼はただ力なくうなだれ、震える声で答えた。
「……すみません。藁にもすがる思いで、ここに来ました。最近、イベントのプレッシャーがどうしても重くて……まともに眠れなくて、何が正しいのか分からなくなってしまったんです」
素直に弱音を吐き出す涼太に、甲斐吽は微動だにせず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「人の進むべき道が見えなくなるのは、抱え込む荷物が自分の許容量を超えているからです。あなたの今の迷いを、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「愚者」のカード。
新たな始まりへの一歩、しかし同時に足元が崖っぷちである危うさ。周囲を囲むカードには、「月」の逆位置が示す先の見えない不安と迷い、「皇帝」の逆位置が示す過剰なプレッシャーとコントロールの喪失が静かに描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は穏やかな、しかし芯のある声で告げた。
「あなたが一人で全てを背負い込もうとしているから、その心が折れかかっているのです。すべてを完璧にこなそうと無理を重ねる姿は、まるで足場の崩れかけた崖っぷちを一人で歩くようなものです。あなたが恐れているのは失敗そのものよりも、『期待を裏切って評価を落とすこと』なのでしょう」
その言葉は、涼太の胸の奥底を静かに、しかし優しく包み込むように的確に言い当てた。
図星を突かれたショックよりも、自分の苦しみを初めて他人に理解してもらえたという安堵から、涼太の目頭が熱くなる。
「……そうなんです……。誰にも弱音を吐けなくて、自分で何とかしなきゃって焦るばかりで……。気づいたら、息をするのも苦しくなっていました……」
涼太の声が微かに震え、抑えていた感情が溢れ出す。
甲斐吽は慈愛を湛えた眼差しで、その青年の姿を見つめた。
「よくここまで一人で耐えてきましたね。ですが、もう一人で抱え込む必要はありません。その重荷をここで下ろすと誓いなさい。そうすれば、私があなたの因縁と乱れた気息を御祈祷し、きれいに整えて差し上げましょう。ただし、明日から周囲を少し頼り、自分の弱さを認めて歩むという覚悟を持ちなさい」
涼太は静かに頷いた。
見栄を張ることも、強がることも、もうどうでもよかった。
ただこの苦しみから解放されたい一心で、彼は両手を合わせて深く頭を下げた。
「……お願いします。どうか、俺を楽にしてください」
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来たるべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。
言霊の響きが空間を震わせ、涼太の背中から重くのしかかっていた澱のような疲労がスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけ、あたたかな静寂が戻った。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた余計な荷物は、ここで綺麗に祓われました」
甲斐吽の告げる穏やかな声に、涼太は深く息を吐き出した。
憑かれていた重荷が消えた代わりに、心地よい疲労感と、生身の体がしっかりと地に足をつけている感覚が戻ってくる。
「……ありがとうございました。なんだか、嘘みたいに体が軽いです。……あの、お代はどれくらいでしょうか」
涼太が財布を取り出そうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えていた悩みの重みと、これから新しく歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに驚きながらも、涼太は「自分の能力の価値」ではなく「自分の人生を取り戻す覚悟」を問われているのだと理解し、深く頭を下げた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる一月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの刺すような痛みや息苦しさは綺麗に消え去っていた。
イベントのスケジュールも、山積みの企画書も一ミリも変わっていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ冬の澄んだ夜空を捉えていた。
トートバッグをしっかりと抱きしめ、涼太は冷え切った街の中へと静かに歩き出す。
そして半年後、誰もが涼太の確かな実績と、温かい笑顔に満ちた仕事ぶりを目にすることになる。
第12話(完)




