【第13話】寒波の芽吹き
二月の半ばを過ぎてもなお、鹿児島市内の空気を縛る寒さは緩む気配を見せなかった。
桜島の上空から吹き下ろす冷風は、天文館の通りを行き交う人々の頬を容赦なく赤らめさせ、吐き出す息を白く凍らせている。
街はどこか落ち着いた冬の静けさに包まれ、夜のとばりが下りるにつれて、アスファルトの冷たさが足元からじわりと這い上がってくるような厳しさを増していた。
その華やかな大通りから一歩脇へ折れ、古い雑居ビルが身を寄せ合う狭い路地裏へ入ると、音という音が奇妙なほどにかき消されていく。
近代的なビル群の喧騒から完全に切り離されたその空間には、看板もなく表札すら掲げられていない黒い板壁の家が、まるで寒さに身を縮こまらせるようにひっそりと佇んでいた。
藤崎紗耶香は、凍てつく路地の中でショートブーツのヒールを小さく鳴らしながら、頼りない足取りで立ち尽くしていた。
スマートフォンの画面に表示された地図アプリのピンは、まさに目の前にある古びた木造家屋を指し示している。
「本当に……こんなところに、あるなんて……」
紗耶香はかすれた声で呟き、白革のハンドバッグの持ち手を両手でしっかりと握りしめた。
二十代後半の紗耶香は、市内のアパレル企業で店長を務めていた。
仕事では確かな実績を残し、同僚や部下からも頼られる存在だったが、こと恋愛に関しては、長い間深い暗闇の中に囚われていた。
数年間付き合っている恋人がいながら、彼は結婚の話を一切出さず、それどころか最近では連絡すらまともに取れなくなっていたのだ。
「私との将来をどう考えているの?」と問い詰めれば嫌われてしまうのではないかという恐怖と、このまま時間を無駄にしてしまうのではないかという焦燥感。
友人たちの結婚ラッシュやSNSにあふれる幸せそうな報告を見るたび、胸の奥が締め付けられるような孤独感に襲われていた。
仕事帰りに一人で夜道を歩くとき、溢れそうな涙を堪えるのが日課になっていた。
ネットの片隅で偶然見かけた「どんな迷いも断ち切る奇妙な家」の噂に辿り着いたのは、まさにその不安がピークに達した夜だった。
すがるような思いでこの路地裏へ辿り着いたものの、いざ目の前にすると、引き戸を開ける手がどうしても震えてしまう。
ふと、それまで頬を打っていた冷たい木枯らしが、嘘のようにぴたりと止まった。
閉ざされた古い格子戸の隙間からは、濃密な沈香の香りが漂っている。
紗耶香は冷え切った指先で、古びた木製の引き戸にそっと触れた。
恐る恐る指の腹で左右へスライドさせると、カラカラと乾いた戸車が鳴り、静寂の中にわずかな隙間が生まれた。
中を覗き込むと、薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が無造作に吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭が不気味に揺らめいていた。
「……うわ!……」
思わず呟いた紗耶香は、足を踏み入れるのを一瞬ためらったが、引き返してもあの苦しい不安が待っているだけの絶望感から、おそるおそる戸を押し広げて中へ入った。
足を踏み入れた紗耶香は、薄暗い室内の異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、奥の暗がりへ向かっておずおずと声を張った。
「すみません、誰かいますか……?」
だが、すぐに返事は返ってこない。
不気味な静けさの中、紗耶香は居心地の悪さに身悶えしながら、円卓の前に置かれた丸椅子に腰掛けた。
バッグを膝の上に抱え込み、もう一度、怯えたような調子で声を絞り出す。
「あの……ネットの噂を聞いて来たんですけど、どなたか……いらっしゃいますか?」
その直後、奥の暗がりから姿を現した男――阿門甲斐吽の、底知れぬ光を宿した双眸に捉えられた瞬間、紗耶香は息を呑んだ。
甲斐吽の発する波動が空間を揺らす。
紗耶香はビクリと肩を震わせたが、虚勢を張る余裕など最初から持ち合わせていなかった。
彼女はただ力なくうなだれ、震える声で答えた。
「……すみません。どうしていいか分からなくて、ここに来ました。彼との関係がこのままどうなるのか怖くて、でも別れる勇気もなくて……毎日が苦しいんです」
素直に弱音を吐き出す紗耶香に、甲斐吽は微動だにせず、静かにテーブルの上に布を広げた。
「人の進むべき道が見えなくなるのは、自分の本当の気持ちを偽り、他人の不確かな優しさに依存しているからです。あなたの今の迷いを、このカードに問いましょう」
甲斐吽の指先が動き、タロットカードの大アルカナが次々とテーブルの上に配置されていく。
中央に示されたのは、正位置の「恋人たち」のカード……ではなく、その逆位置。
選べない優柔不断、すれ違う心、そして依存心から生じる関係の破綻。
周囲を囲むカードには、「月」の正位置が示す底知れぬ不安と幻影、「塔」の逆位置が示す別れを恐れて崩壊にしがみつく執着が静かに描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は穏やかな、しかし芯のある声で告げた。
「あなたが執着しているその恋人は、すでにあなたの心を映し出す鏡ではありません。彼の冷たい態度に怯えながらも、『私さえ我慢すればいつか元に戻る』と自分を騙し続ける姿は、まるで出口のない迷路をさまようようなものです。あなたが本当に恐れているのは『彼を失うこと』ではなく、『何年もの時間を費やした自分が、実は愛されていなかったと認めてしまうこと』なのでしょう」
その言葉は、紗耶香の胸の奥底を静かに、しかし容赦なく抉り出した。
ずっと心の隅で気づいていたのに、見ないふりをして蓋をしていた残酷な真実。
図星を突かれたショックと、自分の弱さを暴かれた悲しみから、紗耶香の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……っ、そんなの……分かってた……。でも、別れたら私、一人になってしまうから……」
紗耶香の声は嗚咽に混じり、丸椅子の上で両手で顔を覆いながら小さく震えた。
それは恋人への怒りではなく、自分の人生を他人の選択に委ねて怯え続けてきた惨めな自分への絶望の涙だった。
沙耶香に温かみのある眼差しを向け、甲斐吽は静かに告げた。
「よくここまで一人で痛みに耐えてきましたね。ですが、他人の愛を乞うために自分の尊厳を削る必要はもうありません。その不毛な執着と恐れを、ここで手放すと誓いなさい。そうすれば、私があなたの因縁と乱れた気息を御祈祷し、きれいに整えて差し上げましょう。ただし、明日からは他人の評価ではなく、自分の意思で未来を選び取るという強い覚悟を持ちなさい」
紗耶香は震える手で顔を拭い、しっかりと頷いた。
依存することも、目を背けることも、もう終わりにしたかった。
ただこの苦しい迷いから抜け出し、自分の足で立ちたい一心で、彼女は深く頭を下げた。
「……お願いします。どうか、私をこの苦しみから救ってください」
甲斐吽は静かに立ち上がると、部屋の四隅に御札を掲げ、低く重厚な声で祝詞を唱え始めた。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……」
阿門甲斐吽の力をもって、時の流れを視通し、過ぎし影を照らし、来たるべき道を示し、散り乱れし縁を結び直す。
言霊の響きが空間を震わせ、紗耶香の背中から重くのしかかっていた恋への未練と不安の澱みがスッと剥ぎ取られていく。
「祓え給い清め給え、祓え給い清め給え……!」
祝詞の終わりとともに、室内の張り詰めた空気が一気にほどけ、あたたかな静寂が戻った。
「終わりましたよ。あなたの背負っていた不毛な縛りは、ここで綺麗に祓われました」
甲斐吽の告げる穏やかな声に、紗耶香は深く息を吐き出した。
凭れていた重荷が消えた代わりに、心の中にぽっかりと空洞ができたような、しかし不思議と清々しい現実感が戻ってくる。
「……ありがとうございました。胸のつかえが取れたみたいに、軽いです。……あの、お代はどれくらいでしょうか」
紗耶香がバッグから財布を取り出そうとした時、甲斐吽は静かに手を挙げてそれを制した。
「対価の定めはありません。あなたが抱えていた悩みの重みと、これから自分の足で歩む覚悟の価値に見合うものを、ご自身の意思でお納めください。分割でも、形あるものでも構いません。いつか必ず納めに来てください」
金額を提示されないことに驚きながらも、紗耶香は「過去の恋の価値」ではなく「自分の人生を取り戻す覚悟」を問われているのだと理解し、深く頭を下げた。
古びた引き戸を開けて外に出ると、頬を撫でる二月の夜風は相変わらず冷たかったが、先ほどまでの胸を締め付けるような痛みは綺麗に消え去っていた。
明日彼にどう切り出すべきか、答えはまだ出ていない。
だが、うつむくばかりだった視線は、不思議とまっすぐ冬の夜空を捉えていた。
白革のバッグをしっかりと抱きしめ、紗耶香は冷え切った街の中へと静かに歩き出す。
ようやく、自分の足で正しく愛を紡ぐためのスタートラインに立ったのだ。
そして数年後、誰もが紗耶香の凛とした美しさと、新しい幸せに満ちた笑顔を目にすることになる。
第13話(完)




