三月の半ばを過ぎ、鹿児島市内の空は冬の重い鉛色から、どこか軽やかな淡い青磁色へと移り変わりつつあった。
桜島の山肌に残るわずかな残雪も春の陽光に溶かされ、天文館の通りを行き交う人々の装いは、厚手のコートから軽快なスプリングジャケットへと変わり始めていた。
季節の変わり目特有の湿った南風がアスファルトの表面をなで、新しい始まりの予感を運んでくる。
その華やかな大通りから一歩脇へ折れ、古い雑居ビルが身を寄せ合う狭い路地裏へ入ると、街の喧騒は嘘のように消え去る。
看板もなく表札すら掲げられていない黒い板壁の家は、冬の寒さに耐え抜いた静けさを保ったまま、春の光の中にひっそりと佇んでいた。
橘翔平は、しっかりと踏みしめるような足取りで路地裏を進み、古びた木製の引き戸の前に立った。
数ヶ月前、人生の重圧と完璧主義の呪縛に押し潰されそうになっていた彼は、この場所で阿門甲斐吽のタロットと祈祷によって救われ、自分の足で歩き出すための覚悟を手に入れた。
あれから会社でのプロジェクトは見事に成功を収め、部下や周囲としっかりと信頼関係を築きながら、新たなマネージャーとして充実した日々を送っている。
だが、今日は個人的な相談や迷いがあってやってきたわけではなかった。
翔平はポケットから小さな包みを取り出し、深呼吸を一つすると、古びた引き戸にそっと手をかけた。
カラカラと乾いた戸車を鳴らして中へ入ると、相変わらず薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が吊るされ、中央の円卓の上では一筋の蝋燭が静かに揺らめいていた。
「……おや」
奥の暗がりから、低い声とともに阿門甲斐吽が姿を現した。
その底知れぬ光を宿した双眸が、訪れた男の顔を静かに捉える。
「あの夜にまとっていた煤けた焦燥の匂いはすっかり消え、見違えるほどクリアな気配ですね。迷いを断ち切った後の足取りは、十分に軽いように見えますが」
甲斐吽の落ち着いた声に、翔平は穏やかな笑みを浮かべ、丸椅子の前に立ちながら頭を下げた。
「お久しぶりです、阿門さん。あのときは本当にありがとうございました。おかげさまで、仕事もチームの状況も驚くほど好転し、自分自身を見失わずにやれています」
翔平は円卓の上に、先ほどの小さな包みをそっと置いた。
「あれからずっと、いつかここに戻ってきて、自分なりの区切りと……あのときお約束した対価を納めたいと思っていました。金額の定めはないと言われましたが、今の私が自分の人生を取り戻せたことの価値を形にしたものです。受け取ってください」
包みを開けると、中には真新しい封筒が入っていた。
それは金銭的な対価だけでなく、翔平が自分の足で稼ぎ出し、自分の意思で未来を切り拓いたという確かな証だった。
甲斐吽は封筒に目を落とし、やがて静かにうなずいた。
「受け取りましょう。あなたが自分の力で歩み、勝ち得た未来の重み、しっかりと伝わってきました」
一礼した翔平がホッとした表情を浮かべたその時、ふと、部屋の空気がわずかにざわめいた。
それまで一定の静けさを保っていた天井の乾いた植物や、壁に掛けられた古文書が、まるで外から吹き込む見えない風に煽られたかのように、微かに揺らめいたのだ。
蝋燭の炎が激しく横に流れ、室内の温度がスッと下がったような錯覚に襲われる。
「……これは」
翔平が怪訝な表情で振り返ると、甲斐吽の眼光が急に鋭さを帯び、部屋の奥の暗がりへと向けられた。
「来客のようですね。それも、ただの迷い人ではありません」
甲斐吽の言葉が終わるか終わらないかのうちに、外の路地裏から、荒々しい足音と、何かを激しく探すようなノックの音が響いた。
ガラガラと、これまでどの相談者よりも荒っぽく、勢いよく木製の引き戸が引き開けられた。
「おい、聞いてた通りだな、この古い家は……!」
飛び込んできたのは、二十代半ばの青年だった。
ラフなライダースジャケットに身を包み、鋭い目つきをしたその男は、息を荒くしながら部屋の中を見回す。
その両手には、奇妙なことに、うっすらと青白い光を帯びた古びた懐中時計が握られていた。
「……柏木湊」
甲斐吽は微動だにせず、その青年の名前を静かに告げた。
新章の幕開け――。
これまでの「個人の精神的な迷いや因縁」を解きほぐす夜とは異なり、鹿児島という街全体を巻き込む、巨大な「時」の歪みと因果の渦が、今まさに音を立てて動き出そうとしていた。
第13話(完)