【第15話】時を刻む楔
荒々しく引き開けられた古びた格子戸から、三月の冷たい夜気が一気に流れ込み、円卓の上で揺れていた蝋燭の炎が激しく身悶えするように明滅した。
突然の侵入者に、橘翔平は思わず身構えて振り返った。
そこに立っていたのは、先ほど飛び込んできたライダースジャケット姿の青年――柏木湊だった。
湊の双眸には尋常ならざる焦燥と怒りが宿り、その両手でしっかりと握りしめられた古びた懐中時計は、不気味な青白い光を脈打つように放ち続けている。
「おい、アンタがこの家のおやじだな。……俺の祖父の遺品から、こんな気味の悪いものが出てきたんだ。勝手に針が逆回りし始めて、気がついたらこの路地裏へ足が引きずられるように導かれてた。どういうことだ、説明しろよ!」
湊の声は尖り、張り詰めた緊張感が薄暗い室内に満ちていく。
個人的な迷いや仕事の重圧を解きほぐしてきたこれまでの相談者たちとは明らかに違う、攻撃的で生々しいトゲがそこにはあった。
だが、阿門甲斐吽は微動だにせず、静かに丸椅子の背に手を掛けたまま湊を見据えていた。
「荒ぶる気配をまとって駆け込んできたかと思えば、その手に握るのは、とうの昔に終わったはずの時間の残骸ですか。柏木湊、あなたがその懐中時計に引きずられてここに来たのは、偶然ではありません」
甲斐吽の低い声には、怒る湊を圧倒するような底知れぬ重みが備わっていた。
そのただならぬ雰囲気に気圧されたのか、湊はわずかに息を呑み、しかし負けじと声を荒げた。
「偶然じゃないだと……? ふざけんな、俺はただ祖父の形見を整理してただけだ。なのに、この時計のせいでここ数日、奇妙な幻覚を見たり、記憶がぐちゃぐちゃになったりしてるんだよ! まるで俺の人生の時間が、誰かに勝手に巻き戻されているような……そんな気味の悪い感覚に襲われてるんだ!」
その言葉を聞いた瞬間、傍らに立っていた翔平はハッと息を呑んだ。
数ヶ月前の自分が味わった精神的な追い詰められ方とは根本的に違う、もっと理不尽で、物理的な「時間と因果の狂い」が目の前の青年を蝕んでいることを肌で感じ取ったからだ。
「阿門さん、この青年は……」
翔平が案じるように視線を向けると、甲斐吽は静かに頷き、円卓の前に置かれたタロットクロスに目を落とした。
「彼の言う通りです。この鹿児島という街の底流で、今、過去と現在を繋ぐ『時の楔』が何者かによって狂わされている。
その歪みの中心にいるのが、この柏木湊なのです」
「俺が……歪みの中心だって……?」
湊は信じられないといった表情で自分の両手を見つめ、さらにその手に握られた懐中時計を睨みつけた。
時計のガラス面には、あり得ないことに、数字ではなく不規則な文字盤の亀裂が走り、針は確かに時計回りの法則を無視して逆回転を繰り返している。
「そうだ。あなたの一族、そして祖父が遺した時計には、かつてこの街で封印されたはずの『ある因果の記憶』が縫い付けられている。
あなたがそれを開いてしまったことで、止まっていたはずの歯車が再び噛み合い始め、街全体を飲み込むほどの時空の歪みが解き放たれようとしているのです」
甲斐吽の言葉に、湊は顔色を青ざめさせた。
最初はただのオカルトや詐欺だと思い込んでいたが、自分の身に起きている奇妙な現象、そしてこの奇妙な家が放つ圧倒的な実感が、それが紛れもない現実であることを突きつけていた。
「ふざけるな……そんなの、俺の知ったことかよ。俺はただ、普通の生活に戻りたいだけだ。この気味の悪い時計を壊せば、元に戻るのか……?」
湊が懐中時計を床に叩きつけようと腕を振り上げたその瞬間、甲斐吽の鋭い声が空間を切り裂いた。
「やめなさい! それを力任せに破壊すれば、あなたの魂そのものが過去の歪みに引きずり込まれ、二度と現在の世界に戻れなくなります」
甲斐吽のただならぬ気迫に圧倒され、湊は腕を空中でピタリと止めた。
額から冷や汗が伝い、その身体は細かく震えている。
怒りの仮面の下にあったのは、底知れぬ恐怖と孤独だった。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ……。助けてくれよ、俺は、これ以上おかしなことになりたくないんだ……!」
先ほどまでの威勢は完全に消え失せ、湊はその場に膝をつきそうになりながら、絞り出すように助けを求めた。
その青年の姿を見下ろしながら、甲斐吽は静かにテーブルの上に新たな布を広げ、タロットカードの大アルカナを並べ始めた。
中央に示されたのは、逆位置の「運命の輪」。
予測不能な運命の暴走、そして過去から繰り返される因果のループ。
周囲を囲むカードには、「死神」の逆位置が示す過去への執着と終わらない悪循環が鮮明に描き出されていた。
「これを見てみなさい」
甲斐吽は静かに告げる。
「あなたが恐れているのは、懐中時計の呪いではありません。『祖父が隠した秘密』を知ること、そして自分がその因果から逃れられないという現実です。しかし、逃げることは許されない。この街の時間を正すためには、あなたがその過去と真っ正面から向き合い、因果の結び目を解きほぐすしかないのです」
翔平は、かつての自分の夜を思い出しながら、目の前で苦悩する湊の背中をそっと見つめた。
自分は自分の弱さと向き合うことで救われたが、この青年が直面しているのは、個人の範疇を超えた「過去の因果そのもの」なのだ。
「柏木さん、ここは信じるんだ。阿門さんは、俺を救ってくれた。あなたもきっと……」
翔平の言葉に、湊は唇を噛み締めながら顔を上げた。
その瞳には、恐怖に怯えながらも、現実から逃げないというかすかな決意の光が灯り始めていた。
「……分かったよ。この時計が指し示す過去とやらが何なのか、受けて立つしかないって言うなら……!」
湊のその言葉を聞いた瞬間、手に持っていた懐中時計の青白い光がまばゆいほどに強まり、部屋全体を激しい閃光が包み込んだ。
壁の仮面がガタガタと音を立て、天井の乾いた植物が一斉にざわめく。
時空の歯車が、音を立てて大きく逆転を始めたのだ。
「始まりましたね。さあ、柏木湊、そして橘翔平。これより、鹿児島を揺るがす『時を巡る因果の試練』の幕が開きます」
甲斐吽の重厚な声が響き渡る中、三人を包み込むように空間が歪み、彼らは一瞬にして、光の彼方へと吸い込まれていった。
第 15話(完)




