鹿児島湾の黒く濁った水面を見据えた瞬間、阿門甲斐吽の脳裏に、この南の大地が歴史の中で刻んできた幾多の傷跡が激しく去来した。
大正の世に起きた桜島のすさまじい大噴火。
あるいは、古代から語り継がれる隼人たちの抵抗と、その血塗られた鎮魂の歴史。
その後も度々、鹿児島を呑み込んできた大災害や人々の悲劇は、決して単なる偶然の自然現象などではない。
大地を巡る霊脈の乱れと、民の心に巣食う恐れや恨みといった負のエネルギーが共鳴し、蓄積された呪いが爆発した結果にほかならなかった。
「見てください、甲斐吽様……。あの海底の亀裂から立ち上る澱み、あれはまさに大正の大噴火の折に噴き出したマグマの底の怨念と全く同じ気配よ。古の神話で語られる、海原の荒ぶる神が再び怒りに狂い、この国を闇に沈めようとしているわ」
弘恵が神楽鈴を握り締める指を白くさせながら、切迫した声で告げた。
神話の時代、海と大地を統べる神の怒りに触れたとき、世界は一度その形を失いかけたという。
今、鹿児島湾の海底で起きているのは、まさにその再現だった。
深海という人間の足が届かない領域に潜む元凶へ直接手を下すことなど到底叶わない。
だが、大地的規模の霊脈の乱れが地上へと歪みを生み出している以上、この岸壁からその奔流を押し返し、対抗するための足がかりを築くしかなかった。
「ああ。深海という地の利が相手であっても、ここで私たちが退くわけにはいかない。あの海底の亀裂から溢れる呪縛を断ち切るための足場を、私たちの手で引きずり出すぞ」
甲斐吽は仕込み杖の柄を強く握り込み、牙を剥く黒い海面へと霊力をぶつけた。
次の瞬間、怒濤のような轟音とともに海面が真っ二つに割れ、ドロドロとした黒い粘液の奔流が噴き上がった。
それは数多の触手と化し、二人の頭上へと容赦なく襲いかかる。
過去の災害で散っていった人々の絶望の記憶が、一つの巨大な影の化身となって海中から這い上がってきたのだ。
「私たちが退けば、この街もあの日の悲劇の二の舞になるわ!」
弘恵が身を翻し、神楽鈴を激しく打ち鳴らした。
ジリリリッ! と夜気を切り裂く清浄な鈴音が、空間に満ちる穢れのエネルギーを激しく撃ち返す。
弘恵が放つ白き聖域の光は、まるで神話の時代に闇を払った天の岩戸の光の如く、押し寄せる黒い触手たちを根元から焼き払っていった。
しかし、深海の底から湧き出る負の奔流は衰えることを知らない。
次から次へと這い上がる影の群れに対し、甲斐吽は疾風の如く踏み込み、仕込み杖の刀身を閃かせた。
「化身の本体が深海の底に潜んでいようと、この地表から呪脈を穿ち、決着をつけるための舞台をこじ開けるのみ……!」
甲斐吽の気魄が黄金色の光となって刀身を包み込む。
彼の剣技は単なる物理的な斬撃ではない。
霧島から流れ出す本来の清らかな霊気を呼び覚まし、深海へと逆流している呪いの根源に抗うための神聖な秘術そのものだった。
だが、敵もただ押し返されるだけではなかった。
深海の底から渦巻くようにせり上がった黒い潮騒は、さらなる密度を増して二人を飲み込もうと牙を剥く。
それはかつてこの地を襲った大災害の記憶そのものであり、人々の恐怖心を直接揺さぶる心理的な呪縛をも伴っていた。
足元がぐらりと揺らぎ、意識の底から冷たい水が押し寄せるような幻覚が甲斐吽と弘恵の精神を蝕みにかかる。
「負けないわ……! 私たちの後ろには、この街で生きる人々の温もりがあるんだから!」
弘恵は自らの指先を噛み締め、その血の力を宿した神楽鈴をさらに激しく、全身全霊を込めて振り鳴らした。
その清らかな響きは、ただの音波ではなく、神楽坂の血脈が代々受け継いできた大地の鎮魂歌そのものだった。
鈴音に呼応するように、周囲の夜気に眠っていた微かな星の光が幾筋もの光の糸となって弘恵の背中を支える。
「そうだ。過去の悲劇に囚われるのではなく、私たちが未来を切り開く。行くぞ、弘恵!」
弘恵が作り出した神聖な聖域の爆発的な広がりを足場にして、甲斐吽は宙へと跳躍した。
仕込み杖の刀身から放たれた黄金の光が、夜空と海面を繋ぐ一本の巨大な光の柱を描き出す。
二人の霊力が幾重にも重なり合い、海底の亀裂へと直接流れ込んだその瞬間、激しい地響きとともに海面が大きく盛り上がった。
轟音を立てて波が割れ、甲斐吽と弘恵が立っている埠頭の沖合いに、禍々しいオーラを纏ったドス黒い鳥居がそびえる一つの島が、突如として海面を突き破り隆起した。
その異様な島の出現に呼応するように、周囲の暗闇から無数の黒い影──カラスの群れが一斉に飛び立ち、夜空を埋め尽くすように不吉な鳴き声を上げて騒ぎ出す。
島の中央からは、触れる者の精神を狂わせるほどのドス黒い怨念の波動が容赦なく辺りに放たれていた。
「あれが……深海の元凶と地表を繋ぐ特異点。あそこへ渡らなければ、本当の意味でこの災厄を断つことはできないわね」
弘恵が険しい表情で隆起した島を見据えると、甲斐吽もまた静かに頷き、二人はその島へと渡ることを決意した。
しかし、その切迫した状況の中、背後の闇を切り裂くようにして二人の見知った者の足音が響いた。
振り返ると、そこには不自然なほどの導きに引き寄せられるようにしてやってきた柏木湊と橘翔平の姿があった。
「甲斐吽さんもここに来ているってことはやっぱり何かが起きてるんですね!……俺たちも街の異変に気付いてここに来たんです。俺たちにも、何か協力させてください!」
湊が強い意志を宿した瞳でまっすぐに訴えかける。
翔平もまた、その隣で固い決意を込めて拳を握り締めていた。
これほどの危機的状況において、彼らがここに現れたのは偶然などではない。
すべては必然の導きだった。
「湊、翔平……お前たち……」
「危険なのは分かっています。でも、俺たちにだって何か役割があるはずです。あの島へ行かなきゃならないんですよね!阿門さん、あれを見てください……あそこに有るのは俺の親が所有する船です。あれを使ってください!」
湊が指し示した先には、海沿いの小さな桟橋に繋がれていた頑丈な小型艇があった。
古くから海に関わる家系であった湊の血筋に因むその船には、不思議と禍々しい怨念の波動を弾く微かな神気が宿っている。
すべてのピースが出揃った。
偶然ではなく、必然の巡り合わせによって集った四人。
甲斐吽と弘恵、そして柏木湊と橘翔平の四人は、静かに視線を交わし合うと、隆起した怨念の島へと向かう小型艇へと乗り込んだ。
第27話(完)