古びた木造家屋の引き戸を背にして一歩を踏み出した瞬間、阿門甲斐吽と神楽坂弘恵の肌を、尋常ではない冷気を帯びた初夏の夜風が撫でた。
普段であれば、静寂に包まれているはずの天文館の裏路地は、異様な重圧に満ちていた。
空を見上げれば、満天の星々を覆い隠すように、ドス黒い不気味な雲のような禍々しいノイズがうねりを上げて広がっている。
遠くの夜空の向こう――霧島の峰々が位置する北の方角からも、かすかに地鳴りのような低い振動が伝わってきた。
「見て、甲斐吽様。空の気が完全に逆流しています」
弘恵が白と朱の巫女装束の袖を風に翻し、少し切迫した声を上げた。
その手にはすでに神楽鈴が握られており、彼女が軽く手首を振ると、チリリンと清らかな金属音が夜の闇に響き渡った。
その鈴の音が広がる半径数メートルだけは、まとわりつくような黒い澱みが綺麗に払い落とされる。
しかし、その外側では、ドロドロとした黒い気配がまるで生き物のようにうねり、二人を威嚇するように蠢いていた。
「ああ。私たちの動きを察知した何者かが、この周辺の空間そのものを歪ませ、目的地への道を塞ごうとしている。」
甲斐吽は代々伝わる仕込み杖の柄に手をかけ、いつでも抜刀できるように身構えた。
先ほど青銅製の器の水鏡で導き出した目的地――鹿児島湾の海底へと続く地層の亀裂ポイントへ向かうには、天文館から海岸線にかけて張り巡らされた「負の結界網」を突破しなければならない。
二人は並んで路地裏を抜け、大通りへと出た。
街灯の明かりはともっているものの、夜の街には人の気配が全くなかった。
いや、正確には、人々は通りのあちこちに塞ぎ込み深い悪夢や幻聴にうなされ、意識の底を黒い潮騒に囚われているのだ。
街全体が、巨大な災厄の罠の底に沈められているような状態だった。
「気をつけて、甲斐吽様。来るわ!」
弘恵の警告と同時に、前方の空間がまるで水面のようにぐにゃりと歪んだ。
アスファルトの路面から、ドロドロとした黒い粘液が噴き出し、それが瞬く間に人間の形をした歪な影の群れへと変化していく。
外山弘樹が目撃した「海から這い上がる影」の縮図が、この市街地の真ん中に出現したのだ。
数十体もの黒い影が、瞳のない虚ろな視線を二人に向け、一斉に奇怪なうめき声を上げながら襲いかかってきた。
「雑魚の群れか……! だが、ここで足止めを食らうわけにはいかない!」
甲斐吽は仕込み杖の鞘を払い、一気に刀身を抜き放った。
刀身にはあらかじめ仕込まれた破邪の真言が刻まれており、彼の強い霊力が注ぎ込まれると、眩い黄金色の光を帯びて鋭く輝いた。
甲斐吽は疾風のような踏み込みで最初の影の群れへと肉薄し、一閃の下へと切り伏せた。
物理的な実体を持たないはずの常世の影であっても、阿門家の秘伝の剣術と精製された霊力の前には抗えず、黄金の光を浴びた瞬間、黒い煙となって霧散していく。
「後ろは任せて、甲斐吽様!」
背後から襲いかかろうとした別の影の群れに対し、弘恵が素早く翻り、神楽鈴を激しく打ち鳴らした。
ジリリリッ! と、先ほどよりも鋭く高い清浄の音が夜気を切り裂く。
神楽坂の血脈に伝わる神楽の波動は、邪悪な穢れのエネルギーを根本から浄化する強烈な力を持っていた。
弘恵の周囲に広がる白き聖域に触れた黒い影たちは、まるで熱湯に触れた雪のように泡を立てて消滅していく。
甲斐吽の剣が物理的かつ呪術的に敵を両断し、神楽坂の鈴音が周囲の空間を清め浄化する。
二人の息は驚くほど完璧に合致しており、無数の影が波のように押し寄せても、その歩みが止まることはなかった。
「さすがね、甲斐吽様。相変わらず見事な太刀筋だわ」
「油断するなよ、弘恵。これはまだ序盤の迎撃にすぎない。敵の本体は、もっと深い場所――あの海の底で私たちを待ち構えている」
敵の数が減っていくのを確認し、二人はさらに足を速めた。
天文館の街並みを抜け、いよいよ視界の先に鹿児島湾の黒く冷たい水面が見えてきた。
潮風に乗って漂ってきたのは、ただの磯の香りではない。
鉄と泥と、そして底知れぬ古代の絶望が入り混じった、鼻をつくような禍々しい澱みの匂いだった。
岸壁に近づくにつれて、空間の歪みはさらに激しさを増していった。
空に広がる黒い雲の渦は一つの巨大な中心点に向かって収束し、まるで地獄へと続く大穴を開けているかのように、海面が激しく逆巻いている。
「あそこが……星辰の導きが示した亀裂の場所ね、甲斐吽様」
弘恵が神楽鈴をしっかりと握り締め、険しい表情で海の一点を指し示した。
岸壁のすぐ足元、普段は穏やかな波が打ち寄せるはずの海面が、信じられないことに真っ黒な粘液に覆われ、グツグツと煮え返るように泡を立てていた。
その中央から、さらに巨大で、人間とは比較にならないほど歪な「何か」の気配が、水面を押し上げて這い上がろうとしている。
鹿児島全体を呑み込む黒き潮騒の核心。
その真の脅威が、今まさに姿を現そうとしていた。
背後には守るべき街があり、前方には世界を揺るがす闇の源流がある。
逃げ場のない極限の状況の中、阿門甲斐吽の脳裏にある記憶が甦える。
第26話(完)