外山弘樹が持ち込んだ恐怖の余韻が、薄暗い部屋の隅々にまだ重く澱んでいた。
阿門甲斐吽は、円卓の上に散らばったタロットカードを一枚ずつ静かに回収しながら、壁際に掛けられた煤けた古文書の束へと視線を走らせた。その双眸には、突然の異変に対する動揺の色は一切なく、むしろ「ついにその時が来た」という静かな覚悟の色が宿っている。
「……やはり、祖父が遺したあの警告の通りだな」
甲斐吽は低い独り言を呟きながら、古びた巻き物の古文書をゆっくりと手繰り寄せた。
黄ばんだ和紙には、幾世代にもわたって書き継がれた呪文や、南九州の地図に刻まれた霊的結界の要所が細かく記されている。
阿門の一族は、代々この南九州の地において、目に見えない理の均衡を陰ながら守護してきた血脈であった。
天孫降臨の地として知られる霧島の峰々から、南の海洋へと続く広大な霊的ネットワーク。
その要所要所に施された封印や結界が破られたとき、世界に何が起きるのか。
甲斐吽は幼い頃から、先祖代々伝わる厳重な言い伝えとしてそのすべてを叩き込まれていた。
代々の当主たちが口を揃えて語っていたのは、鹿児島という土地の特殊性だった。
この地は、神話の時代から神々と人ならざるものが交錯する神聖な領域であると同時に、ひとたびその均衡が崩れれば、底知れぬ禍々しいエネルギーが噴き出す危険な「地層の急所」でもあるのだと。
(海を覆う黒き潮騒、そして神話の結界のほころび……。これは単なる妖怪の類や、個人の因果の歪みなどではない。この大地の底に眠る、かつての巨大な災厄の記憶そのものが、現代の歪みと共鳴して目を覚まそうとしているのだ)
甲斐吽は数珠を持つ手に力を込めた。
先祖たちもまた、幾度となく訪れる時代の危機において、命を懸けてこの地の理を正してきた。
その血脈を受け継ぐ者として、今ここで自分が退くわけにはいかない。
「しかし、今回の異変はこれまでの代のどの記録とも違う。霧島の峰から広がる霊的網の目が、何者かによって意図的に断ち切られている……」
甲斐吽は眉間を寄せ、さらに思考を巡らせた。このままでは、鹿児島湾から這い上がる黒き潮騒はやがて市街地を呑み込み、やがては南九州全体の結界を崩壊させるだろう。
そして、その先には――かつてこの大地を焼き尽くした、歴史の深くに隠された「あの災厄」の記憶が、霊的な次元で再び現実を侵食し始めるかもしれない。
先祖から聞き及んでいた最悪のシナリオが、着実に現実の形をとって動き出していた。
たった一人でこの巨大な災厄の重荷を背負うには、あまりにも相手の規模が大きすぎた。
だが、彼が孤独な戦いを覚悟したその瞬間、部屋の重い空気を切り裂くように、外の路地裏から凛とした、しかし焦燥を帯びた足音が近づいてきた。
トントン、と戸を叩く音ではなく、迷うことなく引き戸が勢いよく開け放たれた。
「甲斐吽様! やはり、ここにいたのですね!」
飛び込んできたのは、艶やかな黒髪を一つに結び、白と朱の巫女装束の裾を風に翻した一人の女性だった。
その顔立ちは気高く美しいが、今は切迫した緊張の色に満ちている。
彼女の名前は、神楽坂弘恵。
天孫降臨の地・霧島の麓に古くから鎮座し、阿門家とともに南九州の神聖な結界を守護し続けてきた「神楽坂寺家」の現当主の一人娘であり、甲斐吽の許嫁でもある女性だった。
「弘恵……どうして君がここに?」
甲斐吽が驚き戸惑うのも無理はなかった。
神楽坂の血を引く彼女は本来、霧島の霊地を離れることが許されていない身であるはずなのだ。
「そんなこと、聞かなくても分かっているのでしょう! 霧島の峰々に張り巡らせていた私たちの結界が、昨夜から次々と黒い澱みに断ち切られているのよ。神域の神々が眠る地層の奥底から、尋常ならざる負の波動が鹿児島湾に向かって流れ出しているわ。阿門の血を引くあなたなら、この異常に気づいていないはずがないと思って駆けつけたのよ!」
弘恵の息はわずかに弾んでおり、彼女自身も神域の維持に全力を注いだ直後であることが伺えた。
その手には、神楽鈴と強力な破邪の力が宿る神剣の柄がしっかりと握りしめられている。
「君までこの街の危険に飛び込んでくるとはな……。だが、助かる。今回の澱みは、これまでの因果の歪みとは次元が違う。私一人では、すべての結界のほころびを修復しきれなかったかもしれない」
甲斐吽の言葉に、弘恵はふっとわずかに柔らかな笑みを浮かべ、しかしすぐに真剣な眼差しへと戻した。
「水臭いことを言わないで。私たちは代々、阿門と神楽坂の両輪でこの南の地を守ってきたのだから。あなたが一人で背負い込もうなんて思ったら、私が許さないわ」
二人の血脈が交わるとき、失われかけていた神話の結界を立て直すための強力な絆が生まれる。
弘恵の加勢を得たことで、甲斐吽の背負う重圧は確かな決意へと変わった。
「分かった。時間はない。霧島の神域と鹿児島湾を繋ぐ霊的動脈が完全に断ち切られる前に、私たちの手でその源を断つ。準備はいいな、弘恵」
「いつだってできています。行きましょう、甲斐吽様!」
一人から二人へ。
血脈に刻まれた伝承を受け継ぐ者たちが手を取り合い、鹿児島全体を呑み込もうとする黒き潮騒に立ち向かうための、本当の戦いが今、幕を開けた。
第 24話(完)