【第23話】黒き潮騒の予兆
五月の終わりに差しかかり、鹿児島市内の空は初夏の強い陽光を浴びて青さを深めていた。
しかし、それまで街を包んでいた穏やかな気候の裏側で、どこか湿った、冷たい澱みのようなものが水面下で広がり始めていることを、敏感な者たちは肌で感じ取っていた。
その異変の波は、桜島の裾野を抜け、市街地をかすめるようにして、ひっそりとしかし確実に近づきつつあった。
看板のない古い木造家屋の薄暗い室内で、阿門甲斐吽は目を閉じ、円卓の上に置かれた数珠をゆっくりと手の中で繰っていた。
部屋の壁に掛けられた無数の民族調の仮面や、天井から下がる乾いた植物が、まるで微かな低周波の振動に共鳴するかのように、ほんのわずかにカタカタと音を立てている。
「……やはり、動き出しましたね」
甲斐吽が低く呟いたその時、外の路地裏から、これまでのどの相談者とも違う、荒々しくもどこか怯えた足音が響いてきた。
これまでの来訪者たちは個人の迷いや過去の因果に囚われていたが、今回の足音には、明確な「外部からの脅威」に追われる者の焦燥が混じっている。
ガタガタと激しく木製の引き戸が乱暴に開け放たれ、冷たい風とともに一人の若い男が転がり込んできた。
「た、助けてくれ……! 誰か、この街に何が起きているんだ……!」
息を極限まで切らし、顔面を恐怖で蒼ざめさせた男は、市内の港湾関係で働く現場作業員だった。
彼の名前は、外山 弘樹。
がっしとした体格をしているが、その全身は恐怖で小刻みに震えていた。
「落ち着きなさい。何に怯えているのか、ここで話しなさい」
甲斐吽の重厚な声が響くと、外山は荒い息を整えようと必死になりながら、震える指先で自分のスマートフォンを取り出し、一枚の画像を見せた。
「俺は外山弘樹と言うんだが。き、昨日の夜中だ……。仕事帰りに鹿児島港の岸壁を歩いていたら、海の向こうから……桜島のほうから、信じられないものが見えたんだ。いや、見えただけじゃない……。海全体が、真っ黒な粘液みたいな潮に覆われて、その中からいくつもの『影』が這い上がってきたんだよ!」
外山が見せたスマートフォンの画面には、夜の漆黒の海に奇妙な影が映り込んでいた。
それはただの波のうねりではない。
人間の形に似た歪な影が幾重にも重なり合い、海面から這い出て市街地の方角へ向かって伸びているような、見る者の正気を狂わせるような不気味な光景だった。
「その影を見たときからだ……。頭から変な幻聴が離れない。『すべてを呑み込む、終わりの時間が始まった』って、頭の中でずっと何かが囁き続けているんだ。昨晩からは、俺の周りだけじゃなく、街のあちこちで同じような幻覚を見るやつや、急に意識を失う人間が続出してる。このままじゃ、この鹿児島全体が……何かに食いつくされてしまう!」
外山の悲鳴のような訴えに、室内の空気が一気に張り詰めた。
甲斐吽はゆっくりと立ち上がり、窓の外の青空へ目を向けた。
一見すると平穏に見える鹿児島の上空に、今や目に見えない「負の霊的エネルギー」の巨大な渦が、底知れぬ黒い膜のように広がり始めているのが、彼の霊視の瞳にははっきりと映っていた。
「それは個人の迷いではありません。この街の地下深く、そして古くから眠る海の底の因果の結界が何者かによって破られ、数百年単位で封印されてきた『大いなる澱み』が、今まさに解き放たれようとしているのです」
「封印が……破られたって……? じゃあ、どうすればいいんだよ! 俺たちはどうなっちまうんだ!」
外山が絶望に満ちた声を上げるのに対し、甲斐吽の双眸はかつてないほど鋭い光を帯びていた。
「恐れることはありません。闇がどれほど深くとも、理を正す術は必ずあります。しかし、今回の澱みはこれまでとは比べ物にならないほど巨大です。あなた一人の問題ではなく、この街全体、そして過去にこの家を訪れた者たちの運命すらも巻き込む、長き戦いの始まりとなるでしょう」
甲斐吽は円卓の中央に手をかざし、新たなタロットカードを数枚並べた。
そこに現れたのは、逆位置の「塔」と、不気味に輝く「月」のカード。
崩壊と混乱の予兆が、はっきりと示されていた。
鹿児島を未曾有の危機が襲う。
黒き潮騒の予兆とともに、因果を巡る壮大な戦いの幕が、今、静かに切って落とされた。
第23話(完)




