三月の終わりが近づき、鹿児島市内の空には春の陽光がたっぷりと満ちていた。
桜島の山肌を覆っていた名残の雪はすっかり消え去り、天文館の街路樹には瑞々しい新緑の芽吹きが顔を出し始めている。
季節は確実に、新しいステージへと歩みを進めていた。
その華やかな表通りから一本脇へ折れ、古い雑居ビルが肩を寄せ合う静まり返った路地裏。
相変わらず看板もなく、表札すら掲げられていないその黒い板壁に囲まれた古びた木造の家は、変わらぬ静寂をまとってそこに佇んでいた。
しかし、かつてそこにあった得体の知れない重圧や、時空を歪ませるような不穏な澱みは綺麗に消え去り、どこか穏やかな春の気配に包まれている。
柏木湊は、しっかりとした足取りでその路地裏を進み、古びた木製の引き戸の前に立っていた。
あの異世界のような過去の迷宮から現実の空間へと戻ってきてから数日が経っていた。
初めのうちは、自分の身に起きたことが夢幻だったのか現実だったのか混乱し、手元から消え去った懐中時計の感触だけが妙に生々しく残っていた。
しかし、祖父の抱えていた後悔と向き合い、それを自分の意思ですべて受け止めたあの夜を境に、湊の心境は劇的に変わっていた。
これまでのように過去の影に怯えたり、何かに言い訳をしたりすることはもうない。
自分の人生は自分の足で切り拓く。
その覚悟が、彼の背筋を真っ直ぐに伸ばさせていた。
「……失礼します」
湊は深呼吸を一つすると、古びた木製の引き戸にそっと手をかけ、カラカラと乾い心地よい戸車を鳴らして中へと足を踏み入れた。
薄暗い空間の壁一面には民族調の仮面や煤けた古文書が吊るされ、天井からは乾いた植物がぶら下がっている。
中央の円卓の上では、一筋の蝋燭の炎が静かに揺らめいていた。
いつもの、阿門甲斐吽のいる空間だった。
奥の暗がりから、低い落ち着いた声とともに甲斐吽が姿を現す。
その底知れぬ光を宿した双眸は、訪れた青年の変化をしっかりと見据えていた。
「よく来ましたね、柏木湊。あの夜の嵐のあと、その足取りはすっかり頼もしくなったようだ」
甲斐吽の言葉に、湊は自然と引き締まった笑みを浮かべ、円卓の前に立ちながら深く頭を下げた。
「お久しぶりです、阿門さん。あのときは、本当にありがとうございました。……あの後、自分の部屋を改めて整理したら、祖父が遺した古い手帳が見つかったんです。そこには、祖父が若い頃に抱いた夢や、途中で諦めざるを得なかった仕事の記録がしっかりと残されていました」
湊はポケットから小さな封筒を取り出し、円卓の上にそっと置いた。
「逃げ出したいばかりだった俺に、過去と向き合う勇気をくれたのはあなたです。そして、あの時失った懐中時計の代わりに……俺が自分の足で働き、自分の意思で稼ぎ出した最初の報酬を、ここに納めます。金額の定めはないと言われましたが、今の俺が過去を乗り越えて手に入れた『新しい現在』の価値です。どうか、受け取ってください」
甲斐吽は静かに封筒に目を落とし、やがて満足げに頷いた。
「受け取りましょう。あなたが祖父の影を振り払い、自分の足で大地を踏みしめて勝ち得た未来の重み、しかと受け止めました」
そのやり取りを、少し離れた円卓の脇で見守っていた人物がいた。橘翔平だった。
翔平もまた、かつてこの場所で自分の人生を取り戻した一人として、湊の晴れやかな顔を見て安心したように微笑んでいた。
「よかったな、柏木さん。本当に、見違えるほどいい顔になったよ」
「橘さん……。あんたも、あのときは一緒に戦ってくれてありがとうございました。おかげで、俺もようやく前に進めそうです」
二人がしっかりと握手を交わす様子を、甲斐吽は静かに、慈愛を湛えた眼差しで見守っていた。
個人の迷いや因縁を解きほぐす場所として始まったこの家は、今や迷える者たちが自らの足で立ち上がるための、確かな「礎」となっていた。
「過去の因果や時の歪みは、人の心が作り出す幻影に過ぎません。しかし、それを自らの意志で断ち切る強さを持つ者にとって、世界はいつでも新しく生まれ変わるのです」
甲斐吽の重厚な声が部屋の隅々にまで響き渡り、空間全体がどこか清々しい気配に満たされていく。
用事を終えた湊と翔平は、並んで古びた引き戸を開け、外の世界へと歩き出した。
戸を閉め、振り返ると、そこには相変わらず看板のない、ただの古い木造家屋しかなかった。
だが、二人が感じている世界の輝きは、以前とは全く違っていた。
頭上にはどこまでも高く澄み渡った春の青空が広がり、鹿児島市内の街並みは、これから始まる新しい物語の予感に満ち溢れて輝いていた。
それぞれの道を歩み始めた男たちの背中を、あたたかな春風が優しく押し続けている。
第 18話(完)