湿った夜気に煙る歪んだ鹿児島市内の街並みの中で、柏木湊は目の前に佇む祖父の幻影を見据えていた。
薄汚れた作業着に身を包み、うなだれるように立ち尽くす初老の男――目の前の祖父の手には、光を失った古い懐中時計が握られている。
その周囲を取り囲む空気は、まるで過去のやり場のない後悔と澱んだ諦念そのものが具現化したかのように、重く冷たく凍りついていた。
「……じいさん」
湊がかすれた声で呟くと、幻影の祖父はふと顔を上げた。
しかし、その瞳に孫の姿は映っていない。
彼の視線の先にあるのは、何十年も前に自分が下し、人生の歯車を狂わせることになった「あの日の決定的な選択」そのものだった。
「あのとき……俺があの仕事を断っていれば、あんな事故は起きなかったのか……? みんなに迷惑をかけず、平穏に生きられたのか……?」
幻影の呟きが、夜の静寂の中に虚しく溶けていく。
その言葉が発せられた瞬間、祖父の手にある壊れた懐中時計から、どす黒いノイズのような歪みが噴き出し、周囲の空間を激しく揺らし始めた。
「過去の男が囚われているのは、『選ばなかったもう一つの未来への後悔』です。もしあのとき別の道を選んでいればという幻想にしがみつき、現在の足元まで見失っている」
阿門甲斐吽は微動だにせず、一歩引いた位置から冷静に状況を分析し、鋭い眼光を走らせた。
「あのままでは、祖父の後悔の澱がこの空間全体を飲み込み、湊くんまで過去の迷宮の住人になってしまう!」
橘翔平が危機感を募らせて声を張り上げる。
実際、湊が手にしている懐中時計の青白い光はみるみるうちに弱まり、湊自身の足元から影のように黒い霧が這い上がろうとしていた。
「くそっ……! じいさんのせいで、なんで俺がこんな目に……!」
恐怖と焦燥から、湊は思わずその場に膝をつきかけた。
だが、その瞬間、脳裏によみがえったのは、数日前からこの奇妙な家へ導かれ、自分の弱さや現実と向き合ってきた記憶だった。
自分もかつては、目の前のプレッシャーや恐怖から逃げ出したいばかりだった。
この祖父もまた、過酷な現実と責任の重さに押し潰され、どうしようもなかったのではないか。
「……違う。じいさんは、逃げたわけじゃない……」
湊はぐっと歯を食いしばり、ふらつく足取りで立ち上がった。
そして、怯えを振り払うように、幻影の祖父のまっすぐ前に歩み寄る。
「じいさん! あんたがどんな選択をして、どんな後悔を抱えてたって関係ねぇよ! 俺の知ってるじいさんは、そんな暗い顔で過去ばかり振り返るような男じゃなかったはずだ!」
湊の叫び声が、歪んだ空間を鋭く切り裂いた。
その声に反応するように、幻影の祖父がゆっくりと顔を向けた。
その表情には、長年囚われていた呪縛がわずかに揺らぐような驚きの色が浮かんでいる。
「お前は……誰だ……?」
「俺は、あんたの孫の湊だ! あんたが遺したその時計のせいで、今こうして俺が過去に引きずり込まれてるんだよ! だから、過去に捕らわれて|いつまでも甘ったれたこと言うな! あんたが選んだその人生の結末がどうあれ、その血を受け継いで今ここに立っている俺が、全部引き受けてやる!」
湊の叫びには、もはや逃避の感情は一切なかった。
先祖の過ちを自分のせいにして絶望するのではなく、不完全な過去をも含めてすべてを受け入れ、自分の足で未来を切り拓くという、強い覚悟の響きが込められていた。
その瞬間、湊の手に握られていた懐中時計が、これまでとは比較にならないほどのまばゆい青白い光を放ち始めた。
「見事です、柏木湊」
甲斐吽の重厚な声が響き渡る。
「過去を変えることは誰にもできません。だが、過去の重みを受け入れ、現在を生きる自分の意思でその因果を断ち切ることはできる。……今こそ、時空の歪みを正す時です!」
甲斐吽が胸元から取り出した一枚の御札を掲げ、低く力強い祝詞を唱える。
「掛けまくも畏き天地の大御神たちの大前に、畏み畏みも白す……過去の影を払い、現在の理を正せ!」
言霊の奔流が空間を満たし、湊の懐中時計の光と完全に共鳴した。
バチバチと激しい火花のような閃光が走り、幻影の祖父の姿が、穏やかな笑みを浮かべながらゆっくりと光の粒子へと溶けていく。
祖父の手から離れたもう一つの懐中時計は、音を立てて砕け散り、霧のように消え去っていった。
周囲を覆っていた歪んだ街の景色がガラスのようにヒビ割れ、次々と崩れ落ちていく。
「おわああっ……!」
強烈な光と浮遊感に包まれ、湊と翔平は同時に目を閉じた。
* * *
ハッと息を呑んで目を開けると、そこは先ほどまでいたはずの古い木造家屋の薄暗い円卓の前だった。
天井の乾いた植物が静かに揺れ、中央の蝋燭が一筋の炎を安定させて燃えている。
時間が凍りついたかのような、いつもの静寂が戻っていた。
「……ここは……戻ってきたのか……?」
湊が荒い息を整えながら自分の両手を見ると、そこにはもうあの不気味に光る懐中時計はなく、ただの古い金属片すら残されていなかった。
すべては夢だったのかと思わせるほど、手元は軽くなっていた。
「夢ではありません。あなたは見事に、一族の因果の連鎖を断ち切り、過去の亡霊から未来を取り戻したのです」
丸椅子の背に手を掛けた阿門甲斐吽が、静かにうなずきながら告げた。
傍らで深く息をついていた橘翔平も、ホッとした表情で湊の肩を叩いた。
「よかったな、柏木さん。本当にお疲れ様でした」
湊は自分の胸元に手を当て、力強く息を吸い込んだ。
胸のつかえが綺麗に消え去り、これからの現実を自分の足で歩んでいくための確かな実感が、全身に満ち満ちていた。
鹿児島を揺るがした時空の歪みは消え去り、春の夜気は静かに、しかし確実に新しい明日へと向かって動き始めていた。
第 17話(完)