四月に入り、鹿児島市内の気候はすっかり穏やかな春の陽気に包まれていた。
桜島の噴煙はうららかな青空に真っ直ぐ高く昇り、天文館の街並みには新生活を始めた人々の活気ある足音が響き渡っている。
季節は確実に巡り、新しい物語の始まりを告げるかのように明るい光に満ちていた。
市電がガタンゴトンとレールの音を響かせて通り過ぎ、街は新年度の活気と、どこか浮き立つような軽やかな空気に包まれている。
その華やかな大通りから一歩脇へ折れ、古い雑居ビルが肩を寄せ合う静まり返った路地裏。
看板もなく、表札すら掲げられていないその黒い板壁の家は、相変わらず周囲の喧騒を遮断するようにひっそりと佇んでいた。
かつて柏木湊が持ち込んだ時空の歪みや、一族の因果を巡る激しい嵐が嘘のように、今はただ静寂と沈香の香りが空間を満たしている。
アスファルトの照り返しが強くなる昼間の暑さとは裏腹に、この路地裏の一角だけは、いつでもひんやりとした古い木の香りと、どこか懐かしい埃っぽさが混ざり合った独特の空気が流れていた。
円卓の上では、一筋の蝋燭が穏やかな炎を揺らしていた。
阿門甲斐吽は、その薄暗い部屋の奥から静かに姿を現した。
彼の双眸には、いつもの底知れぬ光だけでなく、どこか遠くを見据えるような深い思索の色が宿っている。
手には古びた数珠を持ち、ゆっくりと指の間で繰りながら、彼は壁際に吊るされた無数の民族調の仮面や、天井から下がる乾いた植物の群れに目をやった。
それらの古びた道具や魔除けたちは、これからこの家を訪れる新たな相談者の気配を察知したかのように、わずかにざわめくように揺れていた。
あれから数週間、個人の迷いを断ち切る者も、過去の因果を乗り越えた者もそれぞれの現実へと戻っていき、この家には再び静かな時間が流れていた。
橘翔平は職場で新たな部下を率いて着実に実績を積み重ね、柏木湊もまた祖父の残した手帳を手がかりに、自分の足で新しい仕事と向き合い始めている。
それぞれの場所で、彼らはこの家で得た気づきを胸に、しっかりと現実を生きていた。
しかし、甲斐吽の直感は告げていた。
この平穏は長くは続かない。
鹿児島という街の表層の下で、新たな因果の波紋が密かに広がり始めていることを、彼は肌で感じ取っていたのだ。
人間の欲望や後悔、そして隠し通せない秘密というものは、どれだけ時が経っても消えることはなく、形を変えて再び巡ってくるものだった。
「……そろそろ、動き出す頃か」
甲斐吽が低く呟いたその時、外の路地裏から、トントンと控えめでありながら、どこか焦りを帯びたノックの音が響いた。
これまで訪れたどの相談者とも違う、静かで、しかし切迫した響きを持ったノックだった。
荒々しく引き開けられるのではなく、恐る恐るスライドさせられるように、古びた木製の引き戸が重苦しい音を立てて開いた。
その摩擦音は、まるで長い間閉ざされていた心の扉が無理やりこじ開けられるような、そんな不気味な余韻を残していた。
「……あの、すみません……」
隙間から差し込んできたのは、春の夜気と、どこか冷ややかな不安の匂いだった。
そこに立っていたのは、三十代前半の女性――相沢真由美だった。
トレンチコートに身を包み、その顔面は青ざめ、両手でしっかりと抱え込んだ古い革製のトランクケースが細かく震えている。
彼女の双眸には、深い絶望と、誰にも言えない秘密を抱え込んだ者の怯えが色濃く滲んでいた。
コートの裾には少し泥が跳ねており、彼女がここへ辿り着くまでにどれほど迷い、どれほど怯えながら歩いてきたのかを物語っていた。
「……相沢真由美」
甲斐吽が静かにその名前を告げると、真由美はビクリと肩を震わせ、薄暗い部屋の奥に立つ男の姿を確認して息を呑んだ。
心臓の鼓動が早鐘のように鳴り響いているのが、静まり返った部屋の中でも聞こえるほどだった。
「な、どうして私の名前が……。やっぱり、噂通り……ここは、過去も未来もすべて見通せる場所なんですね……」
真由美の声はかすれ、まるで自分の足で立っているのがやっとだと言わばかりに、その場に崩れそうになっていた。
彼女の額には脂汗がにじみ、トランクを抱える指先は白くなるほど強く締め付けられていた。
甲斐吽は静かに丸椅子の背を引いた。
その無言の誘いは、冷え切った彼女の心を包み込むような、不思議な安心感を湛えていた。
「冷える夜だ。中に入りなさい。あなたがその重いトランクに何を隠し、どのような迷いを抱えてここに辿り着いたのか、すべてここで解き明かしましょう」
甲斐吽の落ち着いた低い声を聞くと、真由美はわずかに安堵の色を浮かべたが、すぐにまた恐怖に満ちた表情へと戻った。
彼女はぐっと唇を噛み締めると、重い足取りで一歩、また一歩と部屋のなかに足を踏み入れた。
足を踏み入れた真由美は、薄暗い室内の異様な雰囲気に圧倒されそうになった。
壁一面を埋め尽くす不気味な仮面、天井からぶら下がる煤けた植物、そして中央の円卓の上で怪しく揺れる一筋の蝋燭の炎。
普通の人間であれば悲鳴を上げて逃げ出すような空間だったが、今の彼女には、この世の常識から外れたその場所だけが、唯一自分の秘密を打ち明けられる最後の隠れ家のように感じられたのだ。
真由美はおずおずと足を進め、円卓の前に置かれた丸椅子に腰掛けた。
トレンチコートのポケットから震える手を抜き、持ってきた古い革製のトランクケースをそっと足元に置いた。
その瞬間、トランクの中から、まるで生き物のようにかすかな脈動と、異質な冷気が漂ってきた。
金属の留め具がわずかにカタカタと鳴り、中に入っている何者かが外へ出たがっているかのような、不気味な気配を放ち始めたのだ。
柏木湊の件に続き、今度は「隠された秘密と失われた記憶」を巡る新たな因果の扉が、音を立てて開かれようとしていた。
真由美が抱えるトランクの中身とは一体何なのか。
そして、彼女が過去に犯した、あるいは背負わされた秘密とは何なのか。
甲斐吽は静かにテーブルの上に布を広げ、新たな試練の訪れを告げるタロットカードに手を伸ばした。
その指先がカードに触れた瞬間、部屋の空気がピリッと引き締まり、歴史の歯車が再び重く音を立てて回り始めた。
第 19話(完)