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第八章 ムカデと蜂

 ムカデの室は、蛇の室より不快だった。


 蛇は音で来る。ずるりという音が暗闇から聞こえて、「いる」と分かる。方向が分かる。距離が分かる。対処のしようがある。


 ムカデは音がしない。


 暗闇の中に入った瞬間——腕に何かが触れた。細い脚。無数の脚。一匹のムカデの脚が何十本もあり、その一匹が腕を横切っていく。足の裏に一匹。首の後ろに一匹。髪の中に一匹。


 全身にいた。


 壁にも天井にも床にもいた。足を踏み出すたびに何匹か踏む。踏んだ感触が足の裏に来る。柔らかくて、ぐにゃりとして——考えるのをやめた。考えると吐く。


 比礼を振った。一枚目。


 一回。二回。三回。


 ムカデが——退いた。蛇のときと同じだ。比礼の力が空間を覆って、ムカデが壁の隙間に逃げ込んでいく。脚の音がかさかさと遠ざかっていく。


 いなくなった。


 腕についた感触が残っていた。冷たい脚の跡。拭いた。拭いても感覚が残る。蛇の室では音だけだったから後を引かなかったが、ムカデは触覚に来る。しばらく腕を触ると全部ムカデに感じるだろう。


 横になった。


 眠れた。二度死んだ男の神経は頑丈にできている。ムカデの感触が残っていても眠れる。蛇の室で眠れたのだから、これも眠れる。慣れた、とは言いたくないが——慣れつつある。


 朝——朝はないが——目を覚ました。ムカデはいなかった。比礼が光っていた。


 蜂の室に移った。


 蜂は蛇やムカデと違い——音が最初から聞こえていた。


 入る前から聞こえていた。ぶぅぅぅぅん、という低い唸り。壁越しに。ムカデの静かな恐怖と違い、蜂は「ここにいるぞ」と宣言している。


 扉を開けた。


 音が壁になった。


 ぶぅぅぅぅぅぅぅん。


 空気が振動していた。蜂が部屋を埋め尽くしていた。暗闇の中で見えないが——音で分かる。空間全体が蜂でできている。蜂の密度が高すぎて、空気が粘っていた。


 刺される前に——比礼を振った。二枚目。


 一回。ぶぅぅぅんが少し遠くなった。


 二回。蜂が左右に割れた。比礼の風圧で道ができた。


 三回。蜂が——天井に集まった。天井全面に張りついて、動かなくなった。唸りが低くなった。怒っているが、比礼の力で動けない。


 天井を見上げないことにした。見えないからいいが、見えたら二度と眠れなくなるだろう。


 横になった。天井に蜂の大群がいる状態で横になった。理性的には最悪の状態だ。しかし——比礼がある。須勢理毘売がくれた比礼。これがある限り、蜂は降りてこない。


 信じていいのか。


 信じた。一度目の蛇で信じて、二度目のムカデで確認して、三度目の蜂で——もう疑わなかった。


 眠った。


 また朝が来た。蜂は天井にいた。動いていなかった。比礼がまだ光っていた。


 蜂の室を出た。


 通路にスサノオが立っていた。


 壁にもたれて腕を組んでいる。老いた体。しかし壁にもたれる姿が——妙に若く見えた。この立ち方を昔からしていたのだろう。若い頃からの癖が、老いた体に残っている。


「——三つ乗り越えたか。」


「ああ」


「蛇。ムカデ。蜂。全て——娘の比礼で。」


「ああ」


 隠す理由がない。自力で乗り越えたのではない。須勢理毘売の比礼がなければ、三つとも死んでいた。


 スサノオが俺を見ていた。長い間。


「……お前は——力がないな。」


「ない」


「蛇の室に一人で入れば噛まれて死ぬ。ムカデに囲まれれば毒で死ぬ。蜂に刺されれば腫れて死ぬ。」


「たぶん死ぬ」


「それでも——生きている。」


「比礼があったから」


「そうだ。」


 スサノオが壁から背を離した。一歩近づいてきた。老いた嵐がかすかに揺れた。


「縁が助けている。」


「……縁」


「娘がお前を選んだ。お前のために比礼を渡した。お前は——力で乗り越えたのではない。縁で乗り越えた。」


 力で乗り越えたのではない。確かにその通りだ。俺は蛇を退ける力がない。ムカデを倒す力もない。蜂を制する力もない。あるのは——須勢理毘売がくれた布だけだ。


「俺は——」


 スサノオが言いかけて、止まった。何かを飲み込んだ顔をした。言おうとして、やめて、別の言い方を探している顔。


「俺は若い頃——嵐で何もかも吹き飛ばした。」


「…………」


「力で壊した。力で守った。力で——全部やった。一人でやった。」


 嵐の神。その名の通り。力で道を切り開いた神。


「お前は違う。力がない。代わりに——縁がある。」


「縁があるというより——助けてもらっているだけだ」


「同じことだ。」


 スサノオが——笑った。老いた笑い。皺が深くなった。しかし目の奥に——金色の残光があった。


「助けてもらえることが力だ。誰も助けない奴は——助けてもらえない。お前は白兎を助けた。兎がお前を助けた。娘がお前を選んだ。娘の比礼がお前を守った。全部——繋がっている。」


「…………」


「俺とは違う守護の形だ。」


 二度目だった。前にも同じことを言った。蛇の室の後に。しかし今度は——言葉の重さが違った。三つの試練を全て縁で乗り越えた後に言われると、確認ではなく——確信の言葉になっていた。


 スサノオが背を向けた。歩き出した。


「次だ。」


「まだあるのか」


「最後の一つだ。」


「……蛇、ムカデ、蜂の次は何だ。虫の類は出尽くしたと思いたいが」


「火だ。」


「火」


「原野で待っていろ。」


 スサノオが通路の奥に消えていった。老いた嵐が残像のように揺れて、消えた。


 火。


 蛇でもムカデでも蜂でもなく——火。


 比礼で退けられるのか。退けられないだろう。比礼は生き物を退ける布だ。火は生き物ではない。


 須勢理毘売が——通路の奥から来た。


 白い肌が暗闇に浮かぶ。いつもの登場の仕方。しかし今日は——距離が少しだけ近かった。いつもより一歩近い場所に立った。


「聞いていたか」


「……少し」


「火だと」


「はい。原野の試練です。父が——四方から火を放ちます。逃げ場がなくなります。」


「比礼は」


「……効きません。火には」


「だろうな」


「…………」


 須勢理毘売の目が——暗かった。藍色の光がいつもより沈んでいた。


「……心配しているのか」


「していません。」


「嘘だな」


「…………嘘です」


 二度死んだ目は嘘が見える。この女の嘘は特に見えやすい。嘘をつき慣れていないからだ。地の底では嘘をつく相手がいなかった。


「——比礼がなくても乗り越えたものがある」


「何ですか」


「焼けた岩。木に挟まれたこと。二度死んで——蘇った」


「…………」


「火で死んだら——三度目だ。三度目は蘇れないと母に言われた。だから死なないようにする」


「どうやって」


「分からない。しかし——ここにいたから、何かがある。来てみれば分かる」


 自分で言って、自分でも根拠がないと思った。しかし——ここまでそうだった。白兎がいたから蒲の穂を塗った。八上比売がいたから選ばれた。須勢理毘売がいたから比礼を得た。ここにいれば——何かがある。


 須勢理毘売が俺の手に触れた。冷たい指先。しかし——昨夜より少しだけ温かかった。


「……死なないでください」


「死なない」


「嘘じゃなく」


「嘘じゃない。——連れて行くと言った。地上に。約束した」


 須勢理毘売の口元が——動いた。笑い。目は変わらない。しかし口元の形が、いつもの笑いと少しだけ違った。何が違うかは分からなかったが——違った。


 手が離れた。須勢理毘売が暗闇に戻っていった。


 俺は通路を歩いた。原野に向かって。地の底の原野。火が待っている原野。


 比礼はない。力もない。


 あるのは——二度死んだ体と、連れて行くという約束と、「ここにいたから」という根拠のない確信だけだ。

ご拝読いただきありがとうございました!

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