第七章 最初の夜
蛇の室を出て、通路を歩いた。
スサノオが「次はムカデと蜂の室だ」と言った。明日。今日はもう終わりらしい。試練は一日一つ。死にかけるのも一日一回。ありがたい。
宮殿の隅に——客間のような空間があった。岩の壁と床。苔の橙色の光だけがかすかに灯っている。ほとんど暗い。寝る場所らしい。
横になった。背中に岩の冷たさ。蛇の室より柔らかい——苔が敷いてある。誰かが敷いてくれたのか。
目を閉じた。暗闇の中で暗闇に目を閉じる。二重の闇。ここでは目を開けても閉じても変わらない。
足音がした。
軽い足音。石の上を裸足で歩く音。
目を開けた——開けても見えなかった。苔の光が消えていた。完全な暗闇。
「——乗り越えたから来た。」
須勢理毘売の声だった。
近い。すぐそばにいる。しかし見えない。暗闘が完全すぎて、あの白い肌すら見えない。
「……須勢理毘売」
「死ぬかもしれなかった。でも——乗り越えた。だから来た。」
論理は通っている。通っているが——いつの間に来た。気配がなかった。暗闇の中で、この女は音もなく動ける。地の底で育った体は、暗闇が庭だ。
「……何をしに」
「言った。契りを交わしたいと。」
「……今、か」
「試練の途中で死ぬかもしれない。明日のムカデと蜂の室で。だから——今。」
理屈は正しい。正しいが——展開が速すぎないか。出会って半日だ。名乗りを交わして、蛇の室を乗り越えて、まだ半日しか経っていない。
しかし——この女にとっては、半日で十分なのだ。見て、決めて、来た。それだけの話。
「……暗い」
「ここはいつも暗い。」
「顔が見えない」
「目を閉じなくていいです。どうせ見えないから。」
笑った。口だけが笑っている声だった。暗闘の中では口の笑いも目の無表情も分からない。声だけが——少しだけ、温度を持っていた。
手が触れた。
冷たかった。
須勢理毘売の手が俺の手に触れた。指先から。冷たい指先。地の底の温度。生き物の体温としては低すぎる。しかし——生きている手だった。脈が触れた。細い脈が指先に伝わっていた。
俺の手は——温かいらしい。
「……温かい」
須勢理毘売が言った。
「あなたの手は——温かい。地上の温度ですか。」
「たぶん。地上ではこれが普通だ」
「……普通」
その一言に——何かが入っていた。普通。地上では普通の温かさ。ここでは——異常な温かさ。須勢理毘売はこの温度を知らなかった。温かい手に触れたことがなかった。
父の手は——温かくなかったのか。スサノオの手は。
聞かなかった。聞いてはいけない気がした。
指が絡んだ。俺の指と、須勢理毘売の指が。温かいものと冷たいものが。温度が混ざっていく。俺の手が少し冷え、須勢理毘売の指が少し温まる。
「——地上を教えてください。」
声が変わっていた。さっきまでの決断的な声ではなかった。もっと——低い場所から来る声。願いの声。
「地上を」
「はい。どんな場所ですか。光が——あるのですか。」
「ある。太陽がある。空がある。空の色は——時間で変わる。朝は白い。昼は青い。夕方はオレンジで、夜は黒い」
「……色が変わる」
「ああ。ここは——変わらないのか」
「変わりません。いつも同じ暗さです。光は——生きているものからしか出ません。死んだら暗くなります」
暗闇の中で、須勢理毘売の声を聞いていた。この女は地上を知らない。色が変わる空を知らない。太陽の温かさを知らない。
しかし——知りたがっている。
冷たい手が——俺の腕を辿った。手首から肘へ。肘から肩へ。触覚で俺の体を確かめている。暗闇の中では、触れることだけが「見る」ことだ。
「……あなたの肌は——温かい。どこを触っても。」
「地上の人間は——全身温かい」
「全身。」
「ああ」
「…………すごい」
すごい、と言った。温かいことが「すごい」。この女にとっては——温度そのものが驚きなのだ。
須勢理毘売の肌に触れた。
冷たかった。想像より冷たかった。手だけではなく——腕も、肩も、首筋も。触れるものが全て冷たい。
肩から鎖骨を辿った。細い骨の輪郭が指先に伝わる。鎖骨の窪みに指が落ちた。脈が触れた。冷たい肌の下で、確かに血が流れている。
胸に触れた。
小さかった。地の底の食べ物だけで育った体だ。しかし——冷たい肌の下に、柔らかさがあった。指先で触れると須勢理毘売の息が変わった。短く吸って、長く吐いた。
「……そこは」
「痛いか」
「痛くない。——知らない感覚がする」
知らない感覚。この女は自分の体に触れられたことがない。地の底には父しかいなかった。誰にも触れられずに育った体が——初めて他人の手を知っている。
「……温かい。手が」
「ああ」
「そこも——温かくなる。あなたが触れたところが」
触れた場所の温度が変わっていく。冷たかった肌が、俺の手の温度を吸い取って、少しずつ温まる。胸の先端が指先に触れたとき、須勢理毘売が声を——飲み込んだ。声にならない息が、暗闇に漏れた。
「……地上の人間は——こうするのですか」
「……たぶん」
「たぶん。」
「俺も詳しくはない」
「…………」
須勢理毘売の手が——俺の体を探った。暗闇の中で、触覚だけを頼りに。胸に触れた。腹に触れた。下腹に——触れた。
躊躇がなかった。恥じらいが——ない。地上の女なら手が止まる場所で、この女は止まらなかった。暗闇で育った体にとって、体の部位に上下の区別がない。全て等しく「知らない場所」だ。
「……ここも温かい」
「……ああ」
「全部温かい。——全部違う」
全部違う。地上の体と地の底の体は全部違う。温度が違う。硬さが違う。
須勢理毘売の腰に手を回した。細かった。片手で回るほど細い腰。しかし腰の骨は硬かった。地の底で岩の上を歩いてきた体は、骨だけが硬い。
脚に触れた。腿の内側は——他のどこよりも冷たかった。冷たくて、柔らかくて、指が沈んだ。須勢理毘売の呼吸がまた変わった。短くなった。
「——教えてください」
「何を」
「全部。地上の——全部を」
暗闇の中で、二つの体が重なった。
冷たい体が温かい体を受け入れたとき、須勢理毘売が——声を出した。初めて聞く声だった。口だけが笑う声でも、決断的な声でも、願いの声でもない。もっと深い場所から出てきた、制御されていない声。
暗闇の中では声だけが全てだ。その声が——何よりも正直だった。
冷たい肌と温かい肌が触れて、温度が均されて、やがてどちらがどちらか分からなくなった。須勢理毘売の息が温かくなった。体の芯にあった小さな熱源が外側に出てきて、全身に広がっていった。
終わった後——暗闇の中で、二つの呼吸だけが聞こえていた。
「……いつか地上に連れて行ってください。」
声が震えていた。小さく。ほんの少しだけ。終わった後の声は、始まる前の声より——柔らかかった。
「連れて行く」
「……本当に」
「嘘はつかない」
「…………」
冷たい額が、俺の胸に触れた。須勢理毘売が寄りかかった。汗が——あった。冷たい体にも汗はかくらしい。しかしその汗すら冷たかった。
「……温かい」
二度目の「温かい」は、一度目より——静かだった。
朝——朝はないが——目を覚ました。
須勢理毘売はもう起きていた。
苔の橙色の光が薄く戻っていて——須勢理毘売の横顔が見えた。白い肌。黒い髪が頬にかかっている。藍色の目が——俺を見ていた。
暗闇で見えなかった顔が、今は見えた。
口元が——動いていた。笑っている。いつもの、口だけの笑い。
しかし——目が、少しだけ違っていた。
藍色の光が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。気のせいかもしれない。苔の光の加減かもしれない。しかし——昨日より、目の温度が上がった気がした。
「……起きていたのか」
「ずっと。」
「……眠らなかったのか」
「眠れなかった。温かかったから。」
温かくて眠れない。地の底の姫にとって、温かさは刺激だったのだ。冷たい世界で育った体に、一晩分の温度が入ってきて——眠れなかった。
「……すまない」
「謝らないでください。」
「…………」
「温かかった。——初めてだった。全部。」
全部。
この「全部」に何が含まれているか——聞かなかった。
須勢理毘売が立ち上がった。黒い神衣を直した。暗闇の中でも手際がいい。この場所で育った体は、暗闇で着替えることに慣れている。
「ムカデと蜂の室は——蛇より危険です。」
「ああ」
「比礼を二枚渡します。一枚はムカデ用。一枚は蜂用。」
「……また助けてくれるのか」
「契りを交わした相手が死んだら——困る。」
困る。感情ではなく実用として言っている——ように聞こえたが、声の温度が昨夜から少し上がっていた。冷たい声が、かすかに温かくなっている。
「行きなさい。」
比礼を二枚、手に押し込まれた。
「乗り越えたら——また来ます。」
足音が遠ざかっていった。裸足の軽い音。暗闇に溶けていく音。
俺は岩の上に座ったまま、手の中の比礼を見た。苔の薄い光に照らされて、青白く光っている。須勢理毘売の力が宿った布。
手が温かかった。自分の手が。いつもより温かい気がした。
あの冷たい肌に触れたから——対比で温かく感じるのか。それとも——何かをもらったのか。
分からない。しかし——手が温かかった。
その温かさを持って、ムカデと蜂の室に向かった。
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