表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/42

第五章 根の堅洲国

 光がなかった。


 太陽の光がなかった。月の光もなかった。星もなかった。空がなかった。空がない場所に立っていた。


 代わりに——光っているものがあった。


 足元の草が光っていた。緑色の光。葉の一枚一枚が、内側から薄く発光している。踏むと光が強くなった。踏まなくても——揺れると光る。風がないのに揺れる。この草は自分で動いている。


 壁があった。岩の壁。根の堅洲国ねのかたすくには地の底にあるから、天井も壁も岩でできている。その岩の表面に——菌類が張りついていた。青白い菌類。びっしりと。発光している。青白い光が岩壁を覆って、洞窟全体を薄明るくしていた。


 虫がいた。黄緑色の虫が宙を漂っていた。蛍に似ているが蛍ではない。もっと小さい。粒のような虫が数えきれないほど浮かんでいて、空気そのものが光っている錯覚を与えていた。


 岩の裾に苔が生えていた。橙色の苔。触ると温かかった。この世界で温度を持っているものは珍しいらしく、苔のある場所にだけ——虫が集まっていた。


 美しかった。


 光がない場所なのに、光っている。太陽がないのに明るい。暗闇ではなく——暗闇の中に、生きているものだけが光を出している世界。死んだものは光らない。生きているものだけが光る。


 だから——暗い場所は、何も生きていない場所だということだ。


 暗い場所が——あった。


 通路の奥に、光が途切れる場所がある。草も菌類も苔も虫もいない場所。そこだけが——完全に暗い。


 音がした。


 暗い場所から。ずるり、と。何かが這う音。鱗が岩をこする音。


 蛇だ。


 見えない。暗いから。しかし音は聞こえる。一匹ではない。何匹もいる。ずるり。ずるり。ずるり。暗闇の中で、蛇が動いている。


 足が止まった。


 蛇に噛まれたら三度目の死になるかもしれない。三度目はない。母がそう言った。カミムスビに三度は頼めない。


 立ち止まっていた。暗い通路の手前で。蛇の音を聞きながら。


「——また来ましたね。」


 声がした。


 振り向いた。


 黒い炎が揺れていた。


 ヒサメだった。灰白色の肌。目のない顔。笑顔。蝋燭の黒い炎。因幡いなばの宿で会った、あの子供。


「……お前、ここにいるのか」


「いつもここにいます。」


「いつも?」


「ここは——私の場所です。」


挿絵(By みてみん)


 因幡いなばでは違和感があった。草の陰に一瞬見えたとき、小屋に現れたとき、この子供は「場違い」に見えた。地上にいるべきではない存在が、地上にいた。


 しかし——ここでは違った。


 根の堅洲国ねのかたすくにの暗闇の中で、黒い炎が揺れている。この子供は——ここに馴染んでいた。生物発光の世界の中で、黒い炎だけが「生きていない光」を放っている。それが自然に見えた。


「お前は——ここの住人なのか」


「住人とは少し違います。でも——いつもここにいます。」


「…………」


「奥に——行くのですか。」


「行かなければならない。母にそう言われた」


「蛇がいます。」


「聞こえている」


「怖いですか。」


「……死ぬのは怖くない。二度死んだから」


「怖くないのが怖い——ですか。」


 見抜かれた。目がないのに。


「……ああ」


「——奥に、須勢理様がおられます。」


「須勢理」


須勢理毘売すせりびめ様。この場所の——姫です。」


「姫がいるのか。ここに」


「はい。地上を知りません。小さい頃からここで育った方です。」


 地の底で育った姫。太陽を知らない姫。この生物発光だけの世界で大きくなった姫。


「……母は」


「——おられません。」


 短かった。ヒサメの答えが。それ以上は聞かなかった。聞ける空気ではなかった。


「……それと——もう一人。」


 ヒサメの黒い炎が、少し大きく揺れた。


「——須勢理様の父が、おられます。」


「父」


「嵐の神です。」


 嵐の神。スサノオ。清い川を残した大叔父。


「スサノオが——ここにいるのか」


「はい。ずっと。」


 ヒサメが——歩き出した。暗い通路に向かって。蛇の音がする方に。


「案内します。」


「蛇は」


「——私がいれば、寄ってきません。」


 なぜかは聞かなかった。この子供が言うなら、そうなのだろう。理由は——「後でわかります」と言われるだけだ。


 ヒサメについて歩いた。黒い炎だけが道を照らしている。蛇の音は——消えた。ヒサメが通ると、暗闇の中の蛇が退いていく。退く音が聞こえた。ずるり、ではなく、すっ、と。逃げるように。


 通路が開けた。


 広い空間に出た。洞窟の中の——宮殿。


 岩で作られた宮殿だった。柱がある。壁がある。天井がある。全てが岩で、全てが菌類の青白い光に照らされている。床に緑の草が生えていて、部屋全体が薄緑に光っている。


 広い宮殿だが——殺風景だった。装飾がない。花もない。布もない。男だけが長く暮らした場所の空気がした。


 部屋の奥に——二つのものがあった。


 一つは赤い光。壁に掛けられた太刀と弓矢。太刀の刃が赤く発光し、弓矢の矢じりが赤く脈打っている。生きているような光。生物発光とは違う——もっと鋭い、切り裂くような赤。


 生太刀いくたち生弓矢いくゆみや。名前を知らなかったが——見た瞬間に、名前が分かった。生きている刃。生きている矢。


 もう一つは——人影だった。


 宮殿の奥、岩の椅子に座っている。大きい。座っているのに大きい。肩幅が広い。しかし——肉がない。骨と皮に近い体。かつて筋肉があった場所が、今は痩せこけている。


 嵐が——あった。


 男の周りに、微かな嵐が纏わりついていた。金色の——いや。金色だったものが、くすんでいた。淡い金色が、もう淡くもなくなった色。老いた嵐。力が枯れかけている嵐。


 しかしそれでも——嵐だった。


 この男が嵐の神だと、一目で分かった。


「——来たか。」


 声が低かった。老いていた。しかし——声の底に、まだ何かが残っていた。かつて山を削り海を荒らした力の残滓。金色の嵐の最後の揺らぎ。


 スサノオ。


 出雲の清い川を残した神。八岐大蛇を鎮めた神。高天原を追われた嵐の神。俺の——大叔父。


「……スサノオ」


大穴牟遅おおなむぢか。」


 名前を知っていた。末弟の荷物持ちの名前を。


「……誰から聞いた」


「ヒサメだ。」


 やはり。この子供は——ここでスサノオに仕えているのか。あるいは仕えるとも違う何かなのか。


 スサノオの目が——俺を見た。


 老いた目だった。しかし目の奥に——見覚えのある光があった。老人が言っていた「荷物持ちに見えない目」。あの言葉の意味が、今分かった。あの老人は——この目を知っていたのだ。スサノオの目を。


「——二度死んだか。」


「……知っているのか」


「目を見れば分かる。二度死んだ目だ。一度だけなら——もう少し浅い。二度死ぬと——そうなる。底が抜ける」


「…………」


「怖いか。」


「死ぬのは怖くない」


「そうじゃない。怖くないことが怖いか、と聞いている」


 また見抜かれた。ヒサメと同じだ。しかしスサノオの場合は——経験から見抜いている。この神も、何かを失って、何かを怖がらなくなった経験があるのだ。


「……ああ。怖い」


 スサノオが——笑った。


 皺だらけの顔が動いた。口元が持ち上がった。目が細くなった。老いた笑い。しかし——温かかった。


「……いい答えだ。怖くないことを怖がる奴は——まだ大丈夫だ」


 立ち上がった。岩の椅子から。骨と皮のような体が伸びた。立つと——でかかった。老いてなお、でかい。俺より頭一つ分高い。


 壁の生太刀いくたち生弓矢いくゆみやを一瞥した。それから俺を見た。


「お前は——何者になりたい」


「分からない。荷物持ちは終わった。しかし——次が何か、分からない」


「ここに来た理由は」


「兄たちに殺されるから。母に言われた。ここに行けと」


「逃げてきたのか」


「……ああ」


 嘘はつかない。逃げてきた。消去法でここを選んだ。


 スサノオが——俺を見つめた。長い間。老いた嵐が、かすかに揺れた。


「——試してやろう。」


「試す」


「お前が何者になれるか——俺が試す。」


 スサノオの目が変わった。老いた穏やかさが消えて——底の方から、何かが上がってきた。かつて嵐だったものの残骸。枯れかけていても、なお残っている力。


「蛇の室で眠れ。一晩。生きていたら——次を出す。」


「蛇の室」


「蛇がいる部屋だ。さっき通路で聞いただろう。あれが部屋にいる。そこで眠れ。」


 蛇。さっきヒサメが退けてくれた蛇。あの音。ずるり。ずるり。あの中で——眠れ?


「……死んだらどうする」


「死なない奴を探している。死んだら——用はない。」


 厳しい言葉だった。しかし嘘がなかった。スサノオは嘘をつく神ではないらしい。


 大叔父が背を向けた。


 老いた嵐が——一瞬だけ、金色に光った。残響。かつてこの嵐は金色だった。今はくすんでいる。しかし——一瞬だけ、光った。


 俺はその背中を見ていた。


 この神がかつて何をしたのか、詳しくは知らない。川を清くした。八岐大蛇を鎮めた。高天原から追われた。それくらいしか知らない。


 しかし——この背中は知っている。


 何かを守って、何かを失って、それでもまだ立っている背中だ。


「ヒサメ。」


 呼んだ。黒い炎が揺れた。


「蛇の室は——どこだ」


「こちらです。」


 ヒサメについて歩いた。暗い通路へ。蛇の音が——戻ってきた。


 ずるり。ずるり。ずるり。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


「続きをチェックしたい!」

→ 【ブックマークに追加】をポチッと!


「面白かった!」「続きに期待!」

→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ