第五章 根の堅洲国
光がなかった。
太陽の光がなかった。月の光もなかった。星もなかった。空がなかった。空がない場所に立っていた。
代わりに——光っているものがあった。
足元の草が光っていた。緑色の光。葉の一枚一枚が、内側から薄く発光している。踏むと光が強くなった。踏まなくても——揺れると光る。風がないのに揺れる。この草は自分で動いている。
壁があった。岩の壁。根の堅洲国は地の底にあるから、天井も壁も岩でできている。その岩の表面に——菌類が張りついていた。青白い菌類。びっしりと。発光している。青白い光が岩壁を覆って、洞窟全体を薄明るくしていた。
虫がいた。黄緑色の虫が宙を漂っていた。蛍に似ているが蛍ではない。もっと小さい。粒のような虫が数えきれないほど浮かんでいて、空気そのものが光っている錯覚を与えていた。
岩の裾に苔が生えていた。橙色の苔。触ると温かかった。この世界で温度を持っているものは珍しいらしく、苔のある場所にだけ——虫が集まっていた。
美しかった。
光がない場所なのに、光っている。太陽がないのに明るい。暗闇ではなく——暗闇の中に、生きているものだけが光を出している世界。死んだものは光らない。生きているものだけが光る。
だから——暗い場所は、何も生きていない場所だということだ。
暗い場所が——あった。
通路の奥に、光が途切れる場所がある。草も菌類も苔も虫もいない場所。そこだけが——完全に暗い。
音がした。
暗い場所から。ずるり、と。何かが這う音。鱗が岩をこする音。
蛇だ。
見えない。暗いから。しかし音は聞こえる。一匹ではない。何匹もいる。ずるり。ずるり。ずるり。暗闇の中で、蛇が動いている。
足が止まった。
蛇に噛まれたら三度目の死になるかもしれない。三度目はない。母がそう言った。カミムスビに三度は頼めない。
立ち止まっていた。暗い通路の手前で。蛇の音を聞きながら。
「——また来ましたね。」
声がした。
振り向いた。
黒い炎が揺れていた。
ヒサメだった。灰白色の肌。目のない顔。笑顔。蝋燭の黒い炎。因幡の宿で会った、あの子供。
「……お前、ここにいるのか」
「いつもここにいます。」
「いつも?」
「ここは——私の場所です。」
因幡では違和感があった。草の陰に一瞬見えたとき、小屋に現れたとき、この子供は「場違い」に見えた。地上にいるべきではない存在が、地上にいた。
しかし——ここでは違った。
根の堅洲国の暗闇の中で、黒い炎が揺れている。この子供は——ここに馴染んでいた。生物発光の世界の中で、黒い炎だけが「生きていない光」を放っている。それが自然に見えた。
「お前は——ここの住人なのか」
「住人とは少し違います。でも——いつもここにいます。」
「…………」
「奥に——行くのですか。」
「行かなければならない。母にそう言われた」
「蛇がいます。」
「聞こえている」
「怖いですか。」
「……死ぬのは怖くない。二度死んだから」
「怖くないのが怖い——ですか。」
見抜かれた。目がないのに。
「……ああ」
「——奥に、須勢理様がおられます。」
「須勢理」
「須勢理毘売様。この場所の——姫です。」
「姫がいるのか。ここに」
「はい。地上を知りません。小さい頃からここで育った方です。」
地の底で育った姫。太陽を知らない姫。この生物発光だけの世界で大きくなった姫。
「……母は」
「——おられません。」
短かった。ヒサメの答えが。それ以上は聞かなかった。聞ける空気ではなかった。
「……それと——もう一人。」
ヒサメの黒い炎が、少し大きく揺れた。
「——須勢理様の父が、おられます。」
「父」
「嵐の神です。」
嵐の神。スサノオ。清い川を残した大叔父。
「スサノオが——ここにいるのか」
「はい。ずっと。」
ヒサメが——歩き出した。暗い通路に向かって。蛇の音がする方に。
「案内します。」
「蛇は」
「——私がいれば、寄ってきません。」
なぜかは聞かなかった。この子供が言うなら、そうなのだろう。理由は——「後でわかります」と言われるだけだ。
ヒサメについて歩いた。黒い炎だけが道を照らしている。蛇の音は——消えた。ヒサメが通ると、暗闇の中の蛇が退いていく。退く音が聞こえた。ずるり、ではなく、すっ、と。逃げるように。
通路が開けた。
広い空間に出た。洞窟の中の——宮殿。
岩で作られた宮殿だった。柱がある。壁がある。天井がある。全てが岩で、全てが菌類の青白い光に照らされている。床に緑の草が生えていて、部屋全体が薄緑に光っている。
広い宮殿だが——殺風景だった。装飾がない。花もない。布もない。男だけが長く暮らした場所の空気がした。
部屋の奥に——二つのものがあった。
一つは赤い光。壁に掛けられた太刀と弓矢。太刀の刃が赤く発光し、弓矢の矢じりが赤く脈打っている。生きているような光。生物発光とは違う——もっと鋭い、切り裂くような赤。
生太刀と生弓矢。名前を知らなかったが——見た瞬間に、名前が分かった。生きている刃。生きている矢。
もう一つは——人影だった。
宮殿の奥、岩の椅子に座っている。大きい。座っているのに大きい。肩幅が広い。しかし——肉がない。骨と皮に近い体。かつて筋肉があった場所が、今は痩せこけている。
嵐が——あった。
男の周りに、微かな嵐が纏わりついていた。金色の——いや。金色だったものが、くすんでいた。淡い金色が、もう淡くもなくなった色。老いた嵐。力が枯れかけている嵐。
しかしそれでも——嵐だった。
この男が嵐の神だと、一目で分かった。
「——来たか。」
声が低かった。老いていた。しかし——声の底に、まだ何かが残っていた。かつて山を削り海を荒らした力の残滓。金色の嵐の最後の揺らぎ。
スサノオ。
出雲の清い川を残した神。八岐大蛇を鎮めた神。高天原を追われた嵐の神。俺の——大叔父。
「……スサノオ」
「大穴牟遅か。」
名前を知っていた。末弟の荷物持ちの名前を。
「……誰から聞いた」
「ヒサメだ。」
やはり。この子供は——ここでスサノオに仕えているのか。あるいは仕えるとも違う何かなのか。
スサノオの目が——俺を見た。
老いた目だった。しかし目の奥に——見覚えのある光があった。老人が言っていた「荷物持ちに見えない目」。あの言葉の意味が、今分かった。あの老人は——この目を知っていたのだ。スサノオの目を。
「——二度死んだか。」
「……知っているのか」
「目を見れば分かる。二度死んだ目だ。一度だけなら——もう少し浅い。二度死ぬと——そうなる。底が抜ける」
「…………」
「怖いか。」
「死ぬのは怖くない」
「そうじゃない。怖くないことが怖いか、と聞いている」
また見抜かれた。ヒサメと同じだ。しかしスサノオの場合は——経験から見抜いている。この神も、何かを失って、何かを怖がらなくなった経験があるのだ。
「……ああ。怖い」
スサノオが——笑った。
皺だらけの顔が動いた。口元が持ち上がった。目が細くなった。老いた笑い。しかし——温かかった。
「……いい答えだ。怖くないことを怖がる奴は——まだ大丈夫だ」
立ち上がった。岩の椅子から。骨と皮のような体が伸びた。立つと——でかかった。老いてなお、でかい。俺より頭一つ分高い。
壁の生太刀と生弓矢を一瞥した。それから俺を見た。
「お前は——何者になりたい」
「分からない。荷物持ちは終わった。しかし——次が何か、分からない」
「ここに来た理由は」
「兄たちに殺されるから。母に言われた。ここに行けと」
「逃げてきたのか」
「……ああ」
嘘はつかない。逃げてきた。消去法でここを選んだ。
スサノオが——俺を見つめた。長い間。老いた嵐が、かすかに揺れた。
「——試してやろう。」
「試す」
「お前が何者になれるか——俺が試す。」
スサノオの目が変わった。老いた穏やかさが消えて——底の方から、何かが上がってきた。かつて嵐だったものの残骸。枯れかけていても、なお残っている力。
「蛇の室で眠れ。一晩。生きていたら——次を出す。」
「蛇の室」
「蛇がいる部屋だ。さっき通路で聞いただろう。あれが部屋にいる。そこで眠れ。」
蛇。さっきヒサメが退けてくれた蛇。あの音。ずるり。ずるり。あの中で——眠れ?
「……死んだらどうする」
「死なない奴を探している。死んだら——用はない。」
厳しい言葉だった。しかし嘘がなかった。スサノオは嘘をつく神ではないらしい。
大叔父が背を向けた。
老いた嵐が——一瞬だけ、金色に光った。残響。かつてこの嵐は金色だった。今はくすんでいる。しかし——一瞬だけ、光った。
俺はその背中を見ていた。
この神がかつて何をしたのか、詳しくは知らない。川を清くした。八岐大蛇を鎮めた。高天原から追われた。それくらいしか知らない。
しかし——この背中は知っている。
何かを守って、何かを失って、それでもまだ立っている背中だ。
「ヒサメ。」
呼んだ。黒い炎が揺れた。
「蛇の室は——どこだ」
「こちらです。」
ヒサメについて歩いた。暗い通路へ。蛇の音が——戻ってきた。
ずるり。ずるり。ずるり。
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