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第四十四章 ヒサメ

 暗闇の中を歩いていた。


 どのくらい歩いたか分からない。暗闇には距離がない。時間もない。あるのは——足の裏の大地の感覚と、繋いだ手の冷たさだけ。


 須勢理毘売すせりびめが先を歩いていた。冷たい手で俺の手を引いて。慣れた足取りで。根の堅洲国ねのかたすくにで育った女にとって——暗闇は故郷だ。


「……どこまで歩く」


「もう少しです。——感じませんか。空気が変わった」


 変わっていた。大地の力が濃くなっている。国魂くにたまが強い。地上にいたときより——幽冥かくりよの方が大地に近い。


 当然だ。地上は表面だ。ここは中だ。


「着きました」


 須勢理毘売すせりびめが立ち止まった。


 何も見えない。しかし足の裏で分かった。ここが中心だ。大地の全てがここを通っている。


「何もないが」


「何もなくていい。あなたが『ここにいる』と言えば、ここが場所になる。——いつもそうだったでしょう」


 そうだった。何もない場所にいて、「ここにいる」と言って、そこから始めた。いつも。


 座った。須勢理毘売すせりびめが隣に座った。


 静かだった。地上の音は聞こえない。川の音も風の音も。


 しかし——別の音が聞こえた。


 祈りだった。


 かすかな声が大地を通じて届いていた。


「——大国主おおくにぬしさま。宮の掃除、やっておきましたからな」


 老人の声だった。あの老人。


「……聞こえる」


「聞こえますね」


「本当に聞こえるのか。——俺が決めただけだぞ」


「あなたが決めたことは——だいたい、そうなります」


 須勢理毘売すせりびめが笑った。暗闇の中で。


 しばらく——そうしていた。手を握って。祈りの声を聞いて。


 ——お久しぶりです。


 声がした。


 暗闇の中に——黒い炎が揺れていた。


 蝋燭の炎。しかし黒い。暗闇よりも暗い黒が揺れていた。


 灰白色の肌。目のない顔。笑顔。


 ヒサメ。


「お久しぶりです。——と言いましたが、そうでもないですね。ずっと見ていましたから」


「ずっと?」


「あなたが生まれたときから」


「…………」


大穴牟遅おおなむぢと呼ばれていた頃から。荷物を持って歩いていた頃から。白兎を助けた頃から。——全部、見ていました」


「なぜ」


「……後でわかります。」


「まだ言うのか」


「いいえ。——今回は答えます。『後で』が来たから」


 ヒサメが座った。黒い炎が低くなった。


「本当の名前を言います。——蛭子ひるこ


 蛭子。ヒルコ。


 知っていた。名前は。


 イザナギとイザナミの最初の子。世界を作った二柱の、最初に生まれた子。しかし体が形を成さなかった。蛭のような体で生まれて——葦の舟に乗せられて、海に流された。


 世界が始まる前に捨てられた子。


「……驚いた」


「驚いてくれましたか」


 その言い方が妙に嬉しそうだった。


「怒っているかと聞かれたら——怒っていません。捨てられたとき、私にはまだ心がなかった。心がないものは怒れない」


「……では——なぜ俺を見ていた」


「心は後から生まれました。海を漂っているうちに。島にたどり着いて——世界ができていくのを見ていた。私が流された後に世界が始まった」


「…………」


「きれいでした。——しかし私のものではなかった。始まる前に流されたから。世界に入れない。触れない。見ることしかできない」


 黒い炎が揺れていた。


「父が世界を作った。母が命を生んだ。弟が嵐を起こした。姉が空を照らした。——私だけが何もできなかった。ただ外から見ていた」


「…………」


「そして——あなたが生まれた。小さな子。弱い子。力もない。兄たちの荷物を持って歩いているだけの子」


「……ひどい言われようだな」


「事実です。——しかし」


「しかし」


「白兎が泣いていた。通り過ぎてもよかった。しかしあなたは——ここにいたから助けた。理由はそれだけだった。目の前にいたから手を伸ばした」


「…………」


「それが——私の見たかったものです。世界はきれいだった。しかし誰も立ち止まらなかった。力のある神は力を振るうことに忙しく、力のない者は逃げることに忙しかった。誰も——ここにいる、と言わなかった。あなたが初めてだった」


「……買いかぶりだ」


「買いかぶりではありません。全部見ていた。少名毘古那すくなびこなと道を繋いだのも。枯野かれのを鎮めたのも。国を渡したのも。——全部。楽しかった」


 楽しかった。


 因幡いなばで「楽しいという感覚がよく分からない」と言った子供が。


「分からないと言いました。楽しいが。——嘘でした。あなたを見ていると分かった。世界の外にいても——誰かが『ここにいる』と言っているのを見るのは楽しかった。それが——私があなたのそばに現れた理由です」


 ヒサメの笑顔が——変わった。


 初めて。目のない顔の笑顔が——変わった。何が変わったのか分からない。目がないから目は変わらない。口の形も同じ。しかし——笑顔の奥にあるものが、変わった。


「……ヒサメ。——いや、蛭子ひるこ


「ヒサメでいいです。——蛭子ひるこは、捨てられたときの名前ですから。ヒサメは——自分で選んだ名前です」


「……自分で選んだのか」


「ええ。流されたとき名前はなかった。だから自分でつけた。——それを誰かに呼んでほしかった」


「…………」


「あなたが呼んでくれた。ヒサメ、と。——それだけで十分でした」


「…………」


「一つだけ、お願いがあります」


「何だ」


「忘れられた者を——覚えていてください。幽冥かくりよの主として」


「…………」


幽冥かくりよは祈りの世界です。——ならば忘れられた者の世界でもあるはずだ。流された者。捨てられた者。名前を呼ばれなかった者。そういう者がいていい場所が——あってほしい」


「……ある」


「…………」


「ここがそうだ。——お前が最初の一人だ。ヒサメ。忘れない」


 ヒサメの笑顔は——変わらなかった。


 変わらなかった。泣かなかった。崩れなかった。目のない顔の笑顔は、最初に会ったときと同じだった。因幡いなばの野原で。清い川のそばで。暗闇の中で。いつも同じ笑顔。


 ——しかし。


 黒い炎が——静かに小さくなっていった。


「消えるのか」


「消えません。——ここにいます」


 ヒサメの体が薄くなっていった。暗闇に。暗闇と同じ色の炎は——暗闇に溶けた。見えなくなった。


 しかし——いた。


 この暗闇そのものの中に。幽冥かくりよの暗闇がヒサメだった。世界の外にいた子供が——世界の裏側に、ずっといる。


「……須勢理毘売すせりびめ


「はい」


「聞いていたか」


「聞いていました」


「…………」


「いい約束ですね」


「ああ」


 暗闇の中に二人で座っていた。


 祈りの声が聞こえていた。大地を通じて。あちこちから。小さな神たちが散っていった先から。


 木俣このまたの声が聞こえた。


「お父さん。お母さん。——おやすみなさい」


 ——おやすみ。


 声には出さず。大地を通じて。


 おやすみ。また明日。


 明日が来ると決めた。幽冥かくりよにも朝が来ると決めた。根拠はない。しかし決めた。


 足の裏に大地があった。大地の下に俺がいた。隣に須勢理毘売すせりびめがいた。暗闇の中にヒサメがいた。


 地上に木俣このまたがいた。宮にアメノホヒがいた。海に事代主ことしろぬしがいた。信濃しなの建御名方たけみなかたがいた。


 懐の中に粟の穂と琥珀色の石があった。


 荷物が重い。


 ——しかし、持てる。


 荷物持ちだから。



葦原記——完

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