第四十二章 最後の夜
焚き火を焚いた。
壊された浜で。残った者たちが火の周りに集まった。三十柱の小さな神たち。村人。アメノホヒ。老人が——立ち上がっていた。鍬を杖にして。座り込んでいたが、立った。
「……大国主さま。——俺たちは、ここにいていいんですか」
「いい。——ここにいろ」
「国は——渡したのに」
「大地は渡した。しかしここにいる奴を渡した覚えはない。——お前たちは俺のものじゃない。勝手にここにいろ」
老人が笑った。泣きながら。
飯を炊いた。壊された出雲の中で——炊ける米があった。清い川のそばの蔵が、一つだけ残っていた。スサノオの川が守った場所の蔵。
握り飯を握った。木俣が。十五歳の娘が、手を動かしていた。母が倒れているなら自分がやると、誰にも言われずに立ち上がった。
配った。小さな神たちに。村人に。アメノホヒに。
アメノホヒが——握り飯を受け取って、しばらく見ていた。
「……食わないのか」
「食います。——ただ」
「ただ?」
「これが最後かと思って」
「……最後じゃない。米は作り直す」
「そうですか。——なら、いただきます」
食った。全員で。黙って食った。
うまかった。焼け跡の飯が——うまかった。理由は分からない。
須勢理毘売が少しだけ食べた。木俣が口元に運んで、須勢理毘売が噛んだ。力が入らないから、ゆっくり噛んだ。
「……しょっぱい」
「泣いたから。自分の涙で味が変わったんです」
「泣いてない」
「泣いてました。——見ました」
「…………」
「お母さんが泣いてるの、初めて見ました。——もう一回見たい」
「見たくないでしょう普通」
「きれいでした」
「…………変な子」
「お母さんの子ですから」
須勢理毘売が——笑った。力のない笑い。しかし笑った。
夜が深くなった。
焚き火が小さくなっていった。一人ずつ眠り始めた。小さな神たちが砂の上で丸くなった。村人が肩を寄せ合った。アメノホヒが木の根元にもたれた。
木俣が須勢理毘売のそばで眠った。母の手を握ったまま。
俺は——眠れなかった。
立ち上がって、焚き火から離れた。清い川の方に歩いた。
月が出ていた。細い月。壊された大地の上に、いつもと同じ月。
川は流れていた。天沼矛に焼かれた出雲の中で、この川だけが変わらず流れていた。
川面が——光った。
金色じゃなかった。くすんだ金色。枯れかけた色。見覚えがある。
川の向こうに影が立っていた。大きかった。しかし——昔の「大きい」とは違う。縮んでいた。老いていた。でも立っていた。
スサノオ。
「……来るな。こっちへは来るな」
枯れた声。嵐を失った声。しかし聞いたことのある声。坂の下から叫んだ声。
「渡したそうだな」
「……ああ」
「お前らしい渡し方だ。殴り合いじゃなく言葉で渡した。——俺にはできなかった」
「…………」
「俺は不器用だったからな。試練を出して、武器を投げつけて、坂の下から名前を叫んで。——あんな渡し方、他にいない」
「いない」
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってる。——目が笑ってる。須勢理毘売みたいな目の読み方をしやがって」
「嫁だから」
「…………」
沈黙。川面が揺れた。
「大国主。一つだけ言っておく」
「何だ」
「俺は——クシナダヒメに、ありがとうと言えなかった」
名前が出た。
初めてだった。スサノオの口から——この名前が出たのは。根の堅洲国で、試練の最中で、嵐の残照の中で——一度も出なかった名前。須勢理毘売の母の名前。
「あの女は俺の嵐を止めた。出雲で。櫛になって髪に挿さったまま——俺の嵐を見ていた。怖くないのかと聞いたら『怖い。でもここにいる』と言った」
「……須勢理毘売から聞いた」
「娘にも言わなかった。誰にも言わなかった」
「……なぜ」
「怖かった」
スサノオが——怖い、と言った。嵐の神が。
「ありがとうと言ったら——認めることになる。俺は一人では駄目だった、あの女がいなければ嵐を止められなかった、と。嵐の神が一人の女に救われたと認めたら——もう誰も俺を恐れなくなる。恐れられなくなったら——守れなくなる。俺にはそれしか手段がなかったから」
「…………」
「だから黙っていた。ずっと。あの女の名前を一度も口にせず、礼も言わず、強い神のふりをして根の堅洲国に籠もっていた」
声が震えていた。嵐を失った枯れた声が。
「クシナダヒメはな——俺より先に死んだ。神も死ぬ。力を使い切れば死ぬ。あの女は俺の嵐を受け止め続けて——削れて——」
「…………」
「死ぬ前に会いに行った。何か言おうとした。しかし——口が開かなかった。ずっと黙っていた口は、いざというときにも開かない。結局——何も言えないまま、あの女は目を閉じた」
川面が揺れた。くすんだ金色が——歪んだ。
「ありがとうの五文字だ。たった五文字が言えなかった。言えなかったまま——もう二度と言えなくなった。強い神でいるために黙っていたのに、黙っていたせいで——一番大事なことを伝えられなかった」
「…………」
「馬鹿だろう。——馬鹿だ。俺は」
スサノオの影が小さくなった。光が弱くなっている。
「お前は言え。言えるうちに。須勢理毘売に。ありがとうと」
「…………」
「俺は手放してから気づいた。クシナダヒメの名前を口にしたのが今日が初めてだ。あの女が死んでからずっと——一度も呼ばなかった名前だ。遅すぎる。お前は遅れるな」
「……スサノオ」
「もう行く。根の堅洲国に。もうこっちには来られない。力がない」
「…………」
「大国主。いい名前だろう。俺がつけた」
「名前だけは感謝している」
「名前だけか。生太刀も感謝しろ」
「……ああ。使った」
「なら十分だ」
光が消えた。川面が暗くなった。
ただの川に戻った。しかし流れ続けていた。
月だけが水面に映っていた。
——言え、と言われた。
焚き火に戻った。
ほとんどの者が眠っていた。小さな神たちが砂の上で。村人が。
木俣も眠っていた。須勢理毘売の手を握ったまま。
須勢理毘売は——起きていた。
藍色の目が開いていた。焚き火の残り火が暗い中でわずかに光を投げていて、その光の中で——こちらを見ていた。
「……起きていたのか」
「眠れなかった」
「体は」
「動かないだけです。——頭は起きている」
隣に座った。木俣を起こさないように。
「……川に誰かいましたか」
見ていたのか。いや——聞こえたのか。須勢理毘売の耳は暗闇で鍛えられている。根の堅洲国で、光のない場所で、音だけを頼りに生きてきた耳。
「……スサノオだった」
「…………」
「最後だった。もう来られないと言っていた」
「……そうですか」
静かだった。父がもう来ないと聞いて——須勢理毘売は、静かだった。泣かなかった。取り乱さなかった。
「何か——言っていましたか。父は」
「ああ。——お前の母の名前を言った」
「…………」
「クシナダヒメ、と」
須勢理毘売の目が——揺れた。
「……初めて——聞きました。母の名前を。父の口から」
「初めてだったのか」
「父は——母のことを何も言わなかった。私にも。名前さえ——教えてくれなかった」
「…………」
「根の堅洲国で母が死んだとき——父は何日も暴れた。嵐が荒れた。私は暗闇の中で一人で待っていた。嵐がやむまで。やんだとき——父は何も言わなかった。母のことは二度と口にしなかった。母がいなかったことにするように——」
「——違う」
「…………」
「いなかったことにしたんじゃない。——言えなかったんだ。ありがとうと。言えないまま死なれた。だから——名前を口にできなくなった」
「…………」
「言ったら壊れると思っていたんだ。あの男は」
「……そうですか」
須勢理毘売が——目を閉じた。涙は出なかった。さっき泣き切ったのか。あるいは——この種類の悲しみには涙が出ないのか。
目を開けた。俺を見ていた。
「それで——あなたは何を言いに来たのですか」
「…………」
「川で父の話を聞いて、戻ってきた。——何か、言いに来たのでしょう」
見抜かれている。暗闇で育った目には——全部見えるのだ。
「須勢理毘売」
「はい」
「ありがとう」
「…………」
「護を歌ってくれて。建御名方を育ててくれて。木俣を守ってくれて。地の底から出てきてくれて。——ありがとう」
「……父に言われたから——言うのですか」
「言われたから言う。——しかし言いたかったのは俺だ。言い方を知らなかっただけだ」
「…………」
「スサノオは言えなくて後悔した。俺は後悔したくない。——遅れたくない」
須勢理毘売の藍色の目が——揺れた。口元が動いた。笑おうとした。しかし——笑えなかった。
泣いていた。
地上の光を初めて見たとき、この女は泣いた。しかしあのときの涙は——世界が眩しくて溢れた涙だった。
今は違う。俺の言葉で泣いている。
冷たい肌を伝う涙が温かかった。体は冷たいのに。涙だけが温かかった。
「泣いてるか」
「泣いてません」
「嘘だ」
「……泣いてる」
「…………」
「嬉しいから」
あの日と同じだ。俺が須勢理毘売のために泣いたとき。「嬉しい」と言ったのは俺だった。今度は——返ってきた。
「……私からも——言っていいですか」
「何を」
「ありがとう」
「…………」
「根の堅洲国から連れ出してくれて。空を見せてくれて。木俣のお母さんにしてくれて。建御名方を一緒に育ててくれて。——ここにいてくれて」
「……お前が先に言うな。俺が先に言ったのに」
「先も後もない。——同じことを、同じときに、思っていただけです」
笑った。須勢理毘売が。泣きながら。
俺も——笑った。たぶん。顔がどうなっているか分からなかったが、たぶん笑っていた。
木俣が——寝返りを打った。須勢理毘売の手が離れた。木俣は深く眠っていた。今日一日、誰よりも動いた十五歳の体が——限界だったのだろう。
須勢理毘売が——俺を見ていた。
「……場所を変えませんか」
「場所」
「川辺に。——少しだけ」
体が動かないと言っていた。
「動けるのか」
「……あなたが持ってくれれば」
荷物持ちだった。
重い荷物を持って歩いた。しかし須勢理毘売は軽い。いつも。冷たくて軽い。
抱き上げた。木俣を起こさないように。焚き火から離れた。
川辺に座った。
須勢理毘売を膝に乗せた。冷たい体。しかし——今夜は、冷たさの奥に何かがあった。護を歌い尽くした体。力が空っぽになった体。それでも——生きている温度が、微かにあった。
水の音だけがしていた。月が川面に揺れていた。
「……明日から——幽冥ですね」
「ああ」
「目に見えない世界。——私は、もともと暗闇にいた。慣れています」
「慣れるな。——お前は地上で笑えるようになった。暗闘に慣れるな」
「……暗闇。ですよ」
「…………ああ」
「噛みましたね」
「噛んでない」
「噛みました。——大事な場面なのに」
「…………」
須勢理毘売が笑った。小さく。力がないから声にならなかった。肩が揺れただけ。
しかし——揺れた。俺の腕の中で。
「……最後の夜ですね。地上の」
「ああ」
「地上に出てきたとき——空が眩しくて泣いた。覚えていますか」
「覚えている」
「あのとき——あなたの手が温かかった。冷たい私の手を握って、走って、坂を駆け上がって。——あなたの手だけが温かかった」
「…………」
「今も——温かい」
須勢理毘売が——俺の手を取った。自分の頬に当てた。冷たい頬。涙が乾いた頬。
「……冷たいか」
「冷たい。——いつも冷たい。でも」
「でも」
「あなたが触ると——温かくなる。少しだけ。私だけ分かるくらい」
月が川面に揺れていた。水の音がしていた。虫の声がしていた。
壊された出雲の中で——この川辺だけが、壊れる前と同じ音を立てていた。
「……覚えていますか。根の堅洲国を出る前の夜」
「……ああ」
「大物主の試練の前の夜も」
「……覚えている」
「この手で——」
須勢理毘売が俺の手を取って——自分の胸に当てた。心臓の上に。
鼓動が——あった。弱い鼓動。しかし確かにあった。
「……生きてる」
「生きてます。——あなたが歌ってくれたから。あのとき」
「下手な歌でな」
「下手でした。——でも効いた」
「…………」
「今夜は——私が歌います」
「歌えるのか。護はもう——」
「護じゃない」
須勢理毘売が——歌った。
言霊式ではなかった。力のない歌だった。言霊が乗っていない、ただの歌。声だけの歌。
子守唄だった。
建御名方に歌った歌。泣く子を鎮める歌。力ではなく、声だけで、温度だけで。
低い声。根の堅洲国の暗闇で育った声。あの暗闇の中で一人で歌っていた声。
「……何の歌だ」
「母が——歌ってくれた歌」
クシナダヒメが。
「名前も知らなかった母が。顔も覚えていない母が。——この歌だけ覚えている。暗闇の中で、この歌だけが温かかった」
「…………」
「だから——あなたにも歌います。今夜だけ。最後の夜に」
歌っていた。
冷たい体が——少しずつ温かくなっていった。歌のせいではない。俺の体温が移っているだけだ。しかし須勢理毘売は「温かい」と言った。
歌が——止まった。
須勢理毘売の顔が近かった。藍色の目が月の光を映していた。
「……これが最後の地上の夜なら」
「ああ」
「覚えておきたい。——あなたの温度を」
——冷たい唇だった。
いつもと同じだ。冷たい。根の堅洲国で育った体は隅々まで冷たい。しかし唇が合わさった瞬間——境目が分からなくなった。冷たいのか温かいのか。俺の温度なのか須勢理毘売の温度なのか。
二人の間に——温度が一つしかなくなった。
手を回した。背中に。冷たい背中。しかし——震えていた。寒さではない。
「……震えているか」
「……震えてません」
「嘘だ」
「……震えてます。——でも寒くない」
怖くもない。悲しくもない。ただ——震えている。言葉にならないものが体を通り抜けていく。
川の音がしていた。月が沈みかけていた。星が少しずつ消えていた。
東の空が——変わり始めていた。黒から、紺に。紺から、藍に。
須勢理毘売の目の色だった。夜明け前の空は——藍色だった。
「……朝が来る」
「ああ」
「最後の——」
「最後じゃない」
「…………」
「最後の朝じゃない。——幽冥でも朝は来る。目に見えないだけで」
「……そうですか」
「ああ。俺がそう決めた。幽冥の主が——朝が来ると決めたら、来る」
「…………決められるのですか」
「知らない。——しかし決めた」
須勢理毘売が笑った。目と口で。
「あなたは——本当に」
「何だ」
「できるかどうか分からないことを、決めてしまう人ですね」
「荷物持ちだから。——持てるか分からなくても持つ」
「…………」
「お前もだろう。歌えるか分からなくても歌った」
「……ええ。——似た者同士ですね」
「嫌か」
「嫌ではない」
嫌ではない。最大限の肯定。この女の言葉の中で、一番温かい言葉。
空が——明るくなっていった。藍色から——薄い青に。
地上最後の夜明けだった。
光が差した。東から。壊された出雲に——朝日が当たった。
更地だった。何もなかった。道も田も水路も家もない、ただの平らな大地。
しかし——朝日が当たると、大地が光った。
天沼矛に焼かれた砂が——ガラスになっている場所があった。浜のあちこちに。透明なガラスが朝日を受けて光っていた。壊された場所が——光っている。
「……きれいですね」
須勢理毘売が言った。壊された大地を見て。
「壊されたのに——きれいだ。変ですね」
「変じゃない。——光が当たれば、どこでも光る。壊されていても」
焚き火のそばで——人が起き始めていた。木俣が目を擦っていた。母がいないことに気づいて——川辺を見た。
手を振った。
木俣が——笑った。安心した顔で。
「お母さん——ここにいたんだ」
ここにいた。
ここにいた。——それだけだ。
ここにいることが全てで、ここにいることだけが俺にできることで、ここにいることが——須勢理毘売と俺の、最初から最後までの約束だった。
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