表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
41/44

第四十一章 国譲り

 浜が更地になっていた。


 道がない。田がない。水路がない。家もない。十年分が——消えた。消した覚えはない。消されたのだ。空から。


 天沼矛あめのぬぼこが浜の真ん中に刺さっている。世界を作った矛。作った奴が壊す権利を持っている。理不尽だが筋は通っている。腹が立つのは、筋が通っているからだ。


 建御雷神たけみかづちが立っていた。剣を鞘に戻して、建御名方たけみなかたが逃げた方角を一瞬だけ見て——もう興味なさそうに顔を戻した。追わない。追う価値がないと思ったのか、約束を守ったのかは分からない。


「答えを聞こう。」


「…………」


 振り返った。


 須勢理毘売すせりびめが倒れていた。木俣このまたの膝で。まもりを歌い尽くして。白い顔に血の気がない。いつも白いが、いつもの白さとは違う。


 事代主ことしろぬしが浜の端に立っていた。穏やかな顔。戦場を全部見ていて、一歩も動かなかった男。穏やかなのか冷たいのか——この男は、いつも判断が難しい。


 小さな神たちが砂の上に転がっている。百を超えていた仲間が三十ほどに減っていた。


 老人が座り込んでいた。あの老人。鍬を持って立っていた老人。もう立てなくなっていた。


「……事代主ことしろぬし


 呼んだ。自分の声が妙に落ち着いていて気持ち悪かった。


「はい」


 事代主ことしろぬしが歩いてきた。戦場の残骸の上を、散歩みたいな足取りで。この男は本当に読めない。


「お前に聞く。お前は『事を知る主』だ。——答えを出してくれ」


「…………」


「渡すのか。渡さないのか」


 事代主ことしろぬしは答えなかった。代わりに——全部を見た。空を。天沼矛あめのぬぼこを。建御雷神たけみかづちを。壊された出雲を。倒れている須勢理毘売すせりびめを。建御名方たけみなかたが消えた北の方角を。


 全部見てから——俺を見た。


「父上。一つ聞いていいですか」


「聞け」


「渡さなかったらどうなりますか」


「もう一回あの矛が振るわれる。全員死ぬ」


「渡したら」


「人は残る。神も残る。国は形が変わるが、残る」


「…………」


 事代主ことしろぬしが海を見た。しばらく黙って——口を開いた。


「父上。俺が美保みほから走ってきたとき、鯛を持ってました」


「……ああ」


 唐突だった。この場面で鯛の話をする奴がいるか。いた。俺の息子だ。


「手放さなかった。走っても転んでも。須勢理毘売すせりびめさまに焼いてもらうまで、ずっと握ってた」


「知ってる」


「あれ、父上と同じだって言われました。荷物を持ったら離さない」


「……須勢理毘売すせりびめにな」


「でも——手放すべきときはある」


 事代主ことしろぬしが手を開いた。何も持っていない手を見せるように。


「鯛は海にいるものです。俺の手の中にいるべきじゃない。国も同じだと思う。父上が握っている限り——壊しに来る奴がいる。手放したら、壊す理由がなくなる」


「…………」


「渡してください。人が残れば田は作り直せる。道も繋ぎ直せる。父上が作ったものは——人が覚えている限り、消えない」


 正しかった。


 腹が立つくらい正しかった。枯野かれのの言葉が頭に浮かんだ。「守れている間に渡せ。守れなくなってから渡すのは遅い」。もう守れなくなった。なら——


 事代主ことしろぬし建御雷神たけみかづちの方を向いた。


建御雷神たけみかづち。——出雲の大国主おおくにぬしの子、事代主ことしろぬしが答えます」


 頭を下げた。深く。


「この国を——お渡しします。父に代わり、この地の者として。異存はありません」


 静かな声だった。しかし浜全体に響いた。


 俺に向かって言ったのではない。建御雷神たけみかづちに向かって。俺の代わりに——答えを出した。


事代主ことしろぬし。お前が決めるのか」


「事を知る者として。——怒りますか」


「…………」


「怒ってください。でも答えは変わりません」


 怒れなかった。怒る理由がなかった。


 事代主ことしろぬしが海を見た。


「俺は海に帰ります。美保みほの浜に」


「……帰ってどうする」


「鯛を釣ります」


 こいつは本当に変わらない。世界が終わった夜に、「鯛を釣ります」と言える男。


 事代主ことしろぬしが波に向かって歩いていった。膝まで。腰まで。振り返らなかった。波が来て——消えた。海に隠れた。


 建御雷神たけみかづちが俺を見ていた。


「息子の答えは聞いた。お前の答えを聞こう。」


 答え。


 たった一言だ。渡すか、渡さないか。口を開いて、声を出すだけだ。


 ——出なかった。


 後ろに——人がいた。


 砂の上に老人が座り込んでいた。「俺たちの国でしょう。守りますよ」と言って鍬を持って立っていた老人。今は座り込んでいる。あの鍬で何を守れるのか分かっていて、それでも持ってきた老人。


 東の川の神がいた。小さな神。俺が結縁けつえんで結んだ。「大国主おおくにぬしさまが繋いでくれたから、ここにいられる」と言ってくれた。今は砂の上に倒れている。


 子供を抱えた母がいた。道の端から見ていた。俺が作った道を歩いて、毎朝田に出ていた女。その田がない。道もない。子供が泣いていた。


 全部——俺の後ろにいた。


 渡す、と言ったら。この人たちはどうなる。


 守ると言った。ここにいるから守ると言った。何度でも直すと言った。壊されたら作り直すと言った。


 ——嘘になる。


 渡した瞬間に全部嘘になる。守るという言葉が嘘になる。ここにいるという言葉が嘘になる。十年間かけて繋いだ縁の一つ一つに、嘘がつく。


 口が開かなかった。


 少名毘古那すくなびこなと二人で踏み固めた道。枯野かれのが三本の腕で泥を運んだ畦道。須勢理毘売すせりびめが洗い物をした川辺。建御名方たけみなかたが穴を開けた畑。木俣このまたが弟を叱った庭先。


 全部——消えた。消えたものは戻らない。しかし消えたものを作った者は——まだここにいる。ここにいる者が生きていれば——


 ——もう一度作れる。


 渡さなければ——ここにいる者が死ぬ。死んだら——もう作れない。


 渡せば——ここにいる者が残る。残れば——作れる。俺がいなくても。


 事代主ことしろぬしが言った通りだ。人が覚えている限り、消えない。


 口が動いた。


「——渡す」


 声が出た。自分の声だと分からなかった。低くて、掠れていて、知らない男の声みたいだった。


 浜が——静まった。


 波の音が消えた。風が止まった。


 後ろで——誰かが膝をついた。音がした。砂に膝が落ちる音。


「——大国主おおくにぬしさま」


 老人だった。鍬を持った老人が——膝をついて、そのまま砂に手をついていた。


「渡す——のですか。この国を」


 答えなかった。答えられなかった。もう一度「渡す」と言ったら、声が裂けそうだった。


 静かに泣いている者がいた。声を上げずに。小さな神が。村人が。


 誰も止めなかった。怒る者もいなかった。「なぜだ」と叫ぶ者もいなかった。ただ——黙っていた。黙って泣いていた。


 壊された浜を見ていたからだ。全員が。もう一度あの矛が振るわれたら何が起きるか、全員が分かっていたからだ。分かっていて——それでも、聞きたくなかった一言を聞いた。


 アメノホヒが目を伏せていた。金色の目を閉じて。この男は高天原たかまがはらの生まれだ。戻る側の者だ。しかし——十年、ここにいた。出雲の握り飯を食って「うまい」と言った男が、目を閉じていた。


 木俣このまた須勢理毘売すせりびめを支えたまま、動かなかった。十五歳の目が——俺を見ていた。責めてはいなかった。しかし——何かを確かめるように見ていた。父がどんな顔をしているのか。確かめようとしていた。


 どんな顔をしているのか。自分では分からなかった。


 建御雷神たけみかづちが——黙って待っていた。急かさなかった。「渡す」の一言が、どれだけ重いか——この武神は知っているのだろう。力で奪う者は、奪われる者の痛みを知らない。しかし「渡す」と言わせる者は——渡す者の重さを、見ている。


「条件は。」


 声が来た。低い声。静かな声。


「…………」


 条件。


 国を渡すと言ったばかりの口で——条件を言う。図々しいとは思う。しかし——渡す側にも、渡し方がある。


 荷物持ちだった。重い荷物を持って歩いた。持ち方を間違えると中身が壊れる。渡し方を間違えると、渡したものが無意味になる。


 渡し方だけは——間違えない。


「一つだけ」


「言え。」


「天の御舎みあらかと同じ宮を——この浜に建てろ」


「宮。——なぜだ。」


「俺がそこに住む。須勢理毘売すせりびめと。そこから——」


 足の裏に意識を向けた。国魂くにたま天沼矛あめのぬぼこに封じられている。感じられない。しかし——大地はある。足の下に。壊されても、焼かれても、大地はなくならない。大地がある限り——


「——目に見える世界は渡す」


 声が——変わった。掠れていた声が、通り始めた。


「道も渡す。田も渡す。山も川も海も森も——全部渡す。お前たちが治めろ。好きにしろ」


 建御雷神たけみかづちの目が動いた。小さく。


「しかし——」


 一歩、前に出た。


「目に見えないものは——渡さない」


 建御雷神たけみかづちが——眉を寄せた。鬼のような顔に、初めて別の表情が浮かんだ。


「目に見えないもの。」


「人が祈る。神に手を合わせる。死んだ者を弔う。生まれた子の無事を願う。収穫を感謝する。——そういうものだ。目に見えない。手で触れない。剣で斬れない。矛で壊せない」


「…………」


「それが——幽冥かくりよだ。俺はそこを治める。死者の国。夜の国。祈りの国。目に見える世界がお前たちのものになっても——人は祈ることをやめない。祈りがある限り、俺はそこにいる」


 建御雷神たけみかづちが——黙った。


 黙り方が、さっきまでと違った。さっきは余裕の沈黙だった。待っている沈黙。今は——違う。考えている。


「お前たちの矛は世界を作った。大地を作った。島を作った。——しかし祈りは作れなかったはずだ」


「…………」


「祈りは——人が作る。神が作るんじゃない。人が苦しんで、悲しんで、それでも明日を願うから生まれる。お前たちが空から降りてきても——人の祈りは空からは見えない。地の上にいた者にしか分からない」


 建御雷神たけみかづちの目が——変わった。


 奥まった小さな目の、その奥の白い光が——揺れた。初めて見た。この武神の目が揺れるのは。


「……俺は田を耕した。道を繋いだ。水路を引いた。橋を架けた。壊されたら直した。何度も。その間ずっと——人のそばにいた。人がどう祈るか知っている。何に感謝するか知っている。何を怖がるか知っている。お前たちは——知らないだろう」


 建御雷神たけみかづちの拳が——わずかに動いた。握ったのか。緩めたのか。分からなかった。


「天と同じ大きさの宮を建てろ。その宮から——俺は幽冥かくりよを治める。目に見える世界を治める資格が天にあるなら——目に見えない世界を治める資格は、地にいた俺にある」


 言い切った。


 掠れた声ではなかった。もう知らない男の声でもなかった。自分の声だった。荷物持ちの声。道を繋いだ男の声。国を作って、壊されて、渡した男の声。


 浜が静かだった。


 後ろで——誰かが息を呑んだ。


 老人が顔を上げていた。泣いていた目が——俺を見ていた。


 小さな神たちが——顔を上げていた。砂の上から。


 建御雷神たけみかづちが——口を開いた。


「…………」


 閉じた。


 もう一度開いた。


「——お前が国を渡すと言ったとき。この程度の男かと思った」


「…………」


「撤回する」


 鬼のような顔が——歪んだ。笑ったのだと思う。牙が見えた。しかし嘲りではなかった。


「いいだろう。天と同じ宮を建てる。お前がそこで幽冥かくりよを治めるなら——目に見える世界は天が治める。」


「——約束だ」


「約束だ。」


 右手を出してきた。鬼みたいな手。指の一本一本に稲妻が走っている。握ったら骨が砕けそうだ。


 握った。砕かれなかった。硬い手だった。温かくも冷たくもない。雷の温度。


「嵐の神の婿だと聞いた」


「ああ」


「渡す覚悟と、渡さない覚悟を同時に持っている男は——見たことがない」


 手を離した。


「退け。終わった。」


 建御雷神たけみかづちが軍勢に向かって声を上げた。金色の軍勢が——空に帰り始めた。浜から空へ。金色の光が帯のように上昇していく。


 そして——建御雷神たけみかづち天沼矛あめのぬぼこに歩み寄った。


 片手で柄を握った。


 引いた。


 ——大地が、叫んだ。


 音ではなかった。国魂くにたまを通じて——いや、国魂くにたまが封じられていても——体の奥で感じた。大地が、矛を引き抜かれる痛みを叫んでいた。世界を作ったときに刺さった最初の一突きを、逆回しにしているような感覚。


 矛が——抜けた。


 大地から離れた。光の中に吸い込まれていく。回転しながら。来たときと同じように。しかし——今度は上に。天に帰っていく。


 矛が浜を離れた瞬間——


 足の裏が、震えた。


 国魂くにたま


 封じられていた大地の力が——戻ってきた。一気にではない。じわりと。泉が湧くように。少しずつ。足の裏から膝へ。膝から腰へ。腰から胸へ。


 壊された大地の感覚が流れ込んでくる。道がない。田がない。水路がない。全部——分かる。どこが壊れたか。どこが焼けたか。どこがまだ生きているか。


 ——まだ生きている場所がある。


 清い川のそばだ。スサノオが残した川のそばだけ——大地が生きていた。そこを中心にして——もう一度、繋げる。時間はかかる。しかし——繋げる。


 建御雷神たけみかづちが最後に振り返った。


「宮は建てる。約束だ。」


 白い光が一つ浜に落ちた。稲妻ではなかった。約束の刻印。砂がガラスに変わった。透明な、光を閉じ込めたガラスの円が浜に残った。宮の礎。ここに——天と同じ大きさの宮が建つ。


 建御雷神たけみかづちが空に帰っていった。白い光が最後に一度だけ瞬いて——消えた。


 静かになった。


 浜に出雲の者だけが残った。


 建御雷神たけみかづちがいなくなった空は——ただの夜空だった。星が出ていた。月が低い位置にあった。風が戻ってきた。波の音が戻ってきた。


 俺は——ガラスの円の上に立っていた。


 足の裏に国魂くにたまがある。壊された国の全体が見える。しかし——見えるということは、まだ繋がっているということだ。


 木俣このまたが声を上げた。


「お父さん——」


 振り返った。


 木俣このまた須勢理毘売すせりびめを支えていた。須勢理毘売すせりびめの藍色の目が——開いていた。こちらを見ていた。


「……聞いていたか」


「…………」


「聞いていたのか。須勢理毘売すせりびめ


「聞いていました。——全部」


「…………」


幽冥かくりよを治める——と言いましたね」


「言った」


「それは——目に見えない世界で、ずっと、ここにいるということですか」


「……ああ。そうだ」


「…………」


 須勢理毘売すせりびめの口元が動いた。笑った。力のない、かすかな笑い。しかし——目も笑っていた。


「——あなたらしい」


「どこが」


「『ここにいる』が——最後の答えなところが」


 ……言われてみれば、そうだ。


 結局、俺は最初から同じことしか言っていない。ここにいたから白兎を助けた。ここにいるから国を作った。ここにいるから渡した。そしてここにいるから——幽冥かくりよを治める。


 全部——「ここにいる」だ。


 それしか知らない。それだけしか——俺には、ない。


 しかし——それだけで、ここまで来た。


 浜に星が出ていた。壊された出雲の上に。静かな空の下に。


 国を渡した夜だった。


 しかし——終わりではなかった。


挿絵(By みてみん)



ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


「続きをチェックしたい!」

→ 【ブックマークに追加】をポチッと!


「面白かった!」「続きに期待!」

→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ