第四十一章 国譲り
浜が更地になっていた。
道がない。田がない。水路がない。家もない。十年分が——消えた。消した覚えはない。消されたのだ。空から。
天沼矛が浜の真ん中に刺さっている。世界を作った矛。作った奴が壊す権利を持っている。理不尽だが筋は通っている。腹が立つのは、筋が通っているからだ。
建御雷神が立っていた。剣を鞘に戻して、建御名方が逃げた方角を一瞬だけ見て——もう興味なさそうに顔を戻した。追わない。追う価値がないと思ったのか、約束を守ったのかは分からない。
「答えを聞こう。」
「…………」
振り返った。
須勢理毘売が倒れていた。木俣の膝で。護を歌い尽くして。白い顔に血の気がない。いつも白いが、いつもの白さとは違う。
事代主が浜の端に立っていた。穏やかな顔。戦場を全部見ていて、一歩も動かなかった男。穏やかなのか冷たいのか——この男は、いつも判断が難しい。
小さな神たちが砂の上に転がっている。百を超えていた仲間が三十ほどに減っていた。
老人が座り込んでいた。あの老人。鍬を持って立っていた老人。もう立てなくなっていた。
「……事代主」
呼んだ。自分の声が妙に落ち着いていて気持ち悪かった。
「はい」
事代主が歩いてきた。戦場の残骸の上を、散歩みたいな足取りで。この男は本当に読めない。
「お前に聞く。お前は『事を知る主』だ。——答えを出してくれ」
「…………」
「渡すのか。渡さないのか」
事代主は答えなかった。代わりに——全部を見た。空を。天沼矛を。建御雷神を。壊された出雲を。倒れている須勢理毘売を。建御名方が消えた北の方角を。
全部見てから——俺を見た。
「父上。一つ聞いていいですか」
「聞け」
「渡さなかったらどうなりますか」
「もう一回あの矛が振るわれる。全員死ぬ」
「渡したら」
「人は残る。神も残る。国は形が変わるが、残る」
「…………」
事代主が海を見た。しばらく黙って——口を開いた。
「父上。俺が美保から走ってきたとき、鯛を持ってました」
「……ああ」
唐突だった。この場面で鯛の話をする奴がいるか。いた。俺の息子だ。
「手放さなかった。走っても転んでも。須勢理毘売さまに焼いてもらうまで、ずっと握ってた」
「知ってる」
「あれ、父上と同じだって言われました。荷物を持ったら離さない」
「……須勢理毘売にな」
「でも——手放すべきときはある」
事代主が手を開いた。何も持っていない手を見せるように。
「鯛は海にいるものです。俺の手の中にいるべきじゃない。国も同じだと思う。父上が握っている限り——壊しに来る奴がいる。手放したら、壊す理由がなくなる」
「…………」
「渡してください。人が残れば田は作り直せる。道も繋ぎ直せる。父上が作ったものは——人が覚えている限り、消えない」
正しかった。
腹が立つくらい正しかった。枯野の言葉が頭に浮かんだ。「守れている間に渡せ。守れなくなってから渡すのは遅い」。もう守れなくなった。なら——
事代主が建御雷神の方を向いた。
「建御雷神。——出雲の大国主の子、事代主が答えます」
頭を下げた。深く。
「この国を——お渡しします。父に代わり、この地の者として。異存はありません」
静かな声だった。しかし浜全体に響いた。
俺に向かって言ったのではない。建御雷神に向かって。俺の代わりに——答えを出した。
「事代主。お前が決めるのか」
「事を知る者として。——怒りますか」
「…………」
「怒ってください。でも答えは変わりません」
怒れなかった。怒る理由がなかった。
事代主が海を見た。
「俺は海に帰ります。美保の浜に」
「……帰ってどうする」
「鯛を釣ります」
こいつは本当に変わらない。世界が終わった夜に、「鯛を釣ります」と言える男。
事代主が波に向かって歩いていった。膝まで。腰まで。振り返らなかった。波が来て——消えた。海に隠れた。
建御雷神が俺を見ていた。
「息子の答えは聞いた。お前の答えを聞こう。」
答え。
たった一言だ。渡すか、渡さないか。口を開いて、声を出すだけだ。
——出なかった。
後ろに——人がいた。
砂の上に老人が座り込んでいた。「俺たちの国でしょう。守りますよ」と言って鍬を持って立っていた老人。今は座り込んでいる。あの鍬で何を守れるのか分かっていて、それでも持ってきた老人。
東の川の神がいた。小さな神。俺が結縁で結んだ。「大国主さまが繋いでくれたから、ここにいられる」と言ってくれた。今は砂の上に倒れている。
子供を抱えた母がいた。道の端から見ていた。俺が作った道を歩いて、毎朝田に出ていた女。その田がない。道もない。子供が泣いていた。
全部——俺の後ろにいた。
渡す、と言ったら。この人たちはどうなる。
守ると言った。ここにいるから守ると言った。何度でも直すと言った。壊されたら作り直すと言った。
——嘘になる。
渡した瞬間に全部嘘になる。守るという言葉が嘘になる。ここにいるという言葉が嘘になる。十年間かけて繋いだ縁の一つ一つに、嘘がつく。
口が開かなかった。
少名毘古那と二人で踏み固めた道。枯野が三本の腕で泥を運んだ畦道。須勢理毘売が洗い物をした川辺。建御名方が穴を開けた畑。木俣が弟を叱った庭先。
全部——消えた。消えたものは戻らない。しかし消えたものを作った者は——まだここにいる。ここにいる者が生きていれば——
——もう一度作れる。
渡さなければ——ここにいる者が死ぬ。死んだら——もう作れない。
渡せば——ここにいる者が残る。残れば——作れる。俺がいなくても。
事代主が言った通りだ。人が覚えている限り、消えない。
口が動いた。
「——渡す」
声が出た。自分の声だと分からなかった。低くて、掠れていて、知らない男の声みたいだった。
浜が——静まった。
波の音が消えた。風が止まった。
後ろで——誰かが膝をついた。音がした。砂に膝が落ちる音。
「——大国主さま」
老人だった。鍬を持った老人が——膝をついて、そのまま砂に手をついていた。
「渡す——のですか。この国を」
答えなかった。答えられなかった。もう一度「渡す」と言ったら、声が裂けそうだった。
静かに泣いている者がいた。声を上げずに。小さな神が。村人が。
誰も止めなかった。怒る者もいなかった。「なぜだ」と叫ぶ者もいなかった。ただ——黙っていた。黙って泣いていた。
壊された浜を見ていたからだ。全員が。もう一度あの矛が振るわれたら何が起きるか、全員が分かっていたからだ。分かっていて——それでも、聞きたくなかった一言を聞いた。
アメノホヒが目を伏せていた。金色の目を閉じて。この男は高天原の生まれだ。戻る側の者だ。しかし——十年、ここにいた。出雲の握り飯を食って「うまい」と言った男が、目を閉じていた。
木俣が須勢理毘売を支えたまま、動かなかった。十五歳の目が——俺を見ていた。責めてはいなかった。しかし——何かを確かめるように見ていた。父がどんな顔をしているのか。確かめようとしていた。
どんな顔をしているのか。自分では分からなかった。
建御雷神が——黙って待っていた。急かさなかった。「渡す」の一言が、どれだけ重いか——この武神は知っているのだろう。力で奪う者は、奪われる者の痛みを知らない。しかし「渡す」と言わせる者は——渡す者の重さを、見ている。
「条件は。」
声が来た。低い声。静かな声。
「…………」
条件。
国を渡すと言ったばかりの口で——条件を言う。図々しいとは思う。しかし——渡す側にも、渡し方がある。
荷物持ちだった。重い荷物を持って歩いた。持ち方を間違えると中身が壊れる。渡し方を間違えると、渡したものが無意味になる。
渡し方だけは——間違えない。
「一つだけ」
「言え。」
「天の御舎と同じ宮を——この浜に建てろ」
「宮。——なぜだ。」
「俺がそこに住む。須勢理毘売と。そこから——」
足の裏に意識を向けた。国魂は天沼矛に封じられている。感じられない。しかし——大地はある。足の下に。壊されても、焼かれても、大地はなくならない。大地がある限り——
「——目に見える世界は渡す」
声が——変わった。掠れていた声が、通り始めた。
「道も渡す。田も渡す。山も川も海も森も——全部渡す。お前たちが治めろ。好きにしろ」
建御雷神の目が動いた。小さく。
「しかし——」
一歩、前に出た。
「目に見えないものは——渡さない」
建御雷神が——眉を寄せた。鬼のような顔に、初めて別の表情が浮かんだ。
「目に見えないもの。」
「人が祈る。神に手を合わせる。死んだ者を弔う。生まれた子の無事を願う。収穫を感謝する。——そういうものだ。目に見えない。手で触れない。剣で斬れない。矛で壊せない」
「…………」
「それが——幽冥だ。俺はそこを治める。死者の国。夜の国。祈りの国。目に見える世界がお前たちのものになっても——人は祈ることをやめない。祈りがある限り、俺はそこにいる」
建御雷神が——黙った。
黙り方が、さっきまでと違った。さっきは余裕の沈黙だった。待っている沈黙。今は——違う。考えている。
「お前たちの矛は世界を作った。大地を作った。島を作った。——しかし祈りは作れなかったはずだ」
「…………」
「祈りは——人が作る。神が作るんじゃない。人が苦しんで、悲しんで、それでも明日を願うから生まれる。お前たちが空から降りてきても——人の祈りは空からは見えない。地の上にいた者にしか分からない」
建御雷神の目が——変わった。
奥まった小さな目の、その奥の白い光が——揺れた。初めて見た。この武神の目が揺れるのは。
「……俺は田を耕した。道を繋いだ。水路を引いた。橋を架けた。壊されたら直した。何度も。その間ずっと——人のそばにいた。人がどう祈るか知っている。何に感謝するか知っている。何を怖がるか知っている。お前たちは——知らないだろう」
建御雷神の拳が——わずかに動いた。握ったのか。緩めたのか。分からなかった。
「天と同じ大きさの宮を建てろ。その宮から——俺は幽冥を治める。目に見える世界を治める資格が天にあるなら——目に見えない世界を治める資格は、地にいた俺にある」
言い切った。
掠れた声ではなかった。もう知らない男の声でもなかった。自分の声だった。荷物持ちの声。道を繋いだ男の声。国を作って、壊されて、渡した男の声。
浜が静かだった。
後ろで——誰かが息を呑んだ。
老人が顔を上げていた。泣いていた目が——俺を見ていた。
小さな神たちが——顔を上げていた。砂の上から。
建御雷神が——口を開いた。
「…………」
閉じた。
もう一度開いた。
「——お前が国を渡すと言ったとき。この程度の男かと思った」
「…………」
「撤回する」
鬼のような顔が——歪んだ。笑ったのだと思う。牙が見えた。しかし嘲りではなかった。
「いいだろう。天と同じ宮を建てる。お前がそこで幽冥を治めるなら——目に見える世界は天が治める。」
「——約束だ」
「約束だ。」
右手を出してきた。鬼みたいな手。指の一本一本に稲妻が走っている。握ったら骨が砕けそうだ。
握った。砕かれなかった。硬い手だった。温かくも冷たくもない。雷の温度。
「嵐の神の婿だと聞いた」
「ああ」
「渡す覚悟と、渡さない覚悟を同時に持っている男は——見たことがない」
手を離した。
「退け。終わった。」
建御雷神が軍勢に向かって声を上げた。金色の軍勢が——空に帰り始めた。浜から空へ。金色の光が帯のように上昇していく。
そして——建御雷神が天沼矛に歩み寄った。
片手で柄を握った。
引いた。
——大地が、叫んだ。
音ではなかった。国魂を通じて——いや、国魂が封じられていても——体の奥で感じた。大地が、矛を引き抜かれる痛みを叫んでいた。世界を作ったときに刺さった最初の一突きを、逆回しにしているような感覚。
矛が——抜けた。
大地から離れた。光の中に吸い込まれていく。回転しながら。来たときと同じように。しかし——今度は上に。天に帰っていく。
矛が浜を離れた瞬間——
足の裏が、震えた。
国魂。
封じられていた大地の力が——戻ってきた。一気にではない。じわりと。泉が湧くように。少しずつ。足の裏から膝へ。膝から腰へ。腰から胸へ。
壊された大地の感覚が流れ込んでくる。道がない。田がない。水路がない。全部——分かる。どこが壊れたか。どこが焼けたか。どこがまだ生きているか。
——まだ生きている場所がある。
清い川のそばだ。スサノオが残した川のそばだけ——大地が生きていた。そこを中心にして——もう一度、繋げる。時間はかかる。しかし——繋げる。
建御雷神が最後に振り返った。
「宮は建てる。約束だ。」
白い光が一つ浜に落ちた。稲妻ではなかった。約束の刻印。砂がガラスに変わった。透明な、光を閉じ込めたガラスの円が浜に残った。宮の礎。ここに——天と同じ大きさの宮が建つ。
建御雷神が空に帰っていった。白い光が最後に一度だけ瞬いて——消えた。
静かになった。
浜に出雲の者だけが残った。
建御雷神がいなくなった空は——ただの夜空だった。星が出ていた。月が低い位置にあった。風が戻ってきた。波の音が戻ってきた。
俺は——ガラスの円の上に立っていた。
足の裏に国魂がある。壊された国の全体が見える。しかし——見えるということは、まだ繋がっているということだ。
木俣が声を上げた。
「お父さん——」
振り返った。
木俣が須勢理毘売を支えていた。須勢理毘売の藍色の目が——開いていた。こちらを見ていた。
「……聞いていたか」
「…………」
「聞いていたのか。須勢理毘売」
「聞いていました。——全部」
「…………」
「幽冥を治める——と言いましたね」
「言った」
「それは——目に見えない世界で、ずっと、ここにいるということですか」
「……ああ。そうだ」
「…………」
須勢理毘売の口元が動いた。笑った。力のない、かすかな笑い。しかし——目も笑っていた。
「——あなたらしい」
「どこが」
「『ここにいる』が——最後の答えなところが」
……言われてみれば、そうだ。
結局、俺は最初から同じことしか言っていない。ここにいたから白兎を助けた。ここにいるから国を作った。ここにいるから渡した。そしてここにいるから——幽冥を治める。
全部——「ここにいる」だ。
それしか知らない。それだけしか——俺には、ない。
しかし——それだけで、ここまで来た。
浜に星が出ていた。壊された出雲の上に。静かな空の下に。
国を渡した夜だった。
しかし——終わりではなかった。
ご拝読いただきありがとうございました!
作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!
「続きをチェックしたい!」
→ 【ブックマークに追加】をポチッと!
「面白かった!」「続きに期待!」
→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!




