第四十章 稲佐の浜の合戦
建御名方が動いた。
俺が答えを出す前に。事代主が考える前に。誰よりも先に——十一歳の体が、砂を蹴った。
「——枯野さんの仇!」
叫んだ。蔓の模様が腕に浮かんだ。大地の力が足を通じて溢れ出した。制御されている。しかし——方向が、戦いに向いていた。
「建御名方! 待て!」
叫んだ。届かなかった。
出雲の神々の中から——呼応する者がいた。
「行くぞ! あの子に続け!」
東の山の神。荒ぶる神だった者。鎮められて味方になった者。しかし——血は荒い。好戦的な小さな神が、建御名方の背中を見て——走り出した。
三柱。五柱。十柱。
止められなかった。出雲の好戦派が——一斉に浜に飛び出した。
高天原の軍勢が——動いた。
金色の鎧の前列が剣を抜いた。盾を構えた。整然と。命令通りに。
建御名方が最前列に突っ込んだ。拳が金色の鎧を砕いた。一体目。二体目。偵察兵より脆い。量産品だ。しかし——数が多い。三体倒しても十体来る。十体砕いても百体いる。
稲佐の浜が——戦場に変わった。
砂が舞った。金色の光と土の色がぶつかった。小さな神たちが金色の兵と組み合った。数では出雲が劣る。力でも劣る。しかし大地の上にいる利点があった。国魂が——出雲の神々の足元を支えていた。
「大国主さま——」
須勢理毘売が隣にいた。
「止められなかった。——どうしますか」
「…………」
「始まってしまった。——もう、止められない」
止められない。建御名方が切った火は——広がった。出雲の全軍が動いた。引くこともできない。引けば背中を斬られる。
「——行く」
生太刀を抜いた。生弓矢を構えた。
走った。浜に。戦場に。
須勢理毘売が歌った。言霊式・護。
——声が出た。
十年間使えなかった護が——出た。体が拒否していた歌が。子を守るために——出た。
白い光の壁が出雲の神々を包んだ。薄い壁。全軍を覆うには力が足りない。しかし——あるだけで違った。金色の刃が白い壁に弾かれた。
「母さまが——歌ってる」
木俣が須勢理毘売のそばにいた。歌い続ける母を——守っていた。十五歳の娘が。武器もなく。体を盾にして。
事代主は——動かなかった。
浜の端に立っていた。戦場を見ていた。穏やかな目で。戦わなかった。しかし——見ていた。全てを。
混戦だった。
出雲の小さな神たちが金色の兵と噛み合っている。国魂で大地を揺らして金色の兵の足を崩した。生太刀の穿根で根を生やして縛った。言霊式・断縁で金色の鎧の結合を断ち切った。
しかし——きりがなかった。一体倒しても次が来る。十体倒しても百体が来る。空から——補充が降ってくる。地上の出雲には補充がない。
戦場の中央で——建御名方が暴れていた。
圧倒的だった。金色の兵を片端から砕いていた。拳で。蹴りで。蔓で。大地の力で。周囲十歩の円に金色の残骸が散らばっている。
しかし——本命に届いていなかった。
建御雷神は動いていなかった。
浜の奥に立っていた。腕を組んで。鬼のような体が——微動だにしない。雑兵が片付くのを待っている。
建御名方が——見た。建御雷神を。
走った。金色の兵の壁を突き破って。一直線に。
「——お前だ! お前が——枯野さんを——」
拳を振り上げた。建御雷神の顔に向かって。全力の拳。山を割った拳。偵察兵を砕いた拳。
——掴まれた。
建御雷神の右手が——建御名方の拳を受け止めた。片手で。
衝撃波が広がった。砂が弾けた。空気が裂けた。しかし建御雷神の体は——動かなかった。
「——力はある。」
建御雷神が言った。
「しかし——足りない。」
右手が——変わった。
肌の色が消えた。白くなった。透明になった。氷になった。建御名方の拳を握っている手が——氷柱に変わった。
冷たさが拳を伝って腕に走った。建御名方の右腕が——凍り始めた。
「——っ!」
引き抜こうとした。引き抜けなかった。氷が指を固めている。握られた拳が開けない。
建御雷神の左手が——剣の柄に触れた。
初めて——剣を抜こうとした。
抜いたら終わる。直感で分かった。あの剣が抜かれたら——建御名方は死ぬ。
「建御名方!」
走った。生太刀を構えて。しかし——金色の兵が道を塞いだ。五体。十体。突破できない。
建御雷神の左手が柄を握った。引いた。
刃が——鞘から覗いた。白い刃。稲妻の刃。見えた瞬間——空気が焦げた。
建御名方が——叫んだ。
叫び声は——言葉ではなかった。もっと古い音だった。もっと深い場所から来る音。
腕の蔓が——光った。
枯野の蔓ではなかった。蔓を通じて——大地の奥から、別のものが上がってきた。
金色の光。
くすんだ金色。老いた金色。——見覚えがあった。
嵐の色だった。
スサノオの——嵐の色。根の堅洲国で見た、枯れかけた金色の嵐。あの嵐が——建御名方の体から噴き出した。
荒魂。
スサノオの血の中に眠っていた荒魂が——孫の体で、目覚めた。
須勢理毘売はスサノオの娘。その子・建御名方はスサノオの孫。嵐の神の血が——二世代を経て、荒魂として覚醒した。
建御名方の体が——変わった。
蔓の模様の上に金色の嵐が纏わりついた。右腕の氷が砕けた。力が——倍になった。いや、倍ではない。桁が変わった。
建御雷神が——初めて、目を見開いた。鬼のような顔の奥まった目が。
「——嵐だと。」
建御名方の拳が——建御雷神の腹に入った。
初めて——建御雷神の体が、動いた。後ろに。三歩。砂を削りながら。
「……効いた」
建御名方が——笑った。血まみれの顔で。凍傷の右腕で。金色の嵐を纏って。
「効いた——なら、もう一発」
殴った。建御雷神が腕で受けた。受けた腕がひび割れた。稲妻の体に——ひびが入った。
もう一発。胸に。建御雷神が吹き飛んだ。砂浜に溝を作りながら十歩分滑った。
戦場が——止まった。
高天原の軍勢が止まった。出雲の神々も止まった。
全員が——建御名方と建御雷神を見ていた。
建御雷神が——立ち上がった。体のひびから稲妻が漏れていた。
「……いい拳だ。」
笑った。鬼のような顔が——歪んだ。牙が剥き出しになった。
「もっと来い。」
二人が——ぶつかった。
嵐と雷が。金色と白が。砂浜の上で。拳と拳が。
互角だった。荒魂を覚醒させた建御名方は——建御雷神と互角に打ち合っていた。
出雲の神々から歓声が上がった。
——勝てる。
そう思った。俺も。出雲の神々も。建御名方が建御雷神を押していた。荒魂の嵐が雷を押し返していた。
巻き返せる。この流れなら——
空が——割れた。
金色の空ではなかった。もっと——白い光。太陽の光。しかし太陽は東にある。この光は——真上から来た。天頂から。
全てが止まった。
建御名方が止まった。建御雷神が止まった。高天原の軍勢が膝をついた。出雲の神々が——顔を上げた。
光の中に——何かが降りてきた。
矛だった。
巨大な矛。天から地へ。ゆっくりと。回転しながら。
天沼矛。
世界を作った矛。イザナギとイザナミがこの矛で海を掻き回して島を作った——あの矛。創世の武器。
矛が——稲佐の浜に突き刺さった。
音がなかった。枯野を殺した雷と同じだ。静かな力。
しかし——静かなまま、全てが壊れた。
浜が割れた。砂が蒸発した。海が退いた。矛を中心にして——白い光が円を描いて広がった。
出雲が——壊れた。
道が消えた。言霊式・結縁で繋いだ全ての道が、白い光に焼かれて消えた。田が蒸発した。水路が干上がった。橋が崩れた。家が飛んだ。
俺が——十年かけて作った国が——一瞬で消えた。
建御名方の荒魂が——吹き消された。
蝋燭の炎を息で吹き消すように。天沼矛の力が、荒魂の嵐を——消した。創世の力の前では、嵐は風に過ぎない。
建御名方が——膝をついた。
力が——消えていた。荒魂が消えた。蔓の力も押さえ込まれた。国魂が——天沼矛に封じられた。大地の力が、大地を作った矛に封じられた。
建御雷神が——建御名方の前に立った。
剣を——完全に抜いた。白い刃。稲妻の刃。
「終わりだ。」
振り下ろそうとした。
「——やめろ!」
叫んだ。俺が。
「殺すな。——降伏する。その子を——殺すな」
建御雷神が——止まった。剣が、建御名方の首の寸前で止まっていた。
「降伏——ではない。」
建御名方が——立ち上がろうとした。膝が震えていた。力がない。荒魂も蔓も国魂も——全て封じられていた。
「まだ——」
「建御名方。——もういい」
「まだ戦える——」
「戦えない。——もういい。お前は十分やった」
「父上——俺は——枯野さんの——」
「枯野は『次に渡せ』と言った。お前に。——お前が死んだら渡せない。生きろ。逃げろ」
「逃げ——」
「逃げろ。——信濃に。諏訪に。どこでもいい。生きろ。お前が生きていれば——枯野が渡したものは残る」
建御名方の目が——揺れた。十一歳の目。泣いていた。荒魂が消えて——子供に戻っていた。
「……母さまに——」
「伝える。——行け」
建御名方が——走った。
建御雷神が追おうとした。
「追うな。——俺が答えを出す。息子を逃がせ。その代わり——俺が答える」
建御雷神が——止まった。鬼のような顔で俺を見ていた。
「……いいだろう。——答えを聞こう。」
建御名方の背中が——小さくなっていった。北に向かって。信濃に向かって。
走りながら——一度だけ振り返った。
目が合った。
——すまない。
——行け。
背中が消えた。
稲佐の浜に——俺が立っていた。
壊された出雲の真ん中に。天沼矛が刺さった浜に。
須勢理毘売が——倒れていた。護を歌い尽くして。木俣が支えていた。事代主が——そばにいた。穏やかな顔で。
出雲の神々が——散り散りになっていた。小さな神たちが。「ここにいるから来た」と言ってくれた神々が。
全部——壊れた。
十年かけて作った国が。道が。田が。水路が。村が。
全部。
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