第三十七章 枯野の異変
建御名方の訓練は三ヶ月続いた。
須勢理毘売が毎朝歌った。言霊式・育。力に形を与える歌。建御名方は日に日に制御を覚えていった。握り飯を潰さずに持てるようになった。走っても地面が割れなくなった。壊すだけでなく——丘を作り、穴を埋め、橋の石を運べるようになった。
しかし——別の異変が起きていた。
ある朝。枯野が動かなかった。
いつもは朝になると畑の端に立っている。三本の腕で朝日を浴びる。大地の神の朝の習慣。今朝は——倒れていた。
「枯野!」
駆け寄った。体に触れた。冷たい。いつもの土の温度ではない。もっと乾いた冷たさ。体の表面の草が——茶色くなり始めていた。
「……何もない。——少し、疲れた」
「お前が疲れるのか」
「大地の神も疲れる。——大地が疲れれば、俺も疲れる」
大地が疲れている。国魂を通じて——俺も感じていた。出雲の大地の力が、少しずつ薄くなっている。
アメノホヒが原因を教えてくれた。
「高天原が——上から地上の力を吸い上げている。天若日子が死んだ後の十年間——ただ待っていたのではない。建御雷神が来るときに地上が弱っているよう、ゆっくりと」
十年間。少しずつ。気づかないほど静かに。大地を痩せさせていた。
枯野が立ち上がろうとした。三本の腕で体を支えて。しかし一本が——崩れた。腕が付け根から折れて、地面に落ちた。二本目が。
四本あった腕が——二本になった。
「……二本で十分だ。人間は二本だろう。俺も二本でやる」
その日の午後——来た。
西の浜に——立っていた。
五体。
人の形をしていた。人間の背丈より少し大きい。体の表面が——鏡のようだった。銀色の鏡面。周囲の景色が映り込んでいる。浜の砂が。空の色が。波の光が。五体の体表面に、出雲の風景が歪んで映っていた。
顔がある。目がある。口がある。しかし——全て鏡面だった。鏡の顔。映っているのは自分の顔ではなく——見ている者の顔。俺が正面に立つと、俺の顔が五つの鏡面に映った。
一体が——口を開いた。
「——これが大国主か。」
喋った。声は金属を擦る音に似ていた。
「小さいな。——国主と呼ばれるには。」
「…………」
「大地の力が薄い。十年前の半分以下だ。——報告する。この国は——落ちる。」
偵察兵。高天原が地上に送り込んだ偵察の器。しかし空洞ではなかった。意識がある。判断する。報告する。見たものを——空に伝える。
「帰れ。——ここはお前たちの場所ではない」
「場所は——強い者が決める。お前は弱い。故にここは——高天原のものだ。」
五体が歩き出した。浜を。歩くたびに——足元の砂が灰色に変わった。力を吸い取っている。触れた場所から大地の生命力を吸い上げて、空に送っている。
枯野が二本の腕で立ち上がった。
「俺の大地を——踏むな」
走った。偵察兵の一体に拳を振った。当たった。鏡面の体がへこんだ。しかし——割れなかった。跳ね返された。
偵察兵が枯野の胸に手を触れた。
——枯野の体から、草が一瞬で枯れた。触れた場所を中心に。土が抉れ、空洞になった。力を一瞬で吸い取られた。
「……弱い。——大地の神がこの程度とは。」
偵察兵が嗤った。鏡面の口が歪んだ。枯野の苦悶の顔が——その鏡面に映っていた。
「枯野!」
生太刀を抜いた。偵察兵に斬りかかった。穿根ノ型。根が生えた——しかし根が吸い取られた。枯れていく。
「無駄だ。——生命は我らの糧だ。」
五体が俺を囲もうとした。
「——退け」
声がした。後ろから。地面が——震えた。
建御名方が来た。
走っていた。地面が揺れなかった。三ヶ月の訓練で——制御された足。しかし体から溢れる力の圧力だけで、空気が歪んでいた。
偵察兵が——止まった。五体が同時に建御名方を見た。鏡面の顔に建御名方の姿が映った。
「——何だ、この力は。」
「……報告にない。——この規模の力が地上にあるとは。」
「子供だぞ。——子供がこの力を。」
建御名方が——一体目の前に立った。十一歳の体。しかし——偵察兵より圧力がある。
「枯野さんに——何をした」
「力を頂戴しただけだ。大地の養分を——」
殴った。
言い終わる前に。拳が鏡面の体に入った。鏡面が罅割れた。放射状に。出雲の風景を映していた表面が砕けて——中が見えた。
中は空洞だった。殻だけの存在。意識はあるが——体がない。高天原が遠隔で動かしている器。
砕けた。一体目が浜に崩れ落ちた。鏡の破片が砂に散った。
四体が——後ずさった。
「…………報告を修正する。地上に——規格外の力がある。」
二体目が——建御名方に向かってきた。両腕を伸ばして。枯野にやったように——力を吸い取ろうとして。
建御名方が、その手を掴んだ。素手で。
「吸えるものなら——吸ってみろ」
偵察兵が建御名方の力を吸おうとした。——溢れた。器が足りなかった。建御名方の力が大きすぎて、鏡面の殻では受けきれなかった。吸い取るつもりが——逆流した。
鏡面の体が膨張した。ひびが走った。内側から光が漏れた。
砕けた。手の中で爆ぜた。
二体。
残り——三体。
三体の偵察兵が——顔を見合わせた。鏡面の顔に、互いの鏡面が映った。無限に反射する銀色の恐怖。
「……撤退する。——情報は十分だ。」
「この力を——報告しなければ。」
「建御雷神さまに——直接。」
三体が——走った。背を向けて。浜を。北に向かって。空に帰るための場所に向かって。
建御名方が——追った。
「待て——逃がさない——」
「建御名方!」
叫んだ。しかし止まらなかった。十一歳の体が浜を駆けていく。速い。制御を覚えた分だけ——速くなった。力が暴走しないから、全部を足に回せる。
「追うな! 罠かもしれない!」
聞いていない。
枯野の胸に空洞を作った奴らだ。枯野を「弱い」と嗤った奴らだ。十一歳の怒りが——足を止めない。
木俣が叫んだ。
「みなかた! 戻って!」
聞いていない。姉の声でも止まらない。初めてだった。
須勢理毘売が走り出した。追おうとした。
「須勢理毘売——お前は残れ」
「しかし——」
「俺が行く。——枯野」
「……ああ」
枯野が——走り出した。二本の腕で地面を叩きながら。胸に空洞を抱えたまま。
「枯野——お前も残れ。体が——」
「あの子を——止める。俺が一番近い」
枯野の方が速かった。大地の神は大地の上で速い。二本の腕でも。胸に穴があっても。
俺も走った。事代主が追いかけてきた。
「父上——あの子を止めないと。偵察兵は——逃げることが目的です。逃がしていい。情報はもう伝わった。追っても意味がない」
「分かっている。——しかしあの子は分かっていない」
「十一歳ですから」
「…………」
浜を北に走った。偵察兵の三体が前方に見えた。鏡面の体が夕日を反射して、ちらちらと光っている。
建御名方が——追いついていた。あと十歩。あと五歩。
手を伸ばした。三体の一つの背中に——
空が——光った。
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