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第三十六章 子の成長

 十年が経った。


 建御名方たけみなかたは十一歳になった。


 その朝——山が割れた。


 出雲の東にある山。低い山。里山と呼ばれるような、穏やかな山。その山の頂上が——真っ二つに裂けていた。


 走った。山に向かって。


 着いたとき——建御名方たけみなかたが、割れ目の真ん中に立っていた。


 泣いていた。


「……また——やった」


「何をした」


「走った。——走ったら、足が地面に入って——」


 足跡があった。山の斜面に。人間の足跡ではない。十一歳の子供の足が地面を踏み抜いて——岩盤まで達していた。その衝撃が山を裂いた。


 走っただけだ。


 走っただけで山が割れる。


「……怪我はないか」


「ない。——でも」


 建御名方たけみなかたが自分の手を見ていた。震えていた。力が余っている。走った程度の衝撃で山を割る力が——この子の体に収まりきらずに溢れ出ている。


 木俣このまたが後から来た。十五歳の姉が息を切らして山を登ってきた。割れた山頂を見て——立ち止まった。


「…………また?」


「また」


「先週は川の流れを変えたよね。先月は崖を崩したよね。——次は何を壊すの」


「壊したくて壊しているのではない」


「分かってる。分かってるけど——」


 木俣このまたの目が——少しだけ怯えていた。八上比売やがみひめの真っすぐな目を受け継いだ姉が、弟の力に怯えている。それが——建御名方たけみなかたには分かった。


「……姉さん。——怖い?」


「怖くない」


「嘘だ」


「…………少し」


 建御名方たけみなかたが——目を伏せた。十一歳の子供の顔に——大人の諦めが浮かんだ。


「……俺も怖い。自分が」


 それを聞いて——何かを思い出した。


 二度死んで蘇ったとき。「怖くない。怖くないことが怖い」。俺のあの感覚が——息子にも、形を変えて宿っている。俺は死が怖くなかった。この子は自分の力が怖い。


 村に連れ帰った。


 事代主ことしろぬしが——畑の端で鯛を干していた。二十五、六の穏やかな長男。山が割れる音が聞こえたはずだが、鯛を干す手を止めなかった。


「……山が割れましたね」


「ああ」


「先週は川。先月は崖。来月は——何でしょうね」


「笑い事じゃない」


「笑っていませんよ。——考えています」


 事代主ことしろぬしが干した鯛を裏返しながら言った。


「あの子の力は——国魂くにたまに近い。父上が大物主おおものぬしから受け取った大地の力と——同じ質のものが、生まれつき入っている」


「……ああ」


「制御できなければ——出雲そのものを壊す。あの子が成長するほど——力も育つ。体が追いつかない」


 分かっている。分かっているが——方法がない。


 俺の国魂くにたま大物主おおものぬしの中に入って繋ぎ直すことで制御した。建御名方たけみなかたの力は——生まれつきだ。外から繋ぎ直すものがない。内側にしかない。


 その日の夕方。


 建御名方たけみなかたが——握り飯を受け取った。須勢理毘売すせりびめが握った飯。受け取っただけだ。力を入れたつもりはない。


 しかし——指が沈んだ。飯粒が指の間から押し出されて、手の中で潰れた。ただ持っただけで——握り飯の形が消えた。


「…………」


 建御名方たけみなかたが手を開いた。潰れた飯粒が掌にへばりついている。


「……ごめん」


「いい。もう一つ握る」


 須勢理毘売すせりびめが新しい握り飯を差し出した。しかし建御名方たけみなかたは——受け取らなかった。


「……受け取れない」


「受け取りなさい」


「また壊す。——母さまが握ってくれたのに」


「壊してもいい。また握る」


「…………」


「何度壊しても——また握る。それが母です」


 建御名方たけみなかたが——握り飯を受け取った。今度は——壊さなかった。歯を食いしばって。指先の力を全て殺して。震えながら。握り飯一つ持つのに——全神経を集中させている。


 こんな生活が——十年続いていた。


 歩けば地面が揺れる。走れば山が割れる。握れば物が砕ける。叫べば空気が裂ける。


 建御名方たけみなかたは——壊すことしかできない体を持って生まれた。


 夜。


 清い川のそばで座っていた。須勢理毘売すせりびめが隣にいた。


「……あの子を——どうすればいい」


「…………」


「力が育ちすぎている。体が追いつかない。このままでは——出雲を壊す。あの子自身が」


「……一つだけ——方法がある」


「何だ」


言霊式ことだましき。——力を歌に変える」


「歌に」


「力をそのまま体に溜めるから溢れる。歌にすれば——力が形を持つ。形を持てば制御できる。——少名毘古那すくなびこなの書き残しに、あった」


まもりか」


まもりではない。——別の歌。育てる歌」


「……お前の体は——大丈夫なのか。まもりのときのように——」


まもりは守るために自分を削る歌だった。これは——分ける歌。自分の言霊ことだまを子供に分けて、力に形を与える。——削るのではなく、渡す」


 言霊式ことだましきはぐくみ


 翌朝。


 村の外の広場で——試した。村から離れた。壊れても困らない場所で。


 建御名方たけみなかたが広場の中央に立った。周囲に誰もいない。枯野かれのだけが遠くから見ていた。三本の腕で地面に根を張って——衝撃に備えている。


 須勢理毘売すせりびめが——歌い始めた。


 低い声。穏やかな声。しかし——建御名方たけみなかたの力に触れた瞬間、声が跳ね返された。


「……っ」


 力が大きすぎた。言霊ことだまが弾かれた。建御名方たけみなかたの体から溢れ出る力が——歌を受け入れない。


「もう一度」


 歌った。今度は強く。しかし——また弾かれた。建御名方たけみなかたの力は歌より大きかった。器に水を注いでいるが、器が暴れて水を弾いている。


「……母さま。——無理だ」


「無理じゃない」


「俺の力が——大きすぎる。母さまの歌じゃ——」


「大きすぎるなら——大きく歌う」


 須勢理毘売すせりびめが——声を上げた。


 まもりのとき以来の——全力の声。体が拒否するはずだった。まもりを使いすぎて壊れかけた体が——歌を拒否するはずだった。


 しかし——歌った。


 まもりではない。はぐくみだ。守るのではなく育てる。削るのではなく分ける。自分の言霊ことだまを息子に分け与える。


 声が——建御名方たけみなかたの力に触れた。


 今度は弾かれなかった。


 力が——形を取り始めた。暴走していた奔流が、歌の旋律に沿って整列していく。建御名方たけみなかたの足元の地面が——揺れなくなった。


「……揺れてない」


 建御名方たけみなかたが自分の足を見た。地面に立っている。ただ立っているだけなのに——揺れていない。


「歌に合わせて——力を動かしなさい。筋が見えるでしょう。その筋に沿って」


「……見える。——力が、線になって見える」


「その線に沿って——手を動かして」


 建御名方たけみなかたが——手を伸ばした。地面に触れた。


 地面が——動いた。


挿絵(By みてみん)


 壊れたのではなかった。動いた。建御名方たけみなかたの手が触れた場所の土が——持ち上がった。形を取った。丘になった。小さな丘が——建御名方たけみなかたの手で、地面から生えてきた。


「……作れた」


「壊すだけの力ではない。——作る力にもなる」


 須勢理毘売すせりびめが息を切らしていた。汗が白い肌を伝っていた。しかし——倒れなかった。まもりのときとは違う。削ったのではなく、分けた。分けた分だけ——疲れるが、壊れはしない。


 建御名方たけみなかたが——丘の上に立った。自分が作った丘。初めて——壊すのではなく、作ったもの。


 笑った。十一歳の笑い。


 その笑いで——空気が震えた。丘の土が少し崩れた。


「……あ」


「……まだ笑いは制御できないらしいな」


「……ごめん」


 木俣このまたが遠くから見ていた。さっきまで怯えていた目が——変わっていた。


「……みなかた。——すごいじゃん」


「姉さん——見てた?」


「見てた。——丘、作ったの?」


「作った。——初めて」


「……すごい」


 木俣このまたが走ってきた。丘を登った。建御名方たけみなかたの隣に立った。


「ここからだと——出雲が全部見えるね」


 二人で——出雲を見ていた。小さな丘の上から。姉と弟が。


 事代主ことしろぬしが畑の端から見ていた。鯛を干す手が——止まっていた。


「……すごい子だ。——しかし」


「しかし何だ」


「あの力を——空の向こうの者も、見ていますよ」


 ああ。見ているだろう。建御雷神たけみかづちが。十年間待ち続けた理由が——これかもしれない。この力が育つのを。戦う価値のある相手になるのを。


 須勢理毘売すせりびめが俺のそばに来た。疲労で顔が白い。しかし——目は笑っていた。


「……あの子は——大丈夫です。力に形を与えれば——制御できる。時間はかかるけど」


「お前の体は」


「大丈夫。——今度は壊れません。はぐくみは、まもりとは違う」


「…………」


「信じてください」


「信じる。——しかし無理はするな」


「無理はします。——母ですから」


 正論だった。母の正論には——勝てない。


 夕方。


 五人で夕空を見ていた。俺と須勢理毘売すせりびめ木俣このまた建御名方たけみなかた事代主ことしろぬし


 建御名方たけみなかたが作った丘の上で。


 空がオレンジから紫に変わっていく。


 まだ——来ない。しかし近い。


 見ている。あの空の向こうから。


 しかし今日は——山が割れて、握り飯が潰れて、丘が生まれた日だった。


 明日も——そうであってほしい。壊して、直して、また壊して。そういう日が続いてほしい。


 空が暗くなっていく。星が出てきた。


 まだ来ない。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


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