第三十五章 建御雷神(たけみかづち)の影
夜半に——目が覚めた。
理由は分からなかった。物音がしたわけではない。建御名方が泣いたわけでもない。須勢理毘売は隣で眠っている。冷たい呼吸。穏やかな寝息。
何かが——違った。
足の裏。国魂を通じて大地を感じる足の裏に——何かが触れた。
大地の感覚ではなかった。
空から来ていた。
起き上がった。外に出た。
空を見た。
星が出ていた。月が低い位置にある。雲はない。穏やかな夜空——のはずだった。
しかし——空の一点が、おかしかった。
北東の空。星と星の間に——光がなかった。光がないのではなく——光を飲み込んでいる場所があった。星の光がそこだけ消えている。黒い穴のように。
いや——穴ではない。何かが、星の前に立っている。星を隠すほど大きな何かが——空の向こうにいる。
見えない。形が見えない。しかし——感じる。国魂が、大地を通じて、空の異変を感じ取っている。
圧力があった。
遠い場所から——押されている。空の上から。大地に向かって。視線のような圧力。何かが——地上を見ている。
空気が変わった。
匂いがした。焦げた匂い。しかし何も燃えていない。火の匂いではなく——雷の匂い。雷が落ちた直後の、空気が裂けた匂い。
雷は落ちていない。匂いだけが来ている。
——稲光が走った。
一瞬だった。空の一点から——鋭い白い光が地上に落ちた。しかし地面には届かなかった。途中で消えた。届く前に——引き戻された。
試し撃ち。
あるいは——こちらを見るために、一瞬だけ光を落とした。暗い部屋で一瞬だけ松明をつけるように。中を確認するために。
光が落ちた一瞬——俺は見た。
空の向こうに——影があった。
人の形。しかし人より大きい。アメノホヒより大きい。天若日子より大きい。剣を持っている。剣が——雷を纏っていた。
一瞬で消えた。闇に戻った。
しかし——残像が目に焼きついていた。
剣。雷。圧力。
建御雷神。
名前が——浮かんだ。アメノホヒが言っていた名前。「高天原最強の武神」。
来た——のではない。まだ来ていない。しかし——見ている。ここを。出雲を。俺を。
「……大国主」
声がして振り向いた。アメノホヒが立っていた。金色の目が——揺れていた。同じものを感じたのだろう。高天原の生まれだから——空の異変を、俺より正確に感じ取っている。
「……見えたか」
「見えた。——感じた。あれは」
「建御雷神か」
「……ああ。——間違いない」
アメノホヒの声が——震えていた。
「天若日子のときとは——違う。あれは使者ではない。武神だ。戦うためだけに作られた神だ」
「…………」
「俺が——使者として失敗した。天若日子も——死んだ。二度の失敗の後に来る三度目は——話し合いではない」
「分かっている」
「分かっているか。——本当に」
アメノホヒが——俺の顔を見た。金色の目が真剣だった。
「大国主。あの神は——俺や天若日子とは次元が違う。高天原の全ての武器を使いこなす。雷そのものの体を持つ。速さは光に近い。力は——山を割る」
「…………」
「お前の国魂で——止められるかどうか、分からない」
止められないかもしれない。
その可能性を——初めて、具体的に突きつけられた。
枯野が地面から起き上がった。大地の振動で目覚めたのだろう。三本の腕で体を支えて、空を見た。
「……空が——怒っている」
「怒っているのではない。見ている」
「見ているだけか。——それが一番怖い。怒って暴れる奴は対処できる。静かに見ている奴は——何を考えているか分からない」
枯野は荒ぶる神だった。暴走する側の論理を知っている。だから——暴走しない者の怖さも知っている。
足音がした。
村の外から。東の道から。走ってきている。神の足音だ。しかし——知らない気配。出雲の神ではない。集まってきた五十柱のどれとも違う。
人影が朝霧の中から現れた。
若い男だった。俺より少し背が低い。日に焼けた肌。潮の匂いがする。着物の裾が濡れている。海辺から——走ってきたのか。
肩に——釣竿を担いでいた。
右手に魚を一匹ぶら下げていた。鯛だった。走ってきたのに魚を持っている。手放さなかったのか。手放すという選択肢がなかったのか。
男が——俺の前で止まった。息が切れていた。しかし目は切れていなかった。黒い目。俺と似ている目。
「——父上」
「…………」
「初めまして。——いえ。会うのは初めてですが、父上の国は知っています。道を歩いてきましたから」
父上。
「……お前は」
「事代主と申します。——あなたの息子です」
息子。
俺の——息子。
知っていた。名前は。事代主。荷物持ちの頃——八十神の旅に出る前に、出雲の海辺の村で縁があった女との間にできた子。母はすでにいない。子は美保の浜で育ったと、風の噂で聞いていた。
荷物持ちだった頃の俺に、子供がいた。名前をもらう前の——何者でもなかった頃の子。
会いに行かなかった。
荷物持ちのときは——自分の子を養う力もなかった。根の堅洲国から戻った後は国作りに追われた。八上比売を失い、その子・木俣を須勢理毘売に育ててもらっている。もう一人の子にまで——手が回らなかった。
言い訳だ。全部。
事代主は——十五、六に見えた。荷物持ちの頃から数えれば、それくらいになる。海辺で育った分だけ、肌が焼けて、腕が太い。俺に似て穏やかな顔をしているが——体つきは母に似たのか、俺より骨太だった。
「……なぜ来た」
「空が光りました。——海の上から見えた。出雲の方角が。あの光は——ただの雷ではない。分かったから——走ってきた」
「走って——どこから」
「美保の浜です。釣りをしていたら——空が」
「……釣りを」
「はい。——それが仕事なので」
鯛をぶら下げたまま言った。走ってきたのに釣果を手放さない男。
枯野が事代主を見ていた。
「……大国主。息子か」
「……ああ。——息子だ」
「何人いるんだ。息子が」
「…………数えるな」
事代主が——周囲を見た。アメノホヒの金色の目。枯野の三本腕の巨体。俺。
「……大きな国になりましたね。——道を歩いてきて分かりました。どこまでも——道が繋がっている」
「ああ。繋いだ」
「その道のおかげで——走ってこられた。美保から出雲まで、一晩で」
俺が作った道が——また誰かを連れてきた。須勢理毘売を連れてきたように。
「父上。——俺にできることがあれば」
「…………」
「会いに来てくれなかったことは——怒っていません。母からあなたの話は聞いていた。忙しい人だと。国を作っている人だと。——だから待っていた」
待っていた。会いに来てくれるのを——待っていた。来なかったけれど——怒っていない。
八上比売と同じだ。待つ女がいた。待つ子がいた。俺は——行かなかった。
「……すまない」
「謝らなくていいです。——来たから。俺が。ここにいるから来た」
——ここにいるから来た。
この言葉が——俺の息子の口から出てきた。
須勢理毘売が——館の入口に立っていた。
建御名方を抱いていた。眠っている子供を胸に。藍色の目が——事代主を見ていた。
初対面だった。
須勢理毘売と事代主。正妻と、別の母の息子。
「……あなたが——須勢理毘売さまですか」
「はい」
「…………」
事代主が——頭を下げた。深く。
「母が——父上の話をするとき、いつも須勢理毘売さまの名前が出ました。父の正妻だと。——ご挨拶が遅れました」
「…………」
須勢理毘売の目が——揺れた。別の女の子。大国主の、知らない子。
しかし——事代主の目を見て、何かが変わった。黒い目。大国主と同じ目。穏やかで、真っすぐで。
「……鯛を持ったまま頭を下げるのですか」
「あ。——すみません。手放すのを忘れて」
「…………」
「走ってきたので——つい」
須勢理毘売の口元が——動いた。
「……上がりなさい。朝餉の支度をします。——鯛は、焼きますか」
「……いいのですか」
「あなたが持ってきた鯛です。あなたが食べるのが筋でしょう」
「…………ありがとうございます」
事代主が館に入っていった。鯛を持ったまま。
俺は——立っていた。
息子が来た。会いに行かなかった息子が。自分の足で。俺が作った道を走って。鯛を手放さずに。
「……大国主」
須勢理毘売が小さく言った。
「あなたの息子は——あなたに似ていますね」
「……どこが」
「穏やかなところ。——そして、鈍いところ」
「…………」
「鯛を手放さないところも。あなたなら——荷物を手放さなかったでしょう」
荷物持ちの血が——息子にも流れているのか。持ったら離さない。重くても。走っていても。
空を見た。北東の影は——夜明けに消えていた。しかし——来る。
来るが——今、ここに、もう一人増えた。
建御名方を抱いていた。眠っている子供を胸に。藍色の目が——空を見ていた。
「……来るのですね」
「ああ。——来る」
「いつ」
「分からない。しかし——近い」
「…………」
建御名方が——眠りながら、小さく声を出した。夢を見ているのか。声に合わせて——足元の地面が、かすかに揺れた。
この子が——育ったら。
この子の力が——完成したら。
建御雷神と——戦えるのか。
考えてはいけない。子供に戦いを背負わせることを——考えてはいけない。しかし——考えてしまう。この子の泣き声で大地が揺れる。この子が歩けば地面にひびが入る。この子が育てば——
「……大国主」
須勢理毘売が言った。
「この子のことを——考えていますか」
「…………」
「考えないでください。——まだ」
「……ああ」
「この子は——私が守る。あなたは——国を守って。この子のことは——私が」
同じことを前にも言った。建御名方が生まれたとき。「あなたが国を守る。私がこの子を守る」。
しかし——守れるのか。建御雷神が来たとき。国も子も——全部守れるのか。
空が——明るくなり始めた。夜明け。東の空がオレンジ色に変わっていく。
北東の空の影は——消えていた。星を飲み込んでいた場所が——もう見えない。夜明けの光に溶けた。
しかし——消えたのではない。見えなくなっただけだ。
昼でも——あの影はそこにいる。太陽の光に隠れているだけで。
朝日が出雲を照らした。田が光った。金色の穂が揺れていた。清い川が光っていた。子供の寝息が聞こえた。
美しかった。
ヒサメが言った。「楽しい時間を覚えておいてください」。覚えている。昨日の空を。昨日の笑顔を。昨日の草の匂いを。
覚えている。——覚えているから、守れる。
守れるのか。
分からない。
しかし——ここにいる。ここにいるから——守る。
空が明るくなっていく。出雲の朝が来る。何度目の朝か。数えきれない朝を迎えてきた。明日も朝が来る。明後日も。
その朝のどれかに——雷が来る。
エピローグ 空は近い
清い川のそばで立っていた。
国は形になった。あの頃——そう思った。「国は形になった。しかし空は遠い」と。
今は——空は近い。
近すぎる。空が——降りてこようとしている。
出雲の国。俺が作った国。道を繋いで、田を耕して、水路を引いて、歌で結んで、仲間を集めて、子供を育てて——作った国。
その国に——雷が落ちようとしている。
守れるか。守れないか。
分からない。分からないが——ここにいる。
隣に——須勢理毘売がいる。後ろに——枯野がいる。アメノホヒがいる。小さな神たちがいる。腕の中に——建御名方がいる。
足の裏に——国がある。
ここにいるから——守る。
それしか知らない。それだけしか——俺には、ない。
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