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第三十四章 ヒサメ

 春だった。


 清い川のそばで——建御名方たけみなかたが歩いていた。


 一歳半。歩き始めたのは一歳の頃だが、歩くたびに地面が揺れるので、村人が怖がった。今は——少し加減を覚えた。少し。まだ転ぶと地面にひびが入る。


 木俣このまた建御名方たけみなかたの手を引いていた。五歳になった木俣このまたは、弟の面倒を見るのが好きだった。


「みなかた、こっち。川。きれいだよ」


「……かー」


「かわ。川」


「かー」


 まだ喋れない。しかし——声を出すたびに、水面が波打つ。建御名方たけみなかたの声には力がある。泣き声ほどではないが——言葉を覚えたら、どうなるのか。少し怖い。


 須勢理毘売すせりびめが——川辺で洗い物をしていた。


 白い肌が太陽を受けて光っている。地上に出て四年以上。肌が——ほんの少しだけ色づいていた。スサノオが言っていた通り。真白だった肌に、かすかな温かみが加わっていた。


 須勢理毘売すせりびめは——変わった。


 地の底の姫ではなくなった。出雲の母になった。洗い物をして、飯を炊いて、木俣このまたに字を教えて、建御名方たけみなかたの泣き声で家が揺れるたびに抱き上げて鎮めて。


 口と目で笑うようになった。地の底では口だけだった。地上に出て目も笑うようになった。今は——笑う回数が増えた。子供の前では特に。


 言霊式ことだましきまもりは——まだ使えなかった。声は出る。歌も歌える。しかしまもりの力だけが——戻らない。体が覚えている恐怖。使いすぎて壊れかけた記憶が、力を封じている。


 俺は——田の畦道を直していた。


 国魂くにたまがあれば大地を動かせる。大規模な地形変化もできる。しかし畦道を直すのに国魂くにたまは使わない。手で直す。荷物持ちの手で。


 枯野かれのが隣で手伝っていた。三本の腕で泥を運んでいる。


「……平和だな」


「ああ」


「いつまで続く」


「分からない」


「分からないか。——俺も分からない」


 枯野かれのは大地の神だ。大地の変化を——感じる。空の変化は分からないが、大地が震えれば分かる。今のところ——大地は穏やかだった。


 昼。


 皆で飯を食った。


 俺と須勢理毘売すせりびめ木俣このまた建御名方たけみなかた。老夫婦。枯野かれのは食べない。大地の神は食事をしない。しかし横にいた。三本の腕で地面を支えて座っていた。


 アメノホヒも来た。金色の目をしたまま、出雲の握り飯を食べている。


「……うまい」


「三年も食べているだろう」


「三年食べても——うまい。高天原たかまがはらにはこの味がない」


 建御名方たけみなかたがアメノホヒの膝に登った。アメノホヒが困った顔をした。


「……重い。この子は——重い」


「力が詰まっているから」


「この重さで——歩くたびに地面が揺れるのか」


「揺れる」


「……末恐ろしいな」


 木俣このまた建御名方たけみなかたをアメノホヒの膝から引き剥がした。


「みなかた、だめ。ホヒさんが困ってる」


「かー」


「かわ、じゃないの。だめ、って言ってるの」


 姉弟だった。血は繋がっていない。母が違う。しかし——姉弟だった。木俣このまたは自分が姉だと思っている。建御名方たけみなかた木俣このまたの声で泣き止む。


 午後。


 川辺で寝転んでいた。空を見ていた。青い空。白い雲。春の風が草を揺らしている。


 何もしない時間。国作りの仕事が一段落して、荒ぶる神も鎮まって、田が実って、子供が育って——何もしなくていい時間。


 こんな時間は——いつ以来だろう。


 荷物持ちの頃は休みがなかった。休むと怒られた。根の堅洲国ねのかたすくにでは試練が続いた。地上に出てからは国作りが止まらなかった。旅に出て、戦って、走って、泣いて、歌って——


 止まっていなかった。ずっと。


 今——止まっている。


 草の上に寝転んで、空を見て、風を感じて、川の音を聞いて。子供の笑い声が遠くから聞こえて。須勢理毘売すせりびめが洗い物を干している布の白が見えて。


 ——幸福だった。


 認めたくないが——幸福だった。認めたくないのは、認めると失うような気がするから。名前をつけると消えるものがある。幸福はそういう類のものだ。


 しかし——幸福だった。


「——楽しそうですね。」


 声がした。


 横を向いた。


 草の中に——黒い炎が揺れていた。


 ヒサメ。


 灰白色の肌。目のない顔。笑顔。蝋燭の黒い炎。


 いつの間にいた。いつもそうだ。気づいたときにはいる。


「……ヒサメ。——久しぶりだな」


「久しぶりです。」


「いつから見ていた」


「少し前から。」


「…………」


「楽しそうですね。——本当に。」


 本当に。ヒサメが「本当に」をつけた。いつもは定型句しか言わないこの子供が——「本当に」と言った。


「……ああ。楽しい」


「楽しいですか。」


「楽しい。——国ができた。子供が生まれた。田が実った。仲間がいる。妻がいる。——楽しい」


「…………」


「……お前は——楽しいか」


「私は——分かりません。楽しいという感覚が——よく分からない。」


「…………」


「でも——あなたが楽しそうなのを見るのは、嫌ではない。」


 嫌ではない。須勢理毘売すせりびめと同じ表現。「好き」ではなく「嫌ではない」。最大限の肯定。


「……ヒサメ。——お前に聞きたいことがある」


「何ですか。」


「お前が因幡いなばで言った——『後でわかります』。あれは——いつ分かる」


「後で。」


「いつの後だ」


「……後でわかります。」


 三度目——いや、何度目だ。数えるのをやめた。この子供は「後でわかります」しか答えない。しかし——いつか分かるのだと信じている。この子供が嘘をつくとは思えないから。


「……一つだけ——聞いていいか」


「何ですか。」


「お前は——何のためにいる。何を見ている。なぜ俺のそばに現れる」


 ヒサメの笑顔が——変わらなかった。変わらないことが——答えだった。


「……後でわかります。」


「だろうな」


「でも——一つだけ。」


「何だ」


「楽しい時間を——覚えておいてください。」


「…………」


「覚えておけば——後で、支えになります。」


 ヒサメが——消えた。黒い炎が揺れて、小さくなって、消えた。


 草の上に一人残された。


 空が青かった。雲が白かった。風が吹いていた。


 ——覚えておけ、と言われた。この時間を。この幸福を。


 ヒサメがそう言うとき——何かが終わる前触れだ。俺はそれを知り始めていた。


 しかし今日は——覚える日だ。


 須勢理毘売すせりびめが布を干し終わって、こちらに歩いてきた。


「……何を寝転んでいるのですか」


「空を見ていた」


「仕事は」


「終わった」


「……暇なのですか」


「ああ。暇だ。——珍しく」


「…………」


 須勢理毘売すせりびめが——隣に座った。草の上に。白い肌に太陽が当たっている。


 しばらく黙って、二人で空を見ていた。


「……きれいですね」


「ああ」


「根の堅洲国ねのかたすくにには——この空がなかった」


「ああ」


「……慣れたくない——と、言っていたのに。私。慣れてしまった」


「……そうだな」


「でも——慣れても、きれいだとは毎回思う。慣れても——思うことは、なくならない」


「…………」


「それでいい——と、思えるようになった」


 須勢理毘売すせりびめが——笑った。目も口も。


 覚えておく。


 この日を。この空を。この笑顔を。


 ヒサメが言った通りに——覚えておく。

ご拝読いただきありがとうございました!

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