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第三十三章 建御名方神の誕生

 須勢理毘売すせりびめが目を覚ましたのは、三日後だった。


「……どのくらい——寝ていましたか」


「三日」


「……長い」


「短い。——もっと寝ていていい」


「寝ていたら——国が」


「国より先にお前だ」


 須勢理毘売すせりびめが——俺を見た。藍色の目。焦点が合っている。色が戻っている。


「……そういうことを——さらりと言うのですね」


「さらりとは言っていない。三日間ずっと考えて出た結論だ」


「…………」


「国より先に、お前。——それは変わらない」


 須勢理毘売すせりびめの口元が動いた。笑ったのだろう。しかし体に力が入らなくて、いつもの口だけの笑いにもならなかった。


「……ありがとう」


 須勢理毘売すせりびめが「ありがとう」と言ったのは——初めてだった。いつも「お礼はいいです」と言う側だった。初めて——自分から礼を言った。


 回復は遅かった。


 まもりの代償は重かった。体の奥にある言霊ことだまの力が——枯渇していた。枯野かれのがかつて水脈を失って枯れたように、須勢理毘売すせりびめ言霊ことだまの源が干上がっていた。


 一週間で起き上がれるようになった。二週間で歩けるようになった。一ヶ月で——日常に戻った。しかし歌えなかった。言霊式ことだましきまもりを使おうとすると——声が出ない。体が拒否する。


「……歌えない。——声は出るのに。言霊ことだまだけが——出ない」


「無理をするな。——時間がかかるだけだ」


「時間が——あるのですか。建御雷神たけみかづちが来る前に」


「……分からない。しかし——今は回復が先だ」


 須勢理毘売すせりびめは焦っていた。戦いが来る。高天原たかまがはらの最強の武神が来る。そのときに——歌えなければ、何もできない。


 俺は——焦らせなかった。焦らせても体は治らない。


 二ヶ月が経った。


 ある朝——須勢理毘売すせりびめの様子がおかしかった。


 朝食を見て——顔色が変わった。白い肌がさらに白くなった。外に出た。吐いた。


「……須勢理毘売すせりびめ——」


「大丈夫です。——胃が」


まもりの後遺症か」


「……違うと思います」


 違った。


 老婆が——須勢理毘売すせりびめを見て、笑った。


「奥さま。——それは病ではありませんよ」


「…………」


「お腹に——おられます」


 子供だった。


 須勢理毘売すせりびめの中に——子供がいた。


「…………」


「…………」


 二人で黙った。長い間。


「……いつだ」


「……分かりません。——でも」


「…………」


「山の——前の夜か。大物主おおものぬしの前の夜。あなたが——『死んだら許さない』と言ったとき」


「お前が言ったんだ。俺じゃない」


「…………あなたに——言ったのです」


 まもりで体を壊す前夜。あの夜に——命が始まっていた。


 月が経った。


 須勢理毘売すせりびめの体が変わっていった。白い肌の腹が——膨らんでいった。冷たい体の中で、温かいものが育っていた。


「……温かい」


 須勢理毘売すせりびめが自分の腹に手を当てて言った。


「……中が——温かい。初めての感覚」


「子供は——温かいものだ」


木俣このまたを抱いたときも——温かかった。でも——中にいるのは、違う。もっと——直接的に温かい」


 木俣このまた八上比売やがみひめの子だ。預かった子だ。それでも須勢理毘売すせりびめは温かいと言った。自分の子は——もっと温かいと言っている。


 木俣このまたは四歳になっていた。須勢理毘売すせりびめの膨らんだ腹を見て——手を当てた。


「……あったかい」


「ええ。あなたの——弟か妹」


「おとうと? いもうと?」


「まだ分からない。——出てきてからのお楽しみ」


 木俣このまたが笑った。須勢理毘売すせりびめも笑った。目と口で。


 枯野かれのが畑の端から見ていた。


「……家族が増えるのか」


「ああ」


「……いいことだ。——守るものが増えるということでもあるが」


「分かっている」


「分かっていて——嬉しいか」


「……ああ。嬉しい」


「そうか。——俺には分からない感覚だが」


 枯野かれのは大地の神だ。子を持つ感覚は分からないだろう。しかし——「いいことだ」とは言ってくれた。


 出産の日が来た。


 秋だった。稲穂が金色に実っている。田が——荒ぶる神に壊された後、俺が直した田が——初めての収穫を迎えていた。


 須勢理毘売すせりびめが——声を上げた。


 産声ではなく、須勢理毘売すせりびめ自身の声。老婆が介助した。俺は部屋の外で——待った。何もできなかった。国魂くにたま言霊式ことだましきも——出産の前では無力だ。


 待つことしかできない。須勢理毘売すせりびめが根の堅洲国ねのかたすくにから振動を送ったとき——俺が待つしかなかったように。今度は俺が——待つ側だ。


 声が——変わった。


 須勢理毘売すせりびめの声が消えて——別の声が聞こえた。


 泣き声。


 小さい。しかし——大きかった。


 大きい泣き声だった。体の大きさに対して——声が大きすぎた。


 地面が——揺れた。


 泣き声で。赤ん坊の泣き声で——大地が揺れた。


 部屋に入った。


 須勢理毘売すせりびめが赤ん坊を抱いていた。汗で白い肌が光っていた。疲労で藍色の目が半分閉じていた。しかし——腕は離さなかった。


 赤ん坊は——泣いていた。泣くたびに——空気が震えた。部屋の壁が軋んだ。


「……大きな声だ」


「ええ。——大きすぎる」


 老婆が不安な顔をしていた。


「……この子の声は——普通ではありません。泣くたびに——家が揺れる」


 力が強い。生まれたばかりで——力が溢れている。泣き声が大地を揺らすほどの。


 抱いた。


挿絵(By みてみん)


 須勢理毘売すせりびめから受け取った。重かった。木俣このまたより重かった。同じ赤ん坊なのに——密度が違う。力が詰まっている。


 泣き止んだ。


 俺が抱いた瞬間——泣き止んだ。大地の揺れが止まった。


「……泣き止んだ」


「あなたの手が——温かいからでしょう」


「……いや。これは——」


 国魂くにたまだ。俺の中にある国魂くにたまが——この子の力と共鳴している。大地の力が大地の力に応えている。親の力が子の力を鎮めている。


「……名前は」


「——あなたがつけてください」


「俺が」


「子の名前は——父がつけるものです」


 俺の名前は——スサノオがつけた。大国主おおくにぬし。義父が。しかし最初の名前——大穴牟遅おおなむぢは、確かに父がつけたのだろう。顔も知らない父が。


 赤ん坊を見た。黒い目が俺を見ていた。須勢理毘売すせりびめの藍色ではなく——黒い目。深い黒。力の色。


「——建御名方たけみなかた


建御名方たけみなかた


「武の名を持つ方。——この子は強い。生まれたときから。だから——武の名を」


「……武。——あなたは、武の人ではないのに」


「俺は武の人ではない。だからこそ——この子には武を持たせたい。俺にないものを」


 須勢理毘売すせりびめが——俺を見ていた。


「……あなたは——この子に、戦わせるつもりですか」


「…………」


「来るのでしょう。建御雷神たけみかづちが。この子が——その相手に——」


「……そうなるかもしれない。ならないかもしれない。——しかしこの子の力は、本物だ。生まれたての泣き声で大地を揺らす子は——いない」


「…………」


 須勢理毘売すせりびめが——建御名方たけみなかたを抱き直した。小さな体を胸に抱えた。冷たい腕に、温かい子供。


「……この子は——私が守ります」


「ああ」


「あなたが国を守る。私がこの子を守る。——それでいいですか」


「いい。——それがいい」


 建御名方たけみなかたが——また泣いた。小さく。さっきほど大きくはなかった。腹が空いたのだろう。


 須勢理毘売すせりびめが乳を含ませた。泣き止んだ。


 地面は揺れなかった。母の温度で——力が鎮まっている。


 窓の外で——秋の風が吹いていた。稲穂が揺れていた。金色の穂が。


 国は実っている。子供が生まれた。守るものが——また一つ増えた。


 空を見た。高い空。遠い空。


 あの空の向こうから——いつか、雷が来る。


 しかし今日は——秋だ。稲が実って、子供が泣いて、風が吹いている。


 今日は——それだけで十分だった。

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