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第三十二章 須勢理毘売が倒れた

 山を降りた。


 国魂くにたまを受け取った体は重かったが、歩けた。足の裏から大地の感覚が流れ込んでくる。出雲の全ての道が——体の中の地図のように感じられる。不思議な感覚だった。


 枯野かれのが三本の腕で木をなぎ倒しながら道を作ってくれた。


「……枯野かれの。腕は大丈夫か」


「折れた腕は戻らない。——しかし三本あれば十分だ」


「…………」


「四本が贅沢だった。三本が丁度いい」


 強がりか。本心か。この神はどちらとも取れる言い方をする。


 須勢理毘売すせりびめが——後ろを歩いていた。


 いつもは隣を歩く。暗闇でも先を歩く。しかし山を降り始めてから——後ろにいた。


「……須勢理毘売すせりびめ。前に来い。道が悪い」


「大丈夫です。——先に行ってください」


「前に——」


「大丈夫です」


 二度言った。須勢理毘売すせりびめが同じ言葉を二度言うとき——一度目は返答。二度目は拒絶。それを俺は知っている。


 気にはなったが——先を歩いた。


 山を降りきった。


 出雲の平野に出た。壊された田が見えた。しかし——すでに村人が動き始めていた。倒れた穂を起こしている。水路の泥をかき出している。


「……直し始めている」


「お前が教えたからだ。壊されたら直すと」


 枯野かれのが言った。


 村の入口に着いた。子供が走ってきた。


「おっきい人帰ってきた! 荒ぶるやつ倒したの!?」


「倒したのではない。鎮めた」


「しずめた?」


「静かにした」


「すごい!」


 子供にとっては倒しても鎮めても同じらしい。


 振り向いた。須勢理毘売すせりびめに何か言おうとして——


 須勢理毘売すせりびめが——立っていなかった。


 膝をついていた。


 村の入口で。道の上で。両手を地面について。白い肌が——さらに白くなっていた。血の気が引いている。


須勢理毘売すせりびめ!」


 走った。駆け寄った。


 顔を見た。藍色の目が——焦点が合っていなかった。


「……大丈夫——です」


「大丈夫じゃない——顔が」


「少し——歌いすぎた、だけ——」


 歌いすぎた。まもりを。大物主おおものぬし暴走のとき——俺が金色の巨人の中に入っている間、ずっと歌っていた。まもりの壁を維持し続けた。どのくらいの時間だったか——俺には分からなかった。中にいたから。


「……どのくらい歌っていた」


「……分からない。——あなたが中に入ってから、出てくるまで。ずっと」


「ずっと——」


「止めたら——壁が消える。壁が消えたら——あなたが溶ける。だから——止められなかった」


 止められなかった。俺のために。俺を守るために。歌い続けた。体が壊れるまで。


枯野かれの!」


「ここだ」


「水を——」


「持ってくる」


 枯野かれのが走っていった。三本の腕で地面を蹴って。速い。


 須勢理毘売すせりびめを抱き起こした。軽かった。いつもより軽い。体から何かが抜けている。


「……手が——」


「何だ」


「手が——温かくない。あなたの手が。いつもは——温かいのに」


 俺の手が冷たいのではない。須勢理毘売すせりびめの体が——熱を失っている。もともと冷たい体が——さらに冷たくなっている。


「喋るな。——横になれ」


「横に——なると——歌えなく——」


「歌わなくていい! もう歌わなくていい!」


 叫んだ。自分の声が——大きかった。二度死んでも叫ばなかった。荒ぶる神にも叫ばなかった。しかし——この女が倒れたら叫んだ。


 須勢理毘売すせりびめの目が——俺を見た。焦点が合わない目で。


「……怒って——いますか」


「怒っていない。——怖い」


「怖い」


「お前が壊れるのが——怖い」


「……怖くないことが怖い——ではなく」


「怖い。普通に。お前が死ぬのが怖い」


 須勢理毘売すせりびめの口元が——動いた。笑おうとした。しかし力が入らなかった。口元が震えて——止まった。


 枯野かれのが水を持ってきた。清い川の水。スサノオが残した川の水。


 飲ませた。冷たい水を。須勢理毘売すせりびめが少しだけ飲んだ。


「……冷たい」


「ああ」


「この水——いつも冷たい。——好き」


「黙れ。喋るな。体力を——」


「…………」


 目を閉じた。眠ったのではない。力が尽きたのだ。


 ——幸魂さきみたま奇魂くしみたま


 今しがた受け取ったばかりの力。奇魂くしみたまは——癒しの力だ。不思議な力。変容の力。


 使えるのか。使い方を知らない。大物主おおものぬしから受け取っただけで——使い方は教わっていない。


 しかし——やるしかない。


 須勢理毘売すせりびめの胸に手を置いた。心臓の上に。冷たかった。鼓動が——弱い。


 奇魂くしみたま。癒せ。この女を。


 何も起きなかった。


 当然だ。「癒せ」と命令して動く力ではない。国魂くにたまは大地の力だ。命令ではなく——応えるもの。応えを引き出すには——


 歌だ。


 言霊式ことだましき。歌えば大地が応える。大地の力が俺の中にある。なら——歌えば、体の中の大地が応える。


 歌った。


 小さく。須勢理毘売すせりびめの耳元で。結縁けつえんでもまもりでも断縁だんえんでもない。名前のない歌。癒しの歌。奇魂くしみたまの歌。


 手のひらが——温かくなった。


 金色の光が——手から漏れた。須勢理毘売すせりびめの胸に。心臓に。


 鼓動が——少しだけ、強くなった。


挿絵(By みてみん)


 歌い続けた。長く。どのくらい歌ったか分からない。須勢理毘売すせりびめが俺のために歌い続けたように——俺が須勢理毘売すせりびめのために歌い続けた。


 色が戻ってきた。真白い肌に——かすかな赤みが。血が巡り始めている。


 目が——開いた。藍色の目。焦点が——合っていた。


「…………」


「……起きたか」


「……歌っていたのですか」


「ああ」


「……下手ですね」


「…………」


少名毘古那すくなびこなが聞いたら——笑う」


 笑った。俺が。泣きながら。


 泣いていたことに気づいたのは、須勢理毘売すせりびめの冷たい指が俺の頬に触れたときだった。涙を拭おうとして——力が入らなくて——指が頬に乗ったまま止まっていた。


「……泣いていますか」


「泣いていない」


「嘘です」


「……泣いている」


「……私のために」


「……ああ」


「…………嬉しい」


 嬉しい、と言った。倒れたばかりの体で。力の入らない指で。


 須勢理毘売すせりびめが——もう一度目を閉じた。今度は——眠った。本当の眠り。穏やかな呼吸。


 枯野かれのが遠くで立っていた。背を向けていた。


「……見ていなかった。何も」


「……ありがとう」


「礼はいらない。——あの女を、壊すな」


 枯野かれのにまで言われた。


 須勢理毘売すせりびめを抱き上げた。館に運んだ。布団に寝かせた。冷たい体に——俺の上着をかけた。


 隣に座った。


 手を握った。冷たい手。しかし——さっきより温かかった。奇魂くしみたまが少しだけ効いたのだろう。


 守る技が——守る者を壊す。


 まもりは守りの歌だ。しかし歌い手の体を削る。俺を守るために歌えば歌うほど——須勢理毘売すせりびめの体が壊れていく。


 守ることが壊すことになる。


 荒魂のスサノオは——嵐で村を壊した。守ろうとして壊した。俺の場合は——須勢理毘売すせりびめが俺を守ろうとして、自分が壊れる。


 同じ構造だ。守護が破壊を生む。形が違うだけで。


「……もうまもりは使うな」


 眠っている須勢理毘売すせりびめに言った。聞こえていないだろう。


「俺が強くなる。お前が守らなくても——壊れない体になる。だから——」


 聞こえていなかった。寝息だけが返ってきた。


 しかし——決めた。


 須勢理毘売すせりびめまもりを使わせない戦い方を。俺自身が守る。俺自身が壊れない。そうすれば——この女は歌わなくていい。


 窓の外で——空が暗くなっていた。


 建御雷神たけみかづちが来る。いつか。必ず。


 そのとき——俺一人で立てるか。須勢理毘売すせりびめを歌わせずに。


 分からない。しかし——やる。


 冷たい手を握り続けた。朝まで。

ご拝読いただきありがとうございました!

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