第三十一章 荒ぶる神
一柱目は——岩の神だった。
北の山の中腹。岩が積み重なった場所。その岩そのものが——神だった。動く岩。砕ける拳。枯野を殴って腕を折ったのはこいつだ。
名前はなかった。名前を持つほど知恵がない。ただ力だけがある。力の行き場がないから暴れる。枯野がかつてそうだったように。
「……言霊式は効くか」
「やってみろ」少名毘古那なら言っただろう。いないから——自分で判断する。
歌った。結縁。繋ぐ歌。岩の神と、山の大地を繋ぎ直す。
——効いた。
枯野のときは言霊式が枯れた大地に届かなかった。しかしこの岩の神は——枯れていない。力があり余って暴れているだけだ。力の行き場を作れば——鎮まる。
歌で道を作った。岩の神の力を、山の岩盤に流す道を。暴れていた力が——大地に吸い込まれていった。岩の拳が止まった。体が山に沈んでいった。
鎮まった。
須勢理毘売の言霊式・護は——使わずに済んだ。
「……一柱目。——あっさりだな」
「油断するな」枯野が三本の腕で指差した。「二柱目は——あっちだ。森の中」
二柱目は——蔓の神だった。
森が異常に育っていた。木が巨大化し、蔓が道を覆い、地面が見えないほどの緑が森を埋め尽くしていた。生命力が暴走している。育ちすぎた森。
蔓の神は——森全体だった。一本の蔓ではなく、森全体の蔓が一つの意志で動いている。
入った瞬間——蔓が足に絡みついた。
「——護!」
須勢理毘売が歌った。言霊式・護。守りの歌が壁になった。白い光の壁が俺と須勢理毘売を囲んで、蔓が弾かれた。
「……助かった」
「油断しすぎです」
「二柱目で油断はしていない」
「していました。——目が緩んでいた」
須勢理毘売の目は暗闇で鍛えられている。俺の目の微細な変化を——読む。
蔓の神には結縁が効かなかった。繋ぐまでもなく繋がりすぎている。生命力が過剰なのだ。足りないのではなく——溢れている。
逆だ。
繋ぐのではなく——切る。
「……言霊式——」
新しい歌が浮かんだ。結縁の逆。縁を結ぶのではなく——過剰な縁を整理する。剪定する。
「——言霊式・断縁」
歌った。蔓が——止まった。
過剰に伸びた蔓が、根元から静かに縮んでいった。育ちすぎた木が——適正な大きさに戻っていった。森全体が——息を吐くように、膨張を止めた。
新しい技だった。繋ぐだけではなく、切ることもできる。結ぶことと断つことは——裏表だ。
蔓の神が——森の奥に静まった。暴走していた生命力が、適正な速度に戻った。
二柱、鎮めた。
「……残り一柱」
枯野が北を指した。三本の腕のうち一本で。
「あの山の頂上だ。——しかし、あれは二柱とは違う。気配が——大きい」
大きい。枯野が「大きい」と言うほど。四本腕の巨体が——「大きい」と警戒するほど。
山を登った。
頂上に近づくにつれて——空気が変わった。重くなった。大地が振動していた。足の裏が痺れるほどの振動。
頂上に着いた。
——いた。
金色だった。
光っていた。金色の光が山の頂上を覆っていた。その中心に——何かがいた。
球だった。巨大な球。あの夜、清い川に現れた金色の球を——何十倍にも膨らませたもの。
大物主。
「…………」
「……大物主——なのか」
「——そうだ。」
声が大地から来た。しかし——あの穏やかな声ではなかった。歪んでいた。割れていた。
「何が——起きている」
「——三諸山に祀られて、大地に根を張った。幸魂・奇魂が大地と一体化した。しかし——大地が荒れた。荒ぶる神が暴れた。大地が怒った。俺が——大地と一体だから——俺も——」
暴走していた。
大物主が——大地と一体化しすぎた。大地が荒ぶる神に荒らされたことで、大物主自身が「荒ぶる」状態に陥った。
三柱目の荒ぶる神は——俺自身の魂の半分だった。
「……条件を出したのは——お前だ。荒ぶる神を鎮めろと」
「——そうだ。二柱は——お前を試すためだった。しかし三柱目は——試しではない。本当に——止められない」
「止められない」
「——大地が怒っている。俺では——抑えられない」
金色の球が——膨張した。光が強くなった。大地が割れ始めた。山の頂上にひびが走った。
「下がれ!」
枯野が俺と須勢理毘売を庇った。三本の腕で。金色の光が——衝撃波になって広がった。木が倒れた。岩が砕けた。
大物主が——形を変えた。球から——人の形に。しかし人にしては大きすぎた。山の半分ほどの巨人。金色の体。目がない。口がない。意志がない。大地の怒りそのものが——形を取っている。
「……こいつは——俺の一部だ」
「大国主——」
「俺の幸魂・奇魂が暴走している。——俺が止めなければ、誰も止められない」
生太刀を抜いた。
しかし——斬るのか。俺の魂の半分を。
斬れない。殺せない。殺したら——俺の魂が半分なくなる。
鎮める。
一柱目は力の行き場を作って鎮めた。二柱目は過剰な縁を断って鎮めた。三柱目は——
「須勢理毘売」
「はい」
「護を——俺にかけてくれ。全力で」
「……何をするのですか」
「あの中に入る」
「——入る?」
「俺の魂の半分だ。——中に入って、直接繋ぎ直す」
金色の巨人の中に。暴走する大地の怒りの中に。
「死にます」
「死なない。——二度死んで蘇った体だ。三度目はないと母に言われたが——これは死ではない。自分の中に入るだけだ」
「…………」
「護があれば——壊れない。お前の歌が俺を守ってくれれば」
須勢理毘売の藍色の目が——揺れた。恐怖ではなかった。信頼と恐怖の間にあるもの。
「……歌います」
「頼む」
「——死んだら許しません」
「死なない」
走った。金色の巨人に向かって。
須勢理毘売が歌った。言霊式・護。白い光が俺の体を包んだ。鎧のように。
金色の光に突っ込んだ。
熱かった。大地の怒りが直接体に当たった。護の壁がなければ——溶けていただろう。しかし須勢理毘売の歌が——俺を守っていた。白い光が金色の熱を弾いている。
巨人の体の中に入った。
——見えた。
大地が見えた。出雲が見えた。道が見えた。田が見えた。川が見えた。全部——大物主の目を通して見えた。大地と一体化した俺の半身が見ている景色。
荒らされた田。壊された道。折れた橋。それを見て——大地が怒っていた。俺の半身が怒っていた。
「……怒るな」
声を出した。自分の半身に向かって。
「怒るな。——壊されたなら直す。直せる。俺が——直す」
「——直せない。壊される。また壊される。何度直しても——」
「何度でも直す」
「——限りがある。お前にも俺にも——」
「限りがあっても——直す。それが国を作るということだ」
歌った。
金色の怒りの中で。言霊式・結縁。自分と自分を——繋ぎ直す。暴走した半身と、残った半身を。切れかけた縁を——結び直す。
歌に——もう一つの歌が重なった。
外から。須勢理毘売の護が。守りの歌と繋ぎの歌が——重なった。二つの言霊が共鳴した。
金色の光が——揺れた。
怒りが——鎮まっていった。大地の怒りが。大物主の怒りが。
「——直す、のか。何度でも」
「何度でも」
「——信じていいか」
「信じろ。——俺はお前だ。お前は俺だ。俺が嘘をつかない男だと——お前が一番知っているだろう」
沈黙。
金色の光が——縮んでいった。巨人の形が崩れた。大地に吸い込まれるように。静まっていく。穏やかに。
体が——外に出た。
山の頂上に立っていた。金色の光が消えていた。
足元に——何かが落ちていた。
光の玉。二つ。一つは薄い金色。もう一つは深い青。
幸魂と奇魂。
大物主が——分離していた。大地から。暴走して大地と一体化しすぎた状態から、切り離されて——二つの魂として、ここにある。
手に取った。
温かかった。そして——体に入ってきた。
胸の中に。二つの魂が——戻ってきた。俺の魂の半分が。
体が——変わった。何かが広がった。足の裏から大地の感覚が流れ込んできた。出雲の全体が——感じられた。田の位置。道の形。川の流れ。全部——体の中にある。
国魂。
国そのものの力が——俺の中に入った。
膝をついた。重かった。国の重さが。全ての道。全ての田。全ての川。全ての村。全ての人。その重さが——体に入った。
「……大国主」
須勢理毘売が駆け寄ってきた。
「……大丈夫だ。——重いだけだ」
「重い」
「国が——重い」
須勢理毘売が俺の隣に座った。肩に触れた。冷たい手が。
「……半分、持ちますか」
「……国の半分か」
「いいえ。——重さの半分」
手を握った。冷たい手を。
少しだけ——軽くなった。
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