第三章 一度目の死
帰り道は、行きより軽かった。
荷物がないからだ。兄たちは俺を置いて先に出発していた。荷物は道端に散らばったままだった。拾い集めて背負ったが、量が減っていた。兄たちが自分の分だけ持って行ったらしい。残ったのは俺の分——というより、誰のものでもない雑多な荷。
八上比売は因幡に残った。「また来なさい」と言った。また行く。行くつもりだ。しかし——まず帰らなければならない。
兄たちの背中が見えた。
追いつくつもりはなかった。離れて歩いた方がいい。あの怒りの気配は——近づくべきではない。八上比売の警告が頭にある。「兄たちに気をつけなさい」。
しかし——兄の一人が待っていた。
道の曲がり角で、にこにこ笑いながら立っていた。
「おう、遅かったな」
「……ああ」
「荷物は軽くなったか」
「少し」
「そうか。——なあ、この先の山に猪が出るらしい」
「……猪」
「でかい猪だ。捕まえたら旨い肉が食える。お前、受け止めてくれ。俺たちが上から追い込むから、お前は下で待っていろ」
嫌な予感がした。しかし——断る理由がなかった。猪を捕まえるのは普通のことだ。末弟が下で待つのも普通のことだ。
普通のことだと思った。
山の麓で待った。上の方で兄たちの声がした。「追い込むぞ」という声。
何かが——転がってきた。
木々の間から。音がおかしかった。猪の足音ではない。もっと重い。もっと硬い。地面を削る音。
——赤かった。
転がってきたものが赤かった。熱気が先に来た。空気が歪んだ。木の枝が触れた瞬間に燃えた。
岩だった。
焼けた岩。火で真っ赤に焼かれた巨大な岩が、山の上から転がってきた。猪ではない。最初から猪などいない。
避けられなかった。
岩が俺に当たった。
——痛い。
それだけ思った。
それ以上は——思えなかった。
白くなった。
視界が白くなった。音が消えた。匂いが消えた。体の感覚が全部消えた。何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
死んだ。
たぶん、死んだ。
死ぬとはこういうことか。白いのか。暗いと思っていた。黄泉の国は暗いと聞いていた。しかし死の瞬間は——白かった。何もない白。色のない白。意味のない白。
どのくらいそうしていたか分からない。白の中で、俺は考えていた。考えることだけができた。体がないのに、頭だけが動いている。
俺は死んだ。焼けた岩で。兄たちに殺された。
八上比売に選ばれたから。荷物持ちが姫に選ばれたから。それが許せなかったから。
——ああ、そうか。
怒りは感じなかった。不思議と。殺された怒りよりも——「やはりそうだったか」という確認の方が強かった。嫌な予感はずっとあった。八上比売も気づいていた。分かっていた。分かっていて、避けられなかった。
荷物持ちに戻るべきだったのか? 選ばれなければ殺されなかった。白兎を助けなければ選ばれなかった。ここにいなければ——
いや。
ここにいた。ここにいたから、手を出した。それだけのことだ。後悔する場所がない。
白の中で——何かが動いた。
声が聞こえた。遠い声。女の声。
「——お願いします。この子を——」
母だ。刺国若比売。俺の母。
「死んでしまいました。兄たちに——焼けた岩で——」
泣いている。母が泣いている。俺が死んで、母が泣いている。
別の声が応えた。もっと古い声。もっと大きい声。
「——送ろう。」
カミムスビ。創造の神。母が頼った先。
白が——暗くなった。
白から黒へ。死の白が終わって、別の暗闇が始まった。
体が——ない。まだない。しかし暗闇の中で、何かが動き始めた。
最初に骨が来た。
見えたのではない。感じた。自分の内側で、骨が——組み上がっていく。一本ずつ。指の骨。手首の骨。腕の骨。肩。肋骨。背骨。一つずつ繋がっていく。つなぎ目がきしむ。新しい骨が古い記憶を探しながら、正しい形に並んでいく。
気持ち悪かった。
自分の体が中から組み上がっていく感覚。内臓がないのに骨だけがある。骨格標本のような状態で——意識がある。
次に肉が来た。
骨の上に——筋肉が張りついていく。赤い繊維が骨を覆い、引っ張り、関節を動かそうとする。指が動いた。自分の意思ではない。肉が骨を引っ張って、勝手に動いた。
内臓が戻った。腹の中に、一つずつ。心臓が最後だった。動き始めた瞬間——暗闇の中で、音が聞こえた。自分の心臓の音。
皮膚が張られた。外側から。体の表面に膜のように広がっていく。冷たかった。新しい皮膚は冷たい。
最後に——目が開いた。
暗闇だった。
夜だった。山の中。焼けた岩がそばに転がっている。まだ少し赤い。俺が押し潰された場所。土が焦げている。
体がある。
手を見た。動く。指を折った。五本ある。足を見た。動く。立てる。
立ち上がった。
体が——違った。
重さが違う。さっきまでの体と同じ形をしているが、密度が変わった気がする。骨を一本ずつ組み直したせいか。肉を張り直したせいか。同じ体なのに——少しだけ、違う。
手のひらを見た。
荷物を持っていた手。八上比売に触れた手。蒲の穂を塗った手。
同じ手だ。しかし——力の入り方が違う。握ると、前より深く握れる。
水たまりがあった。焼けた岩が地面を抉った跡に、雨水が溜まっていた。覗き込んだ。
目が——変わっていた。
何がどう変わったか、自分では説明できない。目の色は同じだ。形も同じだ。しかし——奥行きが違う。目の奥に、もう一枚、何かが追加された。死の白を見た目。骨を組み直す暗闘を見た目。
老人が言っていた。「荷物持ちに見えない目をしている」と。あのときより——さらに、荷物持ちから遠い目になった。
山を降りた。
兄たちが道で宴をしていた。俺の死を祝って。酒を飲んで、肉を食べて、笑っていた。
「あれで終わりだ」
「荷物持ちが姫に選ばれるなど——」
「目障りだった」
俺が山の陰から出てきたとき——宴が止まった。
八十人が——俺を見た。
死んだはずの末弟が立っている。焼けた岩で潰れたはずの弟が、夜道に立っている。
一人の兄が酒の器を落とした。
「…………」
「……な——」
「死んだはずだ——」
俺は八十人の前を通り過ぎた。
何も言わなかった。怒りを見せなかった。怒りはあった。しかし見せる必要がなかった。目を見せるだけで——十分だった。
俺が通り過ぎた後、兄たちは黙っていた。
一人が言った。
「……目が、変わっている」
背中で聞いた。
歩き続けた。因幡の方角に。八上比売が待っている方角に。
体が動く。死んだ体が動いている。一度死んで、蘇って、動いている。
なぜ蘇ったのか。母がカミムスビに頼んだから。しかし——蘇ること自体は、普通ではない。神でも死ねば終わるはずだ。終わらなかった。
何が俺を生き返らせたのか。
答えは出なかった。ただ——足が動いた。歩いた。荷物はもう持っていなかった。
夜空に月が出ていた。冷たい光だが——見えた。死んだ後でも月は見える。当たり前のことが、ありがたかった。
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