第二章 八上姫
因幡に着いた。
兄たちの方が足が速いので、俺が館に着いたときにはもう求婚が始まっていた。八十人が館の前に並んで、順番に名乗りを上げている。
壮観だった。八十柱の神が一列に並んで、一人ずつ前に出て、「私は出雲の○○の神である、八上比売よ、我が妻になれ」と言う。言い終わると列の後ろに戻り、次の兄が前に出る。これが八十回繰り返される。
俺は荷物を抱えたまま、列の一番後ろで見ていた。
館の正面に——八上比売がいた。
遠かった。八十人の兄の背中越しに見えるのは、赤い衣の端と、短めの黒髪の輪郭だけだった。顔は見えない。しかし——座り方が印象に残った。背筋が伸びていた。求婚を聞いている姫の座り方ではなく、何かを見定めている人間の座り方だった。
一人目の兄が名乗った。断られた。
二人目。断られた。
三人目。断られた。
四人目以降は——もう数えなかった。全員、断られていた。兄たちの顔が次第に曇っていく。最初は余裕があった。「俺の番が来れば選ばれる」と思っていた。しかし三十人目あたりから、空気が変わり始めた。五十人目で焦りが出た。七十人目で怒りが混ざった。
八十人目の兄が名乗った。最後の一人。最も体が大きく、最も声が大きい兄。
断られた。
八十人全員が断られた。
静寂が落ちた。
八十人の兄が——振り向いた。俺を見た。正確には、俺の後ろに誰かいるのかと思って振り向いた。しかし俺の後ろには誰もいなかった。
八上比売が立ち上がった。
初めて顔が見えた。
明るい茶色の肌。短めの黒髪。赤い衣。そして——目。真っすぐな目。何かを見定めた目。見定め終わった目。
八上比売が——歩いてきた。
八十人の兄の列を通り抜けて。一人、また一人、兄の横を通り過ぎて。七十人目。六十人目。五十人目。列が割れた。兄たちが左右に退いた。困惑した顔で。
目の前まで来た。
俺の目の前に。荷物を抱えた、泥だらけの末弟の前に。
「——あなたですか」
「……何が」
「白兎を助けた神は」
兎が——言ったのか。この姫に。
「……助けたというほどのことは。蒲の穂を塗っただけだ」
「兎が来ました。あなたの話をしていきました」
「…………」
「袋を持たされている神がいる。その神は——ここにいたからと言って、手を出した」
兎め。余計なことを。
「あなたに聞きたいことがある」
「俺に?」
「なぜ助けた」
「……ここにいたから」
また言ってしまった。他に言いようがないから言っているだけだが、自分で繰り返すとさすがに安っぽい気がする。
八上比売が——笑った。
短い笑いだった。口角が上がって、すぐ戻った。しかしその一瞬で、目の光が変わった。見定め終わった目から——見つけた目に。
「八十柱の神は——全員、立派だった」
兄たちが少しだけ姿勢を正した。
「体が大きい。声が大きい。名乗りも堂々としていた」
兄たちが少しだけ期待した。
「しかし——袋を持たされている神の方が目がいい」
静寂。
八十人分の、静寂。
「あなたを選ぶ」
選ばれた。
荷物を持ったまま。泥だらけのまま。名乗りもしていない。求婚もしていない。膝もついていない。両手が塞がっているから。
選ばれた。
「……俺は求婚しに来たわけではない」
「知っています。だから選んだ」
「……意味が分からないのだが」
「求婚しに来た八十柱は——自分を見てほしい神たちだった。あなたは自分を見てほしいと思っていない。兎を見た。川を見た。自分以外のものを見ている。そういう目が——いい」
褒められているのか。褒められているようだが、実感がない。荷物が重い。
「……荷物を下ろしていいか」
「どうぞ」
下ろした。
両手が空いた。空いた手で——何をすればいいか分からなかった。求婚を受け入れられた者は何をするのが正しいのか。膝をつくか。手を取るか。歌を詠むか。何一つ知らない。荷物の持ち方なら知っている。
「……ありがたいが——俺は」
「嫌ですか」
「嫌ではない」
「なら——いいでしょう」
決まった。
荷物を下ろした瞬間に、人生が変わった。両手が空いたら、いきなり妻ができた。展開が速い。荷物持ちの日常は平坦だったが、荷物を置いた途端に傾斜がついた。
兄たちが——こちらを見ていた。
八十人分の目。さっきまでの困惑が消えて、別の色に変わっていた。
怒り。
当然だろう。八十人全員が断られて、荷物持ちの末弟が選ばれた。理由が「目がいい」。兄たちにとっては侮辱以外の何物でもない。
一人の兄が口を開きかけた。しかし八上比売が先に動いた。
「館にお入りなさい」
俺の腕を取った。自然に。躊躇なく。この姫は決めたら動く。迷わない。
館の扉が閉まった。
扉の向こうで、八十人の兄の気配が残っていた。怒りの気配。密談の気配。
——嫌な予感がした。
しかしこの瞬間は、嫌な予感より、空いた両手の方が気になっていた。荷物がないと手が落ち着かない。何か持ちたい。この手で何をすればいい。
八上比売が俺の手を見ていた。
「……大きい手」
「荷物を持っていたから」
「荷物のためじゃない。もっと——別のものを持つための手だ」
何を言っているのか分からなかった。後から考えれば——この姫は最初から、俺の手に「国を持つ力」を見ていたのかもしれない。しかしこのときの俺には、荷物以外に何を持つのかが想像できなかった。
夜。
館の裏手に、客人用の小屋があった。八上比売が用意してくれた。兄たちは別の宿に泊まっている。離れた場所に。
小屋は狭かったが、一人なら十分だった。荷物もないし。
横になった。
天井を見ていた。選ばれた。白兎に予言されて、本当に選ばれた。嬉しいのか。嬉しい——のだろう。しかし「嬉しい」という感情がどういう形をしているか、よく分からなかった。荷物を持っている間は、感情の形を確認する暇がなかった。今、暇ができて、確認しようとして——うまくいかない。
戸が鳴った。
叩く音ではなかった。開ける音だった。許しを請わずに開けた。
八上比売だった。
赤い衣を纏ったまま、月明かりの中に立っていた。短い黒髪が頬にかかっていた。昼間の——見定める目ではなかった。見定め終わった後の、もう迷いのない目だった。
「……姫」
「八上比売でいい」
「……八上比売。なぜ」
「選んだから。来た」
この姫は——本当に、決めたら動く。
小屋に入ってきた。戸を閉めた。月明かりが消えた。代わりに、八上比売の肌の色だけが暗がりに浮いていた。明るい茶色の肌。
「……あなたは——嫌ですか」
「嫌ではない」
「嫌でないなら——いいでしょう」
昼と同じ言葉だった。同じ構文で、同じ迷いのなさで。
空いた両手で——初めて、荷物ではないものに触れた。
朝。
目を開けたとき、八上比売はもう起きていた。赤い衣を直しながら、窓から外を見ていた。朝日が横顔を照らしていた。
「……起きたか」
「ああ」
「昨夜のことは——覚えているか」
「覚えている」
「そう。なら——いい」
それだけだった。多くは語らない姫だった。しかし横顔が——少しだけ柔らかくなっていた。見定める目が、見守る目に変わっていた。
「……帰り道は——気をつけなさい」
「何に」
「兄たちに」
八上比売も、気づいていた。
姫が出ていった。小屋に一人残された。
「——また来ましたね。」
声がした。
跳ね起きた。
小屋の隅に——何かがいた。
灰白色の肌。目がない。目があるべき場所に——何もない。口元に笑みがある。変わらない笑み。手に蝋燭を持っている。黒い炎が揺れている。十歳くらいの子供の体。
「……誰だ」
「ヒサメです。」
「ヒサメ」
「はい。」
知らない名前だった。しかし——見たことがある気がした。昨日の昼。浜の近くの草の陰に、一瞬だけ見えた灰白色の肌。あれが——この子供か。
「……昨日、浜の近くにいたか」
「いました。」
「なぜ」
「見ていました。」
「何を」
「あなたを。」
目がないのに「見ていた」と言う。怖くはなかった。怖いというより——不思議だった。この子供は敵意がない。しかし味方でもない。もっと遠い場所から来ている気配がある。
「「また来ましたね」と言ったな。俺たちは会ったことがあるのか」
「はい。いいえ。——後でわかります。」
「どちらだ。会ったのか、会っていないのか」
「後でわかります。」
答えになっていない。しかしこの子供は「後でわかります」を繰り返す気配があった。聞いても同じ言葉が返ってくる。
「……お前は何者だ」
「ヒサメです。」
名前しか返ってこなかった。
「お前が——ここにいる理由は」
「後でわかります。」
「…………」
三度目だった。「後でわかります」。この言葉が回収されるのがいつなのか、このときの俺には想像もつかなかった。
ヒサメが笑顔のまま——蝋燭の黒い炎が揺れて——消えた。
子供の姿が消えた。黒い炎の残像が空中に一瞬だけ揺れて、それも消えた。
小屋に一人残された。
選ばれた翌朝に、目のない子供が来た。予言をした兎の次は、答えない子供。出雲を出てからずっと——俺の周りに不思議なものが集まってくる。
荷物を持っていたときは、何も来なかった。荷物を下ろした途端に——兎も、姫も、この子供も来た。
手が空くと、何かが集まってくるのか。
それとも——手が空いたから、見えるようになったのか。
外で風の音がした。遠くで、兄たちの声が聞こえた。笑い声ではなかった。低い声。怒りの声。密談の声。
嫌な予感が、また戻ってきた。
今度は無視できなかった。




