第一章 因幡の白兎
俺の仕事は荷物を持つことだった。
兄が八十人いる。正確には八十柱だが、日常的に「柱」と数えていると気が滅入るので、俺の中では「人」で数えている。八十人の兄がいて、俺は末の弟で、全員分の荷物を持っている。
背中に袋。両手に袋。肩から袋。腰に袋。首にも一つ引っ掛けられた。
何が入っているかは知らない。兄たちが「持て」と言うから持っている。重い。当然だ。八十人分の荷物を一人で持てば、誰でも重い。神でも重い。
道を歩いている。出雲から因幡へ向かう道。兄たちが先を歩いている。八十人の神が列を作って歩くと、それだけで道が埋まる。俺はその一番後ろで、荷物に埋もれて歩いている。
兄たちは因幡の八上比売に求婚しに行く。八十人全員が同じ女に求婚する。どういう状況かと言うと——混乱する状況だ。しかし兄たちはそれを「当然のこと」だと思っている。美しい姫がいる。求婚する。当然だ。荷物は末弟が持つ。これも当然だ。
俺は美しい姫に興味がないわけではない。しかし荷物を持っている者に求婚する余裕はない。両手が塞がっている。膝をついて名乗ることすらできない。
そういうものだと思っていた。
川があった。
道の途中に、川が流れていた。兄たちは見もしなかった。八十人が水を汲むでもなく、足を止めるでもなく、川を横切って先に進んでいった。
俺は止まった。
荷物が重くて休みたかったから——ではない。いや、それもあるが、それだけではなかった。
川が——清かった。
透明な水。底の石が見えた。水草が揺れていた。魚が泳いでいた。小さな銀色の魚が、朝日を受けて光っていた。
出雲の川はどれも清いが、この川は特別だった。匂いがなかった。川には普通、水の匂いがある。土の匂い、草の匂い、何かしらの匂い。この川には——匂いの代わりに、気配があった。何かが、ここを通った気配。
「——嵐の神が残した川だ」
声がして振り向いた。
川辺に老人が座っていた。白髪で、背中が丸く、しかし目がまっすぐだった。
「嵐の神?」
「昔、嵐を纏った神がここを通った。川が腐っていた。その神が——川を清くした。どうやったかは知らない。しかしあの神が去った後、川が清くなった」
嵐を纏った神。聞いたことがある。父の弟——俺たちの大叔父にあたる神。名前を——
「スサノオだ。知っているか」
「名前だけ」
「あの方が残した川だ。ここは」
老人が川を見ていた。懐かしいものを見る目だった。
俺も川を見た。清い水。銀色の魚。水草。
大叔父が残した川。嵐の神が清くした川。
荷物を下ろした。重さが消えた。背中が軽くなった。
川辺にしゃがんで、水を手で掬って飲んだ。冷たかった。旨かった。匂いのない水は、味もないかと思ったが——旨かった。
「あんた、あの八十柱の荷物持ちか」
「ああ」
老人が俺を見た。長い間、見ていた。
「……荷物持ちに見えない目をしているな」
「……そうか」
「そうだ。荷物持ちの目は下を向く。あんたの目は——川を見ている」
何を言っているか分からなかった。俺は川を見ていただけだ。川が清かったから見ていた。それだけだ。
荷物を背負い直した。兄たちの背中がもう小さくなっている。追いつかなければ怒られる。怒られること自体は慣れているが、怒られている時間が無駄だ。
「行くのか」
「行く」
「因幡か」
「ああ。兄たちが八上比売に求婚する」
「あんたは?」
「俺は荷物を持つ」
老人が笑った。笑ってから、真面目な顔に戻った。
「嵐の神も——最初は荷物持ちのような顔をしていた」
何のことか分からなかった。会釈して、歩き出した。
川が後ろに遠ざかっていく。足が一歩進むたびに、荷物が揺れた。
清い川の記憶だけが、頭に残った。
気多の岬に近づいたとき、異変に気づいた。
兄たちが道の真ん中で止まっていた。八十人が固まって、何かを見ている。笑い声が聞こえた。
追いついた。
荷物の隙間から覗くと——浜に兎がいた。
白い兎。ただし白いのは毛の色ではなく、毛がないから白いのだった。皮膚が剥き出しになっている。赤く爛れて、ところどころ血が滲んでいる。海水に浸かったらしく、傷口が腫れ上がっている。
兎が泣いていた。声は出していない。しかし目が泣いていた。
兄の一人が笑いながら言った。
「海水で洗って風に当たれば治る。そう教えてやった」
別の兄が続けた。
「しかしこの様だ。嘘を信じる方が悪い」
笑い声。八十人分の笑い声。
俺は荷物を下ろした。
「——おい、荷物を——」
兄の声が聞こえたが、聞かなかった。荷物を道端に置いて、浜に降りた。
兎の前にしゃがんだ。
近くで見ると、ひどかった。全身の毛が剥がれている。皮膚が赤く、乾いて、ひび割れている。海水を浴びたせいで塩が傷口に入り、腫れが悪化している。このままでは傷が化膿する。
「何があった」
兎が俺を見上げた。涙で赤くなった目。
「……鰐を騙した。海を渡るために、鰐の背中を数えると嘘をついて踏んでいった。最後の一匹に気づかれて——毛を剥がされた」
「鰐を騙したのか」
「……ああ」
「なぜ」
「隠岐から渡りたかった。他に方法がなかった」
嘘をついた罰で毛を剥がされた兎。そしてさらに嘘を教えられて、海水で悪化した兎。嘘の二重構造。この兎は嘘に挟まれている。
「蒲の穂がいる」
立ち上がった。川を探した。浜の奥に細い流れがあった。走った。川辺に蒲が生えていた。穂を折り取った。両手いっぱいに抱えて、浜に戻った。
「これを体に塗れ。花粉が傷に入って、乾燥を防ぐ。海水を真水で洗い流してから」
兎が俺を見ていた。
「……なぜ助ける」
「なぜ、とは」
「あの八十柱は笑っていた。嘘を教えた。あなたも——同じ神だ」
「同じではない。俺は荷物持ちだ」
「…………」
「それに——ここにいたから」
言ってから、自分で少し考えた。
「ここにいたから」。別に深い意味はない。俺がここにいて、兎がここにいて、兎が傷ついていた。だから手を出した。それだけのことだ。
兎は鰐を騙した。自業自得と言えばそうだ。しかし——毛を剥がれて泣いている兎を前にして、「自業自得だ」と言うことに意味があるとは思えなかった。言ったところで毛は生えない。蒲の穂を塗った方が早い。
真水で体を洗った。塩が落ちると、兎が少し楽そうになった。蒲の花粉を傷口に塗った。丁寧に。全身に。時間がかかったが、急ぐ理由もなかった。兄たちはとっくに先に行った。荷物ごと。荷物が誰もいない道端に置かれている。誰かが拾ったか、そのまま放置されているか。どちらでもいい。
「……痛むか」
「……少し」
「乾けば楽になる。風に当たるのはいい。ただし海の風ではなく、山からの風に当たれ。塩気がないから」
兎が、俺を見ていた。長い間見ていた。
「……あなたは——あの八十柱と一緒にいるのか」
「兄だ」
「兄」
「八十人の兄の末弟だ」
「……嘘みたいだ」
「嘘ではない。残念ながら」
「あなたの方が——」
兎が何か言いかけて、止めた。代わりに、別のことを言った。
「八上比売は——あなたを選ぶ」
「……何だ、急に」
「あの八十柱が全員で求婚しに行くのでしょう。しかし八上比売は——袋を持たされている神を選ぶ。あなたを」
「俺は求婚しに行くわけではない。荷物を——」
「選ぶ。」
兎の目が変わっていた。涙が乾いて、代わりに——何か別のものが宿っていた。予言のような確信。
「あなたは「ここにいたから」と言った。そういう神は——選ばれる」
「…………」
「嵐の神も——同じことを言った。「ここにいるから来た」と。この地のどこかで。あの神も——選ばれた」
嵐の神。さっきの老人も言っていた。川を清くした神。スサノオ。
「ここにいるから来た」。
似ている。俺の「ここにいたから」に。
「お前は——嵐の神を知っているのか」
兎が答えなかった。代わりに、体を起こした。蒲の花粉が全身に薄く張りついて、白い兎に見えた。本来の姿に近い。
「……行きなさい。因幡へ。あなたを待っている人がいる」
兎が浜を歩いていった。足取りがまだ痛そうだったが、さっきよりましだった。
俺は浜に座ったまま、兎の背中を見ていた。
八上比売が俺を選ぶ。荷物持ちの末弟を。なぜだ。兄たちの方がずっと立派だ。体も大きいし、力も強い。俺は荷物を持つだけだ。
しかし——兎は確信していた。「あなたを選ぶ」と。
立ち上がった。荷物を取りに道に戻った。
——荷物がなかった。
兄たちが持って行ったのではない。道端にそのまま放置されていた。しかし——何者かが荷物を崩して、中身を散らかしていた。獣か。人か。
拾い集めた。一つずつ。泥がついた布。潰れた干し飯。割れた器。
拾いながら、ふと——草の陰に気配を感じた。
視線があった。
草の向こうに——何かがいた。小さい。灰色がかった白い肌が一瞬見えた気がした。しかし目を凝らすと、もう何もいなかった。風が草を揺らしただけだった。
……気のせいか。
荷物を背負い直した。因幡へ向かう道を歩き出した。
兎の言葉が頭に残っていた。「あなたを選ぶ」。
選ばれたとして——俺に何ができる。荷物を持つことしか知らない。
しかし——蒲の穂を塗ることはできた。傷ついた兎を前にして、手を出すことはできた。「ここにいたから」で十分だった。
それが何の役に立つのかは分からない。分からないが——足は因幡に向いている。
兄たちの背中は、もう見えなかった。
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