第二十九章 根の堅洲国(ねのかたすくに)が揺れている
地の底に降りた。
建御雷神が来る前に——備えが要る。地上で備えるには時間が足りない。根の堅洲国に一時退避して、態勢を整えると決めた。
須勢理毘売と二人で、あの清い川から潜った。出雲を出るとき、アメノホヒに留守を頼んだ。枯野に村の守りを頼んだ。集まった小さな神たちに、道の維持を頼んだ。
「……あなた方がいる間は——待ちます」
東の川の神が言った。
「待ってくれ。——必ず戻る」
何度目だろう。「必ず戻る」と言うのは。
川底を潜った。水が変わっていく。地上の冷たい水から——地の底の水へ。暗くなっていく。
しかし——何かが違った。
前回降りたときは、水が変わる境目がはっきりしていた。地上の水と地の底の水の間に、明確な壁があった。今は——壁がぼやけていた。境界が曖昧になっていた。
根の堅洲国に着いた。
——暗かった。
前より暗かった。
生物発光が——弱くなっていた。足元の草の緑が薄い。壁の菌類の青白が——かすれている。虫の黄緑の光が——少ない。数が減っている。
暗闇の中を歩いた。須勢理毘売が先を歩く。この場所で育った足は——暗くても迷わない。しかし——須勢理毘売の足が、二度、止まった。
「……道が——変わっている」
「変わった」
「壁が崩れている。前はなかった瓦礫がある」
根の堅洲国が——壊れ始めていた。
通路の天井にひびが入っていた。壁の岩が崩れて、道を塞いでいる場所があった。苔が枯れていた。橙色の温かい苔が——茶色になって、冷たくなっていた。
宮殿に着いた。
変わっていなかった——と思いたかった。しかし変わっていた。柱にひびが入っていた。床の草が——半分ほど枯れていた。生物発光が弱く、宮殿全体が以前の半分ほどの明るさしかなかった。
奥に——スサノオがいた。
岩の椅子に座っていた。いつもの姿勢。しかし——
——小さくなっていた。
前に会ったときも老いていた。骨と皮の体だった。しかし立てば頭一つ分高かった。座っていても存在感があった。
今は——座っている姿が、椅子に沈んでいるように見えた。体が縮んだのではない。力が縮んだ。存在そのものが——薄くなっている。
嵐が——なかった。
かすかな金色の揺らぎすらなかった。体のまわりに風がない。完全に凪いでいた。
あの脱出の朝——金色の嵐を全開にして追いかけてきた神が。「大国主!!」と叫んで大地を震わせた神が。
嵐を失っていた。
「……来たか。」
声は——変わっていなかった。老いていたが、声だけは変わらない。岩が喋るような低い声。
「ああ。来た」
「……地上で——何があった」
「天若日子が死んだ。返し矢で。——次は建御雷神が来る」
「…………」
「態勢を整えに来た。しかし——」
宮殿を見回した。ひび割れた柱。枯れた草。弱い光。
「ここも——壊れかけている」
「ああ。——壊れかけている」
スサノオが——椅子の肘掛けに手を置いた。痩せた手。骨が浮いている。
「根の堅洲国は——俺の嵐で維持していた。嵐が弱まれば——ここも弱まる」
「嵐が——」
「もうない。——お前が出ていったとき、最後の嵐を使った。あの追撃で。あれが——最後だった」
あの朝。金色の嵐で通路を焼きながら追いかけてきた。あれが——最後の嵐だったのか。
俺を追うために。須勢理毘売が光の中に出る瞬間を見届けるために。「大国主」と名付けるために。
最後の力を——使い果たした。
「……すまない」
「謝るな。——使いたくて使った。後悔はない」
須勢理毘売が——父を見ていた。
三年ぶりだった。地上に出てから——一度も戻っていなかった。光を見て、風を知って、温かさを覚えて、出雲で暮らして——三年。
その間に、父は——ここまで老いた。
「……父さま」
須勢理毘売の声が——小さかった。
「須勢理か。——光の中で育ったな。肌が少しだけ——色づいている」
「…………」
「いい色だ。」
スサノオが——微笑んだ。皺だらけの顔が動いた。嵐のない顔が。
「ここにはもう——長くはいられない。天井が落ちかけている。壁が崩れている。あと数年で——根の堅洲国は、なくなる」
「なくなる——」
「俺がいなくなれば——ここも消える。俺の嵐が作った場所だ。嵐がなくなれば——場所もなくなる」
根の堅洲国が消える。須勢理毘売が育った場所が。俺が試練を受けた場所が。蛇の室が。火の原野が。あの暗闇の最初の夜が——全部、消える。
スサノオが——目を閉じかけていた。眠いのではない。力がないのだ。目を開けていることすら——消耗する。
「……大国主」
「何だ」
「出雲の川は——まだ清いか」
唐突だった。戦争の話でも、根の堅洲国の崩壊の話でもなく——川の話。
「清い。——お前が残した川だ。今も清い。魚がいる。水草が揺れている。子供が遊んでいる」
「…………」
長い沈黙。
スサノオの目が——潤んでいた。
「……そうか。」
一言。それだけだった。
しかしその「そうか」に——何百年分の重さがあった。
あの川を清くしたとき、誰がそばにいたのか。誰と川辺に立っていたのか。俺は知らない。老人は知っているかもしれない。しかしスサノオは——言わない。聞いても言わない。
黙る男だ。俺と同じ。
「……ここには長くいるな。天井が危ない。半日で——持っていくものを持って、戻れ」
「持っていくもの」
「天沼琴は持っていったな。——他に、何か欲しいものはあるか」
「……ない。もう十分に——もらった」
「そうか。——須勢理」
「はい」
「お前も——欲しいものはあるか。ここから持っていきたいものは」
須勢理毘売が——黙った。
宮殿を見回した。暗い宮殿。弱い光。ひびの入った柱。枯れかけた草。ここで育った。ここで父と暮らした。ここで大穴牟遅に出会った。ここで——最初の夜を過ごした。
「……何もいりません」
「何も」
「全部——覚えています。覚えていれば——持っていかなくても、ここにある」
スサノオが——目を閉じた。
「……いい答えだ。——お前の母も、同じことを言っただろう」
母。
須勢理毘売が——止まった。
スサノオが目を開けた。何かを言いかけた顔をしていた。しかし——言わなかった。口を閉じた。いつもの沈黙に戻った。黙る男に。
「……母は——何を覚えていたのですか」
「…………」
「父さま」
「……帰れ。地上に。——もう時間がない」
聞けなかった。スサノオが——閉じた。母の話を。いつものように。
須勢理毘売の藍色の目が——揺れていた。聞きたかった。母のことを。しかし——父は言わない。
宮殿を出た。
通路を歩いた。天井から石の欠片がぱらぱらと落ちてきた。壁が軋んでいた。根の堅洲国が——呻いていた。
須勢理毘売が——通路の途中で立ち止まった。
壁に手を触れた。岩の壁。この壁を何千回も触って育った手。暗闇の中で、壁の感触だけが道しるべだった。
「……さようなら」
小さく言った。壁に向かって。
根の堅洲国への——別れだった。もう戻れないかもしれない。次に来たときには——ないかもしれない。
地上に出た。
光がまぶしかった。三年前と同じだ。地の底から出たときは、いつも光がまぶしい。しかし須勢理毘売は——もう泣かなかった。目が慣れた。
慣れたくないと言っていた。しかし——慣れた。
「……須勢理毘売」
「何ですか」
「……泣いていいんだぞ」
「泣いていません」
「嘘だな」
「…………嘘です」
泣いていた。地上の光の中で。根の堅洲国に向かって。父に向かって。母に向かって。
俺は——隣にいた。何もできなかった。手を握ることしか。冷たい手。しかし三年前より——少しだけ温かくなった手。
出雲が見えた。清い川が光っていた。
帰ってきた。——もう、退く場所はない。
次は——ここで。この地上で。全てを受ける。
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