第二十八章 天若日子(あめわかひこ)の死
報告を出して——七日目の朝だった。
鳥が来た。
空から。一直線に。高天原から降りてきた鳥。雉だった。赤と緑の羽。しかし普通の雉ではなかった。金色の光を纏っている。高天原の使者。
雉名鳴女。
雉が——天若日子の館の前の木に止まった。朝日を受けて羽が光っていた。
鳴いた。
「——天若日子。高天原より問う。なぜ復命しない。なぜ留まっている。答えよ」
鳥の声だった。しかし言葉は——命令だった。高天原の命令が、鳥の喉を通って降りてきた。
俺は清い川のそばにいた。雉の声が朝の空気を裂いた。村中に響いた。
走った。天若日子の館に向かって。
着いたとき——天若日子が、館の前に立っていた。
弓を持っていた。
天羽々矢を番えていた。金色の矢じりが——雉に向いていた。
「天若日子——」
「黙れ」
声が低かった。震えていた。怒りか。恐怖か。
「あの鳥を——帰すわけにはいかない」
「なぜ」
「帰れば——報告する。俺が出雲に馴染んだと。任務を放棄したと。そうすれば——高天原は俺を裏切り者と見なす」
「…………」
「裏切り者が守る国は——より強い力で潰される。俺がいることで——出雲が、もっと危険になる」
天若日子の論理だった。自分が出雲にいること自体が、出雲を危険にする。ならば——使者を黙らせる。報告させない。時間を止める。あの川辺の夜と同じように。
「やめろ。——鳥を射つな」
「なぜ」
「使者を殺しても——止まらない。高天原は別の手段で確認する。お前が使者を射てば——事態はもっと悪くなる」
「…………」
「弓を降ろせ。天若日子」
天若日子の手が——震えていた。弓弦に掛けた指が。金色の目が——揺れていた。
雉が鳴いた。二度目。
「——天若日子。答えよ。さもなくば——」
矢が放たれた。
止められなかった。
天若日子の指が弓弦を離して、天羽々矢が飛んだ。金色の矢が朝の光を切って——雉に向かって一直線に。
命中した。
雉が——落ちた。木の枝から。羽が散った。赤と緑の羽が朝日の中に舞った。
地面に落ちた。動かなくなった。
静寂が落ちた。
天若日子が弓を降ろした。手の震えが——止まっていた。射った後の方が静かだった。
「……やったのか」
「やった」
「…………」
「これで——しばらくは」
空が——光った。
金色の光。朝日ではない。もっと鋭い光。空の一点が——裂けた。
何かが落ちてきた。
小さかった。一瞬で来た。音もなく。光の筋が空から一直線に降りてきて——
天若日子の胸を——貫いた。
矢だった。
天羽々矢。天若日子が射った矢と同じ矢。同じ金色の矢じりが——天若日子の胸に刺さっていた。
返し矢。
高天原が——矢を返した。天若日子が射った矢を受け取り、そのまま——射ち返した。射った者に向けて。
天若日子が——立っていた。
まだ立っていた。胸に矢が刺さったまま。金色の矢じりが背中から突き出ている。
血が——流れていた。金色の血。人間の赤い血ではない。神の血。高天原の神の血は金色だ。胸から金色の液体が流れて、地面に落ちて、土に染みていった。
「……天若日子——」
駆け寄った。
天若日子が——俺を見た。金色の目。光が——消えかけていた。
「……返し、矢か。——自分の矢で」
「喋るな。——動くな。薬草を——」
「……無駄だ。高天原の矢は——高天原の神を殺す。そういう風にできている」
自分の武器で殺される。自分が使ったものに殺される。それが——高天原の裁きだった。裏切り者への。
「……大国主」
「何だ」
「……答えが——出た」
「何の」
「お前に聞かれた。——どちら側だ、と」
「…………」
「……俺は——どちら側でもなかった。高天原でもなく——出雲でもなく。どちらにもなれなかった」
血が流れている。金色の血が。
「どちらにもなれなかったから——どちらからも裏切り者だ。高天原にとっても——出雲にとっても」
「出雲はお前を裏切り者とは——」
「壊したくない——と言っただけだ。守る——とは言えなかった。守ると言えなかった者は——味方ではない」
正しかった。残酷なほど。「壊したくない」と「守る」は違う。天若日子はそれを——自分の矢で、自分の胸で、理解した。
「……すまなかった。——いい国だった」
「天若日子——」
「水が——旨かった」
金色の目が——閉じた。
天若日子が——倒れた。
朝日の中で。出雲の土の上で。自分の矢に貫かれて。
高天原の神が——出雲の土の上で死んだ。
動かなくなった。
金色の血が土に染みていった。出雲の土が——金色に染まった。一瞬だけ。それから吸い込まれて、消えた。
須勢理毘売が走ってきた。俺の隣で止まった。天若日子を見た。
「…………」
何も言わなかった。
アメノホヒが来た。金色の目が——天若日子の体を見て——揺れた。
「……これが——高天原の答えか」
返し矢。使者を射った者は、自分の矢で死ぬ。それが高天原の裁きだ。
「……次は——誰が来る」
アメノホヒが言った。声が震えていた。自分もまた——帰らなかった使者だ。同じことが自分にも起きうる。
「次は——使者ではない。——戦う者が来る」
「戦う者」
「建御雷神。——雷の神。高天原最強の武神」
アメノホヒの声が——枯れていた。恐怖ではなかった。諦めでもなかった。確信だった。次に来る者の名を——知っている。
建御雷神。雷。最強。
天若日子の体のそばに——雉名鳴女の体があった。射った者と射られた者が、同じ土の上に横たわっていた。
村人が集まってきた。遠くから。近づけない。天若日子の体から漏れる金色の光が——人間を近づけない。
俺は——天若日子の体を抱き上げた。
軽かった。鎧のない体は——軽かった。あれだけ迷っていたのに。あれだけ苦しんでいたのに。死んだ体は——何も重さがない。
「……弔う」
「大国主さま——敵でしょう。高天原の——」
「敵ではない。——最後まで、どちらでもなかった男だ。だから——俺が弔う」
天若日子を——稲佐の浜に葬った。
出雲の西の浜。海が見える場所。高天原と出雲の境界の浜。どちらでもない場所に——どちらでもなかった男を埋めた。
土を被せた。
歌った。
言霊式で。弔いの歌。結ぶのではなく——送る歌。初めての歌だった。繋ぐのではなく、手放す歌。
歌い終わったとき——風が止まっていた。出雲の風が。
静かだった。
須勢理毘売が——隣に立っていた。
「……戦争が——来ますね」
「ああ」
「建御雷神。——雷」
「ああ」
「……怖いですか」
「……ああ。怖い」
「怖くないことが怖い——ではなく」
「怖い。——普通に怖い」
二度死んだときは怖くなかった。しかし今は——怖い。守るものが増えたから。失うものが増えたから。
怖い。
しかし——逃げる場所はない。逃げる場所が、もう——ない。
稲佐の浜の波が、静かに砂を洗っていた。天若日子の墓の上に、海風が吹いていた。
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