第二十七章 一人ではない
天若日子が出雲に留まって二ヶ月目の朝——客が来た。
最初は一人だった。
東の村の小さな神。川を守っている神。俺が道を繋いだ村の、名もない守り神。
「……大国主さま。空から使者が来たと——聞きました」
「ああ。来た」
「戦になりますか」
「……分からない。まだ」
「分からなくても——来ました。何かあれば」
帰っていった。
翌日。二人来た。北の海辺の神と、南の山の神。
三日目。五人。
一週間で——二十を超えた。
出雲の周囲の村から。道が繋がっている村から。言霊式・結縁で結んだ村から。
神々が集まってきた。
大きな神はいなかった。全員——小さな神だった。川の守り神。丘の守り神。森の端の守り神。名前のある者もいれば、名前のない者もいた。力も大きくはない。一柱では何もできない規模の神々。
しかし——来た。
「なぜ来る」
聞いた。東の川の神に。
「あなたが道を繋いでくれたからです。道がなければ——ここに来られなかった」
南の山の神に聞いた。
「水路を引いてくれたからです。あの水路のおかげで——田が実った。恩がある」
西の浜の神に聞いた。
「子供を治してくれたからです。あなたが少名毘古那の薬を使って——うちの子供の熱を下げてくれた」
全員が——俺が何かをした村から来ていた。道を繋いだ。水路を引いた。病人を治した。種を蒔いた。その縁が——人の形をして帰ってきた。
「……ここにいるから来た。——そう言ってくれた神がいた。だから俺も——ここにいるから来た」
東の川の神が言った。
——ここにいるから来た。
白兎に言った言葉。野ネズミが返してくれた言葉。俺の言葉が——国中に広がって、別の口から戻ってきている。
一ヶ月で——五十を超えた。
小さな神の群れ。一柱では何もできない。しかし五十柱が集まれば——何かになる。
俺は一人ではなかった。
そして——
ある朝。大地が揺れた。
小さな揺れではなかった。出雲の地面全体が振動した。井戸の水が波打った。木の葉が落ちた。
西の方角から——来た。
大きかった。
四本の腕。土の体。黄色い——いや、琥珀色の目。
枯野だった。
あの枯れた大地の神。俺が水脈を繋ぎ直した神。殴られて肋骨にひびが入った相手。
しかし——変わっていた。
体が違った。あのときは乾いた灰色の土だった。今は——湿った茶色の土。ひび割れが減っていた。体の表面に——草が生えていた。緑の草。小さな花まで咲いている。
水が戻った大地の神。三年かけて——回復した姿。
枯野が——俺の前で止まった。四本の腕を地面に突いて、姿勢を低くした。
「……来たのか」
「来た。——覚えていると言った」
「覚えていた。——名前を。大国主」
「…………」
「お前が俺の水脈を繋いだ。枯れかけた大地に——水を戻した。俺たちの場所を作った。——だから来た」
ここにいるから来た。枯野も——同じ言葉を。
「……戦えるのか。お前は」
「俺は大地だ。大地は——踏まれるためにある。しかし——踏む者を選ぶ権利はある」
踏む者を選ぶ。高天原に踏まれるか、大国主の国として踏まれるか。枯野は——後者を選んだ。
須勢理毘売が枯野を見ていた。初めて見る荒ぶる神。四本の腕。巨大な体。
「……あなたが——大国主の肋骨を折った神ですか」
「ひびだ。折ってはいない」
「三本ひびを入れた神ですね」
「…………ああ」
「覚えておきます」
須勢理毘売の声が冷たかった。枯野が——少しだけ後ずさった。四本の腕を持つ巨大な神が、白い肌の女の一言で後ずさった。
「……須勢理毘売。味方だ。許してやれ」
「許してはいます。——覚えているだけです」
——この女は怖い。味方にとっても。
天若日子が——集まった神々を見ていた。
館の端から。弓を膝に置いて。金色の目で。
五十柱の小さな神と、一柱の大きな神。そして大国主と須勢理毘売とアメノホヒ。
寄せ集めだ。高天原の軍勢に比べれば——小さい。しかし——いる。ここにいる。
天若日子が——立ち上がった。
俺の前に来た。
「……大国主」
「何だ」
「これが——お前の国か」
「ああ。これが俺の国だ」
「小さな神の寄せ集めだな」
「寄せ集めだ。——しかし、来てくれた」
「…………」
天若日子が——神々を見ていた。川の神。山の神。森の神。名もない神。枯れた大地から回復した神。
「……高天原の軍は——これの十倍はいる」
「知っている」
「武器も——比べものにならない」
「知っている」
「それでも——戦うのか」
「戦いたくはない。しかし渡すこともできない。——この国は、来てくれた者たちの場所でもある。俺一人の判断で渡していい国ではなくなった」
天若日子が——黙った。
長い沈黙。金色の目が揺れていた。川辺の夜より——大きく。
「……報告する。——高天原に」
「何と報告する」
「『渡さない』と。——大国主は渡さないと」
「…………それは——お前の答えか」
「俺の答えではない。お前の答えだ。——俺は使者だ。答えを持ち帰るだけだ」
「……お前自身は——どう思う」
天若日子が——俺を見た。
「……この国は——いい国だ。高天原にはないものがある。虫の声がある。川の音がある。空の色が変わる」
「慣れたか」
「……慣れたくなかった。——慣れた」
慣れてしまった。二ヶ月で。出雲の音に。出雲の匂いに。出雲の水に。
「慣れたから——報告する。もう——止めていられない。俺が止めていても——いずれ来る。ならば——俺の口から言う方がいい」
「……お前は——どちら側だ」
二度目の問い。川辺で聞いたのと同じ問い。
天若日子が——答えなかった。
代わりに——弓を見た。膝の上の天羽々矢を。殺すための弓矢を。
「……この弓は——高天原のものだ。俺は——高天原の者だ。それは変わらない」
「…………」
「しかし——この国を壊したくはない」
壊したくはない。「守りたい」とは言わなかった。「壊したくない」と言った。守ることと壊さないことは——似ているが違う。守るは能動だ。壊さないは消極的な抵抗だ。
天若日子は——能動的に守る覚悟までは持てなかった。しかし——壊さないという一線は引いた。
「報告は——明日出す。空に向けて」
「ああ」
「報告を出したら——高天原は動く。備えろ」
「……ああ」
天若日子が去っていった。西の方角に。空に向けて報告を送るために。
俺は——集まった神々を見た。
小さな神の群れ。枯野の大きな体。須勢理毘売の白い横顔。アメノホヒの金色の目。
一人ではない。
一人ではないが——十分ではない。高天原の十倍に対して。
しかし——ここにいる。来てくれた。「ここにいるから来た」と言って。
須勢理毘売が隣に立った。
「……始まりますね」
「ああ」
「……歌を——一つ、覚えました」
「歌を」
「少名毘古那の書き残しの中にあった。言霊式の——別の形。結縁ではない。護の歌」
「護」
「守りの言霊。——私が歌えば、あなたたちを守る壁になる」
須勢理毘売が——言霊式を覚えていた。少名毘古那の書き残しから。文字が読める須勢理毘売だけが——あの小さな神の最後の贈り物を受け取っていた。
「……少名毘古那が——残してくれたのか」
「はい。——あの方は、去る前に全部書き残していた。あなたが文字を読めないことも、私が読めることも、全部——計算して」
最後まで頭を動かす神だった。去ってなお——俺たちを守っている。
「……言霊式・護。——名前をつけろ」
「つけました」
「何と」
「言霊式・護。——そのままです」
「……そのままか」
「凝った名前は要りません。守る歌は——護。それだけで十分です」
須勢理毘売らしかった。最短距離。無駄がない。
夕空を見た。オレンジから紫に変わっていく空。天若日子が慣れてしまった空。
明日——報告が出る。高天原に届く。「渡さない」と。
そして——空から、何かが来る。
来てくれた者たちを——守れるのか。
分からない。しかし——ここにいる。ここにいるから——守る。
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