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第二十六章 天若日子(あめわかひこ)

 三年が経った。


 国は育っていた。田が増え、道が伸び、村が繋がった。大物主おおものぬし三諸山みもろやまに祀ってから、大地の力が安定した。病人が減った。収穫が増えた。子供が増えた。


 木俣このまたは三歳になった。走り回っている。八上比売やがみひめの茶色い肌を受け継いでいる。須勢理毘売すせりびめが育てている。実の母でないのに——いや、実の母でないからこそ、一つも手を抜かない。


 アメノホヒは出雲に馴染んでいた。金色の鎧は脱いで、村人と一緒に田を耕している。高天原たかまがはらの使者が鍬を持っている。最初は村人が怖がったが——三年も経てば「ホヒさん」と呼ばれている。


 平穏だった。


 しかし——空を見るたびに思った。高天原たかまがはらは待たない。使者が戻らなければ——次の手を打つ。


 三年。十分に待った。十分すぎるほど。


 来た。


 今度は——光の柱ではなかった。


 朝霧の中を——歩いてきた。出雲の西の道から。道を歩いてきた。空からではなく、地上を踏んで。


 若い男だった。アメノホヒより若い。しかし——纏っているものが違った。


 弓を背負っていた。


 天羽々あめのはばや高天原たかまがはらの矢。矢じりが金色に光っている。弓弦が風もないのに震えている。生きている弓矢。俺の生弓矢いくゆみやとは別の——殺すための弓矢。


 腰に剣を帯びていた。天之麻迦古弓あめのまかこゆみと対になる剣。


 武装していた。


 アメノホヒは鎧だけだった。武器は持っていなかった。話しに来た使者だった。


 この男は——戦いに来た使者だった。


「——大国主おおくにぬしか」


 声が若かった。しかし——冷たかった。アメノホヒの声には迷いがあった。この男の声には——ない。命令を遂行しに来た者の声。


「ああ。——お前は」


天若日子あめわかひこ高天原たかまがはらより遣わされた」


「アメノホヒの次の使者か」


「アメノホヒは——任務を放棄した。高天原たかまがはらはそう判断している」


 アメノホヒが——畑の向こうから、こちらを見ていた。金色の目が揺れていた。自分の後任が来たことを——分かっている顔だった。


「任務は同じか。——国を渡せ、と」


「同じだ。しかし——条件が変わった」


「条件」


「前回は言葉だけだった。今回は——期限がある。答えがなければ——力で取る」


 力で取る。


 言葉の温度が変わった。アメノホヒが持ってこなかったものを——この男は持ってきた。暴力の選択肢を。


 須勢理毘売すせりびめが俺の隣に来た。生太刀いくたちを腰に帯びて。


「……期限はいつだ」


高天原たかまがはらが定める。俺が報告してから——定まる」


「では——まだ決まっていないのか」


「…………」


 天若日子あめわかひこが——少しだけ、間を置いた。


「……まだだ」


 この間が——気になった。「まだ」と言った声に——かすかな揺れがあった。


「……お前は——見ていくか。アメノホヒのように」


「俺はアメノホヒとは違う」


「違うか」


「違う。——俺は任務を遂行する。水を飲んで忘れたりはしない」


 アメノホヒの方を見た。アメノホヒが——目を逸らした。後ろめたいのか。諦めているのか。


「しかし——見てからでも遅くはないだろう」


「…………」


「見て、それでも渡すべきだと思ったなら——考える」


「考えるのか。渡すことを」


 嘘はつかない。


「考える。——渡すべき理由があるなら」


 天若日子あめわかひこが俺を見ていた。若い金色の目。アメノホヒより鋭い。しかし——鋭い分だけ、見る力がある。


「……一日だけだ」


「一日で十分だ」


 歩いた。天若日子あめわかひこと。アメノホヒのときと同じように。しかし——空気が全く違った。アメノホヒは迷いながら歩いた。天若日子あめわかひこは値踏みしながら歩いた。


 田を見た。道を見た。川を見た。子供を見た。


 天若日子あめわかひこは——何も言わなかった。


 アメノホヒは感動した。水を飲んで「旨い」と言った。空を見て「美しい」と言った。天若日子あめわかひこは——何も言わない。見ている。しかし感想を言わない。


 一日が終わった。


「……どうだ」


「いい国だ」


「渡すべきか」


「……いい国だから——高天原たかまがはらが欲しがる。欲しがる理由が分かった。それだけだ」


 冷たい答えだった。しかし——「いい国だ」とは言った。


「俺は出雲に駐留する。高天原たかまがはらに報告するまで——ここにいる」


「……いつ報告する」


「近いうちに」


 近いうち。しかし——天若日子あめわかひこは報告しなかった。


 一週間。


 二週間。


 一ヶ月。


 天若日子あめわかひこは出雲にいた。駐留すると言って——いた。毎日、弓を背負ったまま出雲を歩いていた。田を見て、道を歩いて、川の水を飲んで——報告しなかった。


 アメノホヒと同じか——と思いかけた。しかし違った。


 天若日子あめわかひこは馴染まなかった。村人と話さない。田を耕さない。鎧を脱がない。弓を手放さない。出雲にいるが——出雲の者にはならない。


 境界の上にいた。高天原たかまがはらでも出雲でもない場所に。


「……あの男は——何を考えている」


 須勢理毘売すせりびめが言った。


「分からない」


「アメノホヒとは違う。留まっているが——留まる理由が違う」


「ああ。アメノホヒは水を飲んで残った。あの男は——水を飲んでも変わらない」


「では——なぜ残っている」


「…………」


 分からなかった。天若日子あめわかひこが出雲に留まる理由が。任務を遂行するなら報告すればいい。留まるなら鎧を脱げばいい。どちらもしない。


 ある夜——天若日子あめわかひこが清い川のそばにいた。


 月明かりの中で。弓を膝の上に置いて。川を見ていた。


 俺が近づいた。


「……眠らないのか」


「眠れない」


「何が」


「……この国の音が——うるさい」


「音」


「虫が鳴いている。川が流れている。風が吹いている。全部——うるさい。高天原たかまがはらは静かだった。命令以外の音がなかった」


挿絵(By みてみん)


「……それは——うるさいのではなく、生きている音だ」


「…………」


「慣れるか」


「慣れたくない」


 ——慣れたくない。


 須勢理毘売すせりびめと同じことを言った。しかし意味が違う。須勢理毘売すせりびめの「慣れたくない」は光を失いたくない願いだった。天若日子あめわかひこの「慣れたくない」は——慣れたら任務を遂行できなくなることへの抵抗だった。


 この男は——戦っていた。出雲の美しさと。慣れまいとして。慣れたら——アメノホヒと同じになる。同じになったら——高天原たかまがはらを裏切ることになる。


「……天若日子あめわかひこ


「何だ」


「報告しろ。——引き延ばしても、何も変わらない」


「…………」


「お前が報告しなければ——高天原たかまがはらはもっと強い者を送ってくる。お前より——容赦のない者を」


「分かっている」


「分かっているなら——」


「分かっているから——迷っている」


 天若日子あめわかひこが——俺を見た。金色の目。月明かりで——少しだけ、温かく見えた。


「報告すれば——戦争になる。『いい国だ』と報告すれば——高天原たかまがはらはもっと欲しがる。『渡さない』と報告すれば——力で取りに来る。どちらを言っても——戦争になる」


「……ああ」


「報告しなければ——時間が止まる。この夜が続く。虫の声と川の音が続く。——もう少しだけ」


 もう少しだけ。この男は——時間を止めようとしていた。報告しないことで。戦争を先送りにすることで。


 優しさではなかった。弱さだった。しかし——弱さから来る猶予は、優しさから来る猶予より脆い。いつか——折れる。


「……先に聞いておく」


「何だ」


「戦争になったら——お前はどちら側だ」


 天若日子あめわかひこが——答えなかった。


 長い沈黙。川の音。虫の声。慣れたくない音。


「……分からない。——今は」


「今は、か」


「今は分からない。——明日には分かるかもしれない。明後日には分かるかもしれない。しかし今夜は——分からない」


 正直だった。この男は——正直だった。嘘をつける者が、あえて正直に「分からない」と言っていた。


 俺は立ち上がった。


「……答えが出たら——教えてくれ」


「ああ。——教える」


 川辺を離れた。


 天若日子あめわかひこが月明かりの中に残った。弓を膝に置いて。慣れたくない音を聞きながら。


 戦争が——近づいている。


 この男が答えを出したとき——何かが動き始める。

ご拝読いただきありがとうございました!

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