第二十五章 アメノホヒ
空から——来た。
何の前触れもなかった。朝、畑で種を蒔いていた。須勢理毘売が水を運んでいた。木俣が老婆の背中で眠っていた。出雲の村はいつも通りの朝だった。
空が——割れた。
そう見えた。青い空の一点が白く光って、光が柱のように地面に落ちた。光の柱が村の広場に突き刺さった。土が弾けた。風が吹いた。村人が逃げた。
光が消えたとき——男が立っていた。
背が高かった。俺より高い。金色の鎧を纏っていた。高天原の鎧。太陽の光を編んだような装束。目が——金色だった。太陽を宿したような目。
「——葦原中国を治める者は誰だ」
声が上から来た。空から来た男の声は——空の高さを持っていた。
「俺だ。大国主」
「大国主。——高天原より命を帯びて来た。我はアメノホヒ」
アメノホヒ。アマテラスの子。太陽の神の血を引く使者。
「命とは」
「この国を——高天原に渡せ」
渡せ。
国を。
俺が作った国を。道を繋いで、水路を引いて、田を作って、病人を治して、歌で結んだ国を。
「……誰の命だ」
「アマテラス大御神の命だ。葦原中国は高天原が治めるべき国である。地上の神が治める国ではない」
「…………」
「大国主。——答えを聞かせろ」
須勢理毘売が俺の隣に来た。生太刀を持って。戦う気だった。
「待て」
「待ちません」
「待て。——まだ話している」
須勢理毘売が止まった。しかし生太刀を下ろさなかった。
アメノホヒを見た。金色の鎧。金色の目。しかし——目の奥に、命令だけではないものがあった。何か——迷いのようなもの。
「……アメノホヒ。お前は——この国を見たか」
「見た。空から」
「空からでは見えないものがある。——歩いて見ろ」
「…………」
「歩いて見てから——もう一度聞け。渡すべき国かどうか。お前自身の目で確かめろ」
アメノホヒが——止まった。
命令を帯びて来た使者に「歩いて見ろ」と言った。命令に従うなら今すぐ答えを求めるべきだ。しかし——
「……いいだろう。見る」
アメノホヒが——鎧を脱いだ。
金色の装束の下に——普通の体があった。神の体だが、鎧がなければ普通の男に見えた。背が高い男。金色の目が少しだけ——和らいだ。
歩いた。
出雲の村を。アメノホヒと二人で。須勢理毘売は後ろから、生太刀を手放さずについてきた。
田を見せた。稲が育っている田。少名毘古那が場所を選び、俺が耕した田。水路が引いてある。水が流れている。
「……高天原には——田はない」
「ないのか」
「天上の食べ物は——与えられるものだ。地面を耕すという概念がない」
耕す概念がない。高天原は全てが与えられる場所。地上は——作る場所。
道を歩いた。言霊式・結縁で繋いだ道。村と村を結ぶ道。
「この道は——歌で作ったのか」
「ああ。言霊式で。歌うと大地が応える」
「高天原の大地は——応えない。命令で動く」
「命令と応えるは——違う」
「…………」
子供が走ってきた。
「おっきい人——誰、この人」
「客だ」
「かっこいい! 目が金色!」
アメノホヒが——面食らった顔をした。子供に「かっこいい」と言われたことが——なかったのだろう。高天原では。
「……子供が——走り回っているな」
「子供は走るものだ」
「高天原の子供は——走らない。歩く。走ることは——作法に反する」
「作法より走る方が楽しいだろう」
「…………」
清い川を見せた。スサノオが残した川。魚が泳いでいる。水が透明だ。
アメノホヒが川辺にしゃがんだ。水に手を入れた。
「……冷たい」
「ああ」
「高天原の水は——温い。太陽が近いから」
「ここの水は冷たい。——旨い」
アメノホヒが水を飲んだ。手で掬って。金色の目が——少しだけ揺れた。
一日が終わった。
夕方。アメノホヒが——空を見ていた。出雲の夕空。オレンジから紫に変わっていく空。
「……高天原では——空の色は変わらない。常に金色だ」
「ここでは変わる。朝は白い。昼は青い。夕方はオレンジ。夜は黒い」
「……四つの色がある」
「四つどころではない。雲の形で変わる。風の強さで変わる。季節で変わる」
アメノホヒが——黙って空を見ていた。
長い間。
「……大国主」
「何だ」
「明日——もう一日、見たい」
「……ああ。見ればいい」
明日が来た。また歩いた。別の村を見た。別の田を見た。橋を渡った。井戸の水を飲んだ。病人に薬草を塗る俺を見ていた。
三日目。
四日目。
五日目。
アメノホヒは——帰らなかった。
一週間が経った。高天原への報告をしなかった。「国を渡せ」という命令への答えを——持ち帰らなかった。
「……アメノホヒ。帰らないのか」
「…………」
「お前の任務は——答えを持ち帰ることだろう」
「答えは出ている」
「何と」
「渡すべきではない。——この国は。作った者が治めるべきだ」
「…………」
「しかし——そう報告すれば、高天原は別の手を打つ。もっと強い者を送ってくる」
「……ああ」
「俺がここにいれば——高天原は待つ。使者がまだ交渉していると思う。時間が稼げる」
アメノホヒが——出雲に留まることを選んだ。命令に背いて。
裏切りではなかった。裏切るつもりはなかった。ただ——この国を見て、この水を飲んで、この空を見て——壊したくないと思った。壊されたくないと思った。
「……お前は——高天原に戻れなくなるぞ」
「ああ。——戻れなくなるだろう」
「いいのか」
「……この水は旨い。この空は——美しい。それで十分だ」
アメノホヒが笑った。初めて見る笑いだった。金色の目が和らいで——出雲の夕空の色に似ていた。
しかし——俺は分かっていた。
時間が稼げるだけだ。高天原はいずれ気づく。使者が帰ってこないことに。そして——次の手を打つ。もっと強い者を。もっと厳しい命令を。
戦争が——来る。
いつか。必ず。空の向こうから。
須勢理毘売が——アメノホヒを見ていた。敵として来た者が味方になった。しかしその目は——喜んでいなかった。次が来ることを知っている目だった。
「……大国主」
「何だ」
「国は——形になりましたね」
「ああ。なった」
「守れますか」
「……守る」
「守れなくなったら——どうしますか」
「…………」
答えられなかった。守れなくなったら。その先は——まだ、見えない。
出雲の清い川のそばで座っていた。
国は形になった。道が繋がった。田が実った。村が増えた。人が増えた。子供が走り回っている。犬が吠えている。煙が上がっている。
少名毘古那がいない肩。大物主を預けた大地。アメノホヒが留まった村。
全部——俺が繋いだ。
しかし空は遠かった。空の向こうに高天原がある。アマテラスがいる。荒魂のスサノオの姉が。若いまま。光り続ける太陽の神が。
その太陽が——この地上を欲しがっている。
気配がした。
灰白色の肌。目のない顔。黒い炎の蝋燭。
「……ヒサメ」
いつ以来だろう。根の堅洲国以来か。あの暗い通路で案内してくれて以来。
「——痛いですか。」
「……何が」
「いろいろ。」
「……ああ。痛い。——いろいろ」
八上比売を失った痛み。少名毘古那を失った痛み。これから来る戦争への痛み。
「後でわかります。」
「……また、それか」
「後でわかります。」
二度言った。笑顔のまま。蝋燭の黒い炎が揺れて——消えた。
後でわかる。何が分かるのか。いつ分かるのか。
分からないまま——国は形になった。
空だけが——遠い。




