第二十四章 大物主(おおものぬし)
一人で国を作り続けた。
出雲に戻って。少名毘古那がいない肩で。半分の知識で。
道を繋いだ。言霊式・結縁で。少名毘古那が設計した水路の残りを引いた。図面は——少名毘古那が小さな文字で書き残していた。文字が読めないので、須勢理毘売に読んでもらった。
「……ここに水路。ここに井戸。ここの土は稲に向いている——だそうです」
「全部書き残してあったのか」
「全部。——去ると決めてから、書いたのでしょう。あなたが文字を読めないと知っていて」
知っていて書いた。読めない男のために。読んでくれる女がいることも——計算していたのだろう。最後まで頭を動かす神だった。
田を作った。種を蒔いた。病人を診た。少名毘古那が教えてくれた薬草を使って。半分しか覚えていないが——須勢理毘売が残りの半分を覚えていた。二人で一人分の知識。足りないが——足りないなりに、やった。
国は——形になりつつあった。
出雲を中心に、道が四方に伸びている。言霊式で繋いだ道。高志にも。因幡にも。その先の村々にも。蜘蛛の巣のように広がっている。
しかし——広がるほど、薄くなっていた。
一人の力で繋いだ道は、脆い。少名毘古那がいれば補強できた。水路を通し、橋を架け、道の基礎を固められた。俺一人では——歌で繋ぐことはできても、固めることができない。
夜。
清い川のそばで座っていた。疲れていた。体ではなく——頭が疲れていた。考えることが多すぎる。どこに道を引くか。どの村を先に繋ぐか。病人にどの薬草を使うか。全部——俺が決めなければならない。
少名毘古那がいれば「こうしろ」と言ってくれた。辛辣に。的確に。俺は手を動かすだけでよかった。
今は——手も頭も動かさなければならない。
「…………」
懐の粟の穂に触れた。「我が事訖りぬ」。お前の事は終わったかもしれないが、俺の事は終わっていない。
海の方を見た。暗い海。星が映っている。波の音。
——光った。
海が——光った。
水平線の上に。一点の光が現れた。星ではない。もっと低い位置。水面すれすれの場所で——何かが光っている。金色の光。
立ち上がった。
光が近づいてきた。海の上を——滑るように。波を切らずに、波の上を走って。
大きくなった。光が。近づくにつれて、形が見えてきた。
球だった。金色の球。人の頭ほどの大きさ。光を発しながら、海の上を来た。川の河口を越え、清い川を遡って——俺の目の前で、止まった。
光が——揺れた。脈打った。生きているように。
声がした。
「——お前が大国主か。」
声は光の中から来ていた。低い声だが、スサノオとは違う低さ。もっと——深い。大地の底から来るような声。
「……ああ。俺が大国主だ。——お前は」
「我は大物主。」
「大物主」
「お前の——幸魂。奇魂。」
幸魂。奇魂。
言葉は知っていた。神の魂には四つの側面がある。荒魂——荒ぶる力。和魂——穏やかな力。幸魂——幸いをもたらす力。奇魂——不思議な力、癒しの力。
四つの魂のうちの二つが——俺の前に、独立した存在として現れた。
「……俺の一部、ということか」
「そうだ。——お前が国を作り始めたとき、お前の中で二つの魂が目覚めた。お前が繋いだ縁が多くなるほど——幸魂が育った。お前が治した病人が増えるほど——奇魂が育った。育ちすぎて——お前の体に収まらなくなった」
「収まらなくなった」
「だから——外に出た。俺として」
金色の光が揺れていた。温かかった。スサノオの嵐の金色とは違う。もっと穏やかな金色。土の温かさ。
「……何の用だ」
「用がなければ来ないと思うか」
「……お前が俺の一部なら、俺のことは知っているだろう」
「知っている。——一人で苦しんでいることも」
「…………」
「少名毘古那が去った。お前は頭を失った。手だけで国を作ろうとしている。——無理だ」
「無理でもやるしかない」
「一人でやる必要はない」
「…………」
「我を——三諸山に祀れ」
「祀る」
「俺を大地に祀れば——俺の力がこの国の大地に宿る。幸魂が土地を豊かにする。奇魂が病を癒す。お前が一人でやっていたことを——大地がやるようになる」
大地に——魂を宿す。俺の一部を大地に預ける。
「……少名毘古那の代わりか」
「代わりではない。——あの神の知恵は、俺にはない。俺にあるのは——お前の魂の、もう半分だ。半分と半分で——一つになる」
半分。
少名毘古那も言っていた。「お前の女は残りの半分を覚えていた。二人で一人分の知識」。少名毘古那がいなくなって、須勢理毘売と二人で半分ずつ補った。今度は——俺自身の魂の半分が、外に出て大地を支える。
半分ずつ。全部一人で持たなくていい。荷物持ちのときは全部一人で背負った。今は——分けることができる。
「……三諸山はどこだ」
「東だ。大和の国。——遠い」
「遠くても——行くか」
「行かなくていい。——俺が行く。お前は歌え。祀りの歌を」
「祀りの歌」
「知っているはずだ。お前の中にある。——俺がいた場所に」
歌が——あった。
言霊式の奥に。結縁とは違う歌。もっと古い歌。大地に魂を預ける歌。
歌った。
声が川面に落ちた。川が光った。清い水が金色に染まった。スサノオが残した川が——大物主の光と共鳴していた。
大物主が——昇った。金色の光が空に上がっていった。東に向かって。三諸山に向かって。
「——待て」
呼び止めた。光が止まった。
「……お前は俺の一部だと言った。なら——聞きたいことがある」
「何だ」
「俺は——正しいか。この国作りは——正しいのか」
金色の光が——揺れた。
「正しいかどうかは——分からない。」
「分からないのか。俺の一部なのに」
「お前の一部だから分からない。——お前が分からないことは、俺にも分からない」
「…………」
「しかし——止まっていないことは分かる。お前は止まっていない。止まっていない者は——まだ間違えていない」
答えになっていない。しかし——嘘がなかった。
「もう一つ」
「何だ」
「俺は——これから何を失う」
光が——長い間、揺れていた。
「多くのものを。——しかし、得るものもある。」
「……そうか」
「祀りの歌を——ありがとう」
光が——東に消えていった。三諸山に向かって。金色の点が小さくなって、やがて星と見分けがつかなくなった。
少名毘古那と同じだった。海の向こうに消えていく姿が。星のように小さくなる姿が。
しかし——去り際が違った。少名毘古那は何も言わなかった。大物主は「ありがとう」と言った。
俺の一部だから——俺が言えなかった言葉を、代わりに言ったのかもしれない。
須勢理毘売が来た。川辺に。
「……光が見えた。何があったのですか」
「大物主。——俺の幸魂と奇魂だと言っていた」
「あなたの——魂の」
「ああ。三諸山に祀ると言った。大地がこの国を支えるようになると」
「…………」
「少名毘古那がいなくなって——一人では無理だと思っていた。しかし——一人ではなかった」
「ええ。一人ではない」
須勢理毘売が——俺の隣に座った。川を見ていた。清い水が、まだかすかに金色に光っていた。大物主の残響。
「……国が——大きくなっていきますね」
「ああ」
「大きくなるほど——守るものが増える」
「ああ」
「守るものが増えるほど——」
言いかけて、止めた。
「……何だ」
「いいえ。——何でもない」
何でもなくはなかった。しかし——聞かなかった。
守るものが増えるほど——失うものも増える。
それをこの女は言いかけて、止めた。言えば——予言になるから。言わなければ——まだ、起きていないことだから。
清い川が流れていた。金色の光が消えて、いつもの透明な水に戻った。
国は大きくなっていく。道は広がっていく。人が増えていく。
その分だけ——空も広くなっていく。空が広いということは、落ちてくるものが多いということだ。
しかし今夜は——考えなくていい。
隣にいる女の手に触れた。冷たい手。しかし——握り返してくれた。
それで十分だった。
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