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第二十三章 少名毘古那(すくなびこな)が去った

 朝、肩が軽かった。


 いつもの軽さではなかった。少名毘古那すくなびこなは手のひらサイズで、重さはほとんどないが——いるといないとでは、肩の感覚が違う。小さな体温。小さな重力。小さな存在感。


 それが、なかった。


少名毘古那すくなびこな


 呼んだ。返事がない。


 梁を見た。いつも寝ている場所。いない。


 窓の縁を見た。朝日を浴びるのが好きだった場所。いない。


 薬草を干している棚を見た。いない。


 須勢理毘売すせりびめが起きた。


「……どうしました」


少名毘古那すくなびこながいない」


「…………」


 二人で探した。宿の中。宿の外。村の中。川辺。翡翠ひすいの採掘場。薬草が生えている丘。


 いなかった。


 昼近くになって——村の子供が来た。


「おっきい人、小さい人がこれ残してた」


 子供が差し出したのは——粟の穂だった。一本の粟の穂。


「……小さい人が——いつ」


「朝。まだ暗いとき。小さい人が畑の粟のとこにいた。粟の穂をぴょんって曲げて、ぱちんって飛んでった」


「飛んでった」


「うん。海の方に。ぴょーんって。すごく高く。星みたいに小さくなった」


 粟の穂を——踏んで、弾かれて、飛んでいった。海の向こうに。


 子供が走っていった。粟の穂が俺の手に残った。


 穂の根元に——文字が刻んであった。小さい。虫のように小さい文字。少名毘古那すくなびこなの手で書かれた文字。


 俺は文字が読めない。少名毘古那すくなびこなに何度も言われた。「国の主が文字を読めなくてどうする」と。結局——教わらないまま、去られた。


「……須勢理毘売すせりびめ


「はい」


「……読めるか」


 須勢理毘売すせりびめが粟の穂を受け取った。目を凝らした。藍色の目は暗闘で鍛えられている。小さな文字を読むのに向いている。


「…………」


「何と書いてある」


「——我が事訖おわりぬ」


 我が事、訖りぬ。


 俺の仕事は終わった。


「……それだけか」


「それだけです」


 それだけだった。別れの言葉もなかった。「ありがとう」もなかった。「また会おう」もなかった。


 我が事訖りぬ。俺の仕事は終わった。だから去った。


 粟の穂を握っていた。小さな穂。少名毘古那すくなびこなが最後に触れたもの。これを踏み台にして——飛んでいった。星のように小さくなるまで。


「…………」


 怒りはなかった。


 八上比売やがみひめが去ったときは——自分への怒りがあった。黙っていた俺への。しかし少名毘古那すくなびこなの出発には——怒る場所がない。あの神は仕事をした。道を繋いだ。薬草を教えた。水路を設計した。田の位置を決めた。虫を分類した。文字を——教えようとした。


 全部やって——終わったから、去った。


 それだけだ。


 それだけなのに——肩が軽かった。


 海を見に行った。高志こしの海。灰色の海。少名毘古那すくなびこなが飛んでいった方角。


 水平線を見ていた。何も見えない。小さな神は、もう見えない。


「……馬鹿だ」


 呟いた。


「文字を教える途中だったろう。——俺はまだ読めない。半分しか覚えていない。残りはどうするんだ」


 答えはなかった。海が答えるはずがない。


「薬草も——半分しか覚えていない。あの丘の草は何だ。あの虫は食えるのか食えないのか。お前がいないと分からない」


 波の音だけが返ってきた。


「道の設計は——お前がいないと、俺は力仕事しかできない。設計は誰がやるんだ」


 誰もやらない。俺がやるしかない。下手でも。間違えても。


「……なぜ——言わなかった」


 声が震えた。


「なぜ——去る前に言わなかった。一言でいい。『明日去る』と。それだけでいい。それだけ——言ってくれれば——」


 何ができた。言われたら何ができた。


 引き止められたか。たぶん——できない。「我が事訖りぬ」と決めた神を引き止めることは、誰にもできない。それでも——最後に、一言。


「……虫って呼んで悪かったとか。お前の肩は座り心地が良かったとか。何でもいいから——一言」


 波が来た。足元を濡らした。冷たかった。


 須勢理毘売すせりびめが——隣に来た。


 黙って隣に立っていた。何も言わなかった。


 しばらくして——手が、俺の手に触れた。冷たい指。粟の穂を握りしめている俺の手に。上から。


「……泣いていますか」


「泣いていない」


「嘘です」


「……泣いていない。目が——海風で」


「海風で目は赤くなりません」


「…………」


「泣いていいです」


「…………」


「泣いていいです。——あの人は、あなたの友達だった」


 友達。


 その言葉で——何かが崩れた。


 少名毘古那すくなびこなは相棒だった。パートナーだった。知恵の神だった。辛辣な批評家だった。


 しかし——友達だった。


 俺の肩に座って、偉そうに指示を出して、虫が食えるか食えないか教えてくれて、须勢理毘売すせりびめを虫呼ばわりして、俺の顔が色男だと呆れて、「追え。馬鹿」と背中を押してくれた——友達だった。


 泣いた。


 海の前で。須勢理毘売すせりびめの手を握って。声を出さずに。


 二度死んでも泣かなかった。焼けた岩でも木に挟まれても泣かなかった。蛇の室でも火の原野でも泣かなかった。八上比売やがみひめが去ったときも——泣かなかった。


 友達がいなくなったら——泣いた。


 須勢理毘売すせりびめが何も言わずに、俺の手を握っていた。冷たい手が——少しだけ温かかった。


 泣き終わった。


 目を拭いた。海を見た。変わっていない。灰色の海。水平線。何も見えない。


「……行くか」


「どこに」


「出雲に。——帰る」


「……はい」


「国作りは——俺が一人でやる。少名毘古那すくなびこなが残してくれた知識で。半分しか覚えていないが——半分で何とかする」


「何ともならなかったら」


「……そのときは、お前に聞く」


「私は薬草の名前しか知りません。少名毘古那すくなびこなに一回教わっただけの」


「一回で覚えたんだろう」


「……ええ」


「なら十分だ」


 粟の穂を——懐に入れた。捨てられなかった。最後に残していったもの。「我が事訖りぬ」と刻まれた穂。文字は読めないが——何が書いてあるかは覚えた。


 歩き出した。高志こしの海を背にして。出雲に向かって。


 須勢理毘売すせりびめが隣を歩いていた。


 肩が——軽かった。


 その軽さに慣れたくなかった。須勢理毘売すせりびめが光に慣れたくないと言ったように。俺は——この軽さに慣れたくなかった。慣れてしまったら、あの重さを忘れてしまう。


 手のひらサイズの。虫より小さい。虫より賢い。


 友達の重さを。



挿絵(By みてみん)


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