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第二十二章 須勢理毘売の嫉妬

 話した。


 全部。正直に。


 高志こしの館に二度通ったこと。沼河比売ぬなかわひめが扉を開けたこと。歌を歌ったこと。翡翠ひすいの光の中で一夜を過ごしたこと。


 黙らなかった。八上比売やがみひめのときは黙った。黙って壊した。今度は——黙らないと決めた。


 須勢理毘売すせりびめは——聞いていた。


 宿の部屋で。俺の向かいに座って。藍色の目が俺を見ている。少名毘古那すくなびこなは外に出ていた。「俺がいると邪魔だ」と言って。小さい体で、小さい分だけ空気を正確に読んだ。


 話し終わった。


 沈黙。


 長い沈黙。


 須勢理毘売すせりびめの顔は——変わらなかった。口元も動かない。目も動かない。いつもの顔。何も読めない顔。


「…………」


「…………」


「……全部ですか」


「全部だ」


「嘘はないですか」


「ない」


「…………」


 また沈黙。


 それから——須勢理毘売すせりびめが、立ち上がった。


 静かに。音を立てずに。地の底で育った体は、立ち上がるときにも音を出さない。


「……どこに行く」


「外に」


須勢理毘売すせりびめ——」


「少し——外に出ます」


 出ていった。


 扉を閉めた。静かに。力を入れずに。ばたん、ではなく、かちり、と。


 須勢理毘売すせりびめが怒るとき——静かになるほど危険だと、俺は知っている。


 立ち上がった。追おうとした。


 追えなかった。足が動かなかった。追う資格があるのか。別の女と寝て、正直に話しました、で——追いかけていいのか。


 少名毘古那すくなびこなが窓の外から小さく言った。


「……追え。馬鹿」


「……追っていいのか」


「追わなければ——八上比売やがみひめと同じことになる」


 正しかった。追わなければ去る。去ったら終わる。八上比売やがみひめのときは追えなかった。追う資格がなかった。しかし——今度は全部話した。話した上で追う。それは——資格ではないかもしれないが、少なくとも嘘はない。


 走った。


 外に出た。高志こしの夜。海風が吹いている。


 須勢理毘売すせりびめが——歩いていた。走ってはいなかった。歩いていた。しかし速かった。地の底で育った足は、暗闇で速い。夜は——須勢理毘売すせりびめの領域だ。


須勢理毘売すせりびめ!」


 叫んだ。


 止まらなかった。歩き続けた。


 走って追いついた。腕を掴んだ。


 ——払われた。


 須勢理毘売すせりびめが腕を振って、俺の手を払った。冷たい腕。いつもより冷たい。


「……触らないで」


 声が——低かった。いつもの冷たい声よりさらに低い。地の底の、最も暗い場所から来る声。


須勢理毘売すせりびめ。聞いてくれ——」


「聞いた。全部聞いた。正直に話してくれた。——分かっている」


「なら——」


「分かっているから——怒っている」


 振り向いた。


 藍色の目が——光っていた。暗闇の中で。光の中で泣いたあの目が——怒りで光っていた。


「嘘をつかれた方が楽だった」


「…………」


「黙っていてくれた方が——知らないままでいられた。知ってしまったら——もう、戻れない」


「…………」


「あなたは正直だ。正直に話した。それは——正しい。正しいけど——正しいことが、こんなに痛いとは思わなかった」


 声が——震えていた。須勢理毘売すせりびめの声が。あの冗談を言えるようになった声が。初めて二人で笑った声が。震えていた。


「……私は——ここにいた。あなたが旅に出ている間——出雲で。あなたが作った道で走って来たのも——ここにいたからだ」


「ああ。お前が来てくれて——」


「——でも、あなたはいなかった」


 声が大きくなった。


「あなたはいなかった。私がここにいても——あなたは別の場所にいた。別の女の隣にいた。翡翠ひすいの光の中で。私の知らない——温かい場所で」


 歩き出した。また。俺に背を向けて。


「……どこに行く」


「帰る。出雲に。——いいえ」


 止まった。


「出雲にも——帰りたくない。あなたがいる場所は全部——あなたの匂いがする。あなたと——別の女の匂いがする」


須勢理毘売すせりびめ——」


「母も——こうだったのだろうか」


 止まった。俺が。


「母も——待った。待ち続けた。父が——海原に行ったとき。証明すると言ったとき。待ったのだろう。それでも——父は戻らなかった」


「…………」


「母の名前は知らない。父は——言わなかった。聞いても、黙った。あなたと同じだ。黙る男だ。——いいえ、あなたは黙らなかった。話した。だから——もっと痛い」


 母。須勢理毘売すせりびめの母。スサノオの——


 聞いてはいけない場所に、踏み込んでいた。踏み込んだのは須勢理毘売すせりびめ自身だった。怒りが——蓋を開けた。いつも閉じていた蓋を。母の蓋を。


「……私は——母のようになりたくない」


 声が、割れた。


「待って——待って——待ち続けて——それでも来ない人を待つのは——もう——」


 泣いていた。


 須勢理毘売すせりびめが——泣いていた。


挿絵(By みてみん)


 地上の光を見たときの涙とは違う。あれは驚きの涙だった。これは——怒りの涙だった。悲しみの涙だった。嫉妬の涙だった。全部が混ざった涙が、藍色の目から流れていた。


 暗闇で育った女が——暗闇の中で泣いていた。


 俺は——走った。


 須勢理毘売すせりびめの前に回った。正面に立った。


「どいてください」


「どかない」


「どいてください」


「どかない。——聞け」


「聞きたくない」


「聞け。——俺は」


「聞きたくない!」


 叫んだ。須勢理毘売すせりびめが叫んだ。脱出の夜以来——二度目の叫び。


 俺の胸を押した。両手で。冷たい手で。押した。力は強くなかった。しかし冷たかった。凍りつくほど冷たかった。


 離れなかった。押されても。


「俺は——ここにいる」


「…………」


「ここにいるから——お前を追いかける」


「追いかけないで——」


「追いかける。お前がどこに行っても。出雲でも根の堅洲国ねのかたすくにでも。お前がいる場所に——俺は行く」


「嘘だ」


「嘘じゃない」


「嘘だ。——あなたは行く。別の場所に。別の女のところに。いつも——」


「行く。行くかもしれない。俺は——一人に絞れない。少名毘古那すくなびこなに忠告されても——絞れなかった。それは——俺の弱さだ」


「…………」


「しかし——戻る。必ず戻る。どこに行っても——戻る場所はお前のそばだ」


 須勢理毘売すせりびめが——止まった。


 俺の胸を押していた手が——止まった。力が抜けた。冷たい手が、俺の胸の上で止まっていた。


「……本当に」


「本当だ」


「嘘じゃなく」


「嘘じゃない。——俺は嘘をつかないと決めた。お前の前では」


「……お前の前では。——他の女の前でも嘘をつかないのでしょう」


「……ああ」


「……ずるい」


 ずるい、と言った。正しかった。ずるい。全員に正直であることは——ずるい。誰にも嘘をつかないのは——誰も特別にしないのと同じだ。


「……ずるい。でも——」


 手が——握った。俺の胸の服を。冷たい指が布を掴んだ。


「でも——嘘よりはいい」


 声が小さかった。怒りが——抜けていた。怒りの代わりに、疲労が入っていた。怒ることに疲れた声。


「……帰らないのか」


「帰らない。——帰りたくない。でも——行く場所もない」


「なら——ここにいろ」


「…………」


「俺のそばに。ここにいろ。俺は——お前を追いかけたくない。追いかけるのは——つらい。だから——隣にいてくれ」


「……勝手なことを——」


「勝手だ。全部勝手だ。——しかし、本心だ」


 長い沈黙。


 海風が吹いていた。高志こしの冷たい風。塩の匂い。波の音。


 須勢理毘売すせりびめの手が——俺の胸の布を離さなかった。掴んだまま。冷たい指が白くなるほど強く。


「……一つだけ」


「何だ」


「私を——一番にしてください」


「…………」


「他の女のところに行ってもいい。戻ってくるなら——いい。でも——一番は、私」


「…………」


「言えますか」


「——お前が一番だ」


「嘘じゃなく」


「嘘じゃない。——最初に契りを交わしたのはお前だ。根の堅洲国ねのかたすくにで。暗闇の中で。お前が最初で——お前が一番だ」


 嘘ではなかった。


 八上比売やがみひめは最初に選んでくれた女だ。沼河比売ぬなかわひめは初めて待たされた女だ。しかし——一番は須勢理毘売すせりびめだ。暗闇で「温かい」と言った女。光の中で泣いた女。冗談を覚えた女。二日走ってきた女。


「……信じます」


「ああ」


「信じるから——もう泣かせないでください」


「……努力する」


「努力じゃなく」


「——泣かせない」


「…………」


 手が離れた。胸の布が——皺になっていた。冷たい指の跡が残っていた。


 須勢理毘売すせりびめが——一歩近づいた。額を俺の胸に押しつけた。冷たい額。あの最初の夜と同じ。根の堅洲国ねのかたすくにの暗闇と同じ。


「……温かい」


 四度目の「温かい」だった。


 しかし今回は——泣いた後の「温かい」だった。怒って、泣いて、疲れて、それでも「温かい」と言った。


 腕を回した。冷たい体を抱いた。海風が二人を包んでいた。


 許されたのか——分からない。許しではないかもしれない。「信じる」と言っただけだ。信じることと許すことは違う。


 しかし——ここにいる。


 ここにいるから。それだけで、今は十分だった。

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