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第二十一章 沼河比売(ぬなかわひめ)

 二度目の夜。


 日が沈んだ。約束の時間だ。


 宿を出る前に、須勢理毘売すせりびめが言った。


「……行ってきなさい」


 昨夜と同じ言葉。しかし声の温度が——少しだけ上がっていた。昨夜の冷たさから、一度だけ、一段だけ。諦めではなかった。覚悟だった。


「……すまない」


「謝らないでください。——あなたは嘘をつかないと決めた。なら——正直に行きなさい」


 正直に行けと言われた。この女に。俺が別の女のところに行くことを——正直に行けと。


 須勢理毘売すせりびめの強さが——痛かった。怒りや嫉妬の方がまだ楽だ。「正直に行け」と言われると——逃げ場がない。


 館に着いた。


 扉が——開いていた。


 今夜は待たされなかった。扉が最初から開いていた。翡翠ひすいの緑の光が、扉の隙間から漏れていた。


 入った。


 沼河比売ぬなかわひめが——奥の間にいた。


 昨夜と同じ場所。しかし——装いが違っていた。深緑の衣の上に、薄い白の羽織を重ねている。翡翠ひすいの首飾りが胸元で光っている。髪を結い上げていた。うなじが見えた。夕焼け色の肌。


「……来ましたね」


「約束した」


「正直に来ましたか」


「正直に来た」


「……座りなさい」


 向かいに座った。翡翠ひすいの光が二人を照らしていた。緑色の光。根の堅洲国ねのかたすくにの生物発光とも、出雲の太陽とも、因幡いなばの月明かりとも違う光。石の光。冷たくて硬いが——美しい。


「昨夜の歌を——もう一度聞かせてほしい」


結縁けつえんの歌か」


「いいえ。——別の歌を」


「別の」


「道を繋ぐ歌ではなく。——心を繋ぐ歌を」


 心を繋ぐ歌。


 俺は歌を——知らなかった。言霊式ことだましき結縁けつえんは場所と場所を繋ぐ歌だ。心と心を繋ぐ歌は——詠んだことがない。


 しかし——口が動いた。


 知らない歌が出てきた。結縁けつえんのときと同じだ。知らない歌が、体の奥から湧いてくる。しかし今度は——道の歌ではなかった。


 恋の歌だった。


 高志こしの夜に。翡翠ひすいの光の中で。この女の前で——俺の口から、恋の歌が出てきた。


 歌った。


 言葉が翡翠ひすいの光に溶けていった。声が壁に触れて、石が応えた。翡翠ひすいが——共鳴していた。


 沼河比売ぬなかわひめが目を閉じていた。


 歌い終わった。


 沈黙。


 沼河比売ぬなかわひめが——目を開けた。琥珀色の目が——濡れていた。


「……いい歌だ」


「…………」


「——私も歌いましょう」


 沼河比売ぬなかわひめが——歌った。


 低い声。落ち着いた声。しかし——熱があった。翡翠ひすいの冷たさの下に、石を磨く手の温かさがあった。


 歌の内容が——直接的だった。


挿絵(By みてみん)


 白い腕で抱き。胸を重ね。脚を絡める——そういう歌だった。沼河比売ぬなかわひめは言葉で愛を描く女だった。須勢理毘売すせりびめが暗闇の中で触覚だけで繋がったのとは——正反対だ。この女は言葉で繋がる。


 歌が終わった。


 翡翠ひすいの光が——揺れていた。歌の残響で。石が震えていた。


「……来なさい」


 沼河比売ぬなかわひめが手を伸ばした。夕焼け色の手。翡翠ひすいの腕輪が光っていた。


 手を取った。


 温かかった。須勢理毘売すせりびめの冷たさでも、八上比売やがみひめの温かさでもない。もっと——均一な温度。石の温度。翡翠ひすいが長い時間をかけて蓄えた熱。急がない温かさ。


「……急がないでください」


「……ああ」


「石を磨くように。——ゆっくりと」


 白い羽織が肩から落ちた。深緑の衣の帯が解かれた。自分で解いた。沼河比売ぬなかわひめは——自分の速度で動く。俺に脱がされるのではなく、自分で衣を解いた。


 翡翠ひすいの首飾りだけが残った。


 夕焼け色の肌が翡翠ひすいの光に照らされて、緑がかった金色に見えた。須勢理毘売すせりびめの白とも八上比売やがみひめの茶色とも違う——この女だけの色。


「……きれいだ」


「見ていなさい」


 見ていろと言った。須勢理毘売すせりびめは「どうせ見えない」と言った。八上比売やがみひめは「見ていてほしい」と言った。沼河比売ぬなかわひめは「見ていなさい」——命令だった。自分が美しいことを知っていて、それを見せると決めている。


 触れた。


 肩に。鎖骨に。首飾りの石に指が当たった。冷たい石と温かい肌の境目。その境目に沿って指を滑らせると、沼河比売ぬなかわひめが——長く息を吐いた。


「……石と肌の間が——好き」


「好きか」


「一番敏感な場所。——冷たいものと温かいものの境目が」


 翡翠ひすいの首飾りが胸の上で揺れていた。その下の肌に触れた。歌の通りだった。沼河比売ぬなかわひめ自身が歌った通りの体が、ここにあった。言葉と現実が一致していた。


「歌った通りに——触りなさい」


「歌の通りに」


「はい。白い腕で抱き。胸を重ね。——歌の通りに」


 言霊ことだまだった。


 沼河比売ぬなかわひめの歌もまた言霊ことだまだった。歌った内容が現実になる。歌が触覚を導く。声が体を導く。


 須勢理毘売すせりびめとの暗闇の夜は触覚だけだった。八上比売やがみひめとの月明かりの夜は視覚があった。沼河比売ぬなかわひめとの翡翠ひすいの夜は——言葉があった。


 声を出し合った。歌うように。言葉を交わしながら。どこに触れているか。何を感じているか。全部——言葉にした。


 沼河比売ぬなかわひめは言葉にする女だった。声を出す女だった。暗闇では声だけが正直だったが——ここでは光の中で、見えているのに、あえて声にする。言葉にすることで——現実が確かになる。


 翡翠ひすいの首飾りが二人の間で揺れていた。冷たい石が肌に当たるたびに——沼河比売ぬなかわひめが声を上げた。


「……冷たい」


「外すか」


「外さない。——冷たいのが好き。あなたの温かさとの差が」


 温度差を楽しむ女。冷たい石と温かい体の間で——感覚が鋭くなる。


 終わった後。


 翡翠ひすいの光の中で、二人で横になっていた。沼河比売ぬなかわひめは目を開けていた。琥珀色の目が天井を見ていた。


「……お前は」


「何ですか」


「なぜ——俺を受け入れた。妻がいると知っていて」


 沼河比売ぬなかわひめが——首を傾けた。俺の方を見た。


「あなたは正直に来た。正直に言った。嘘がなかった」


「…………」


「嘘のない男は——珍しい。この世で最も珍しい翡翠ひすいより珍しい」


「……買いかぶりだ」


「買いかぶりではない。——あなたは嘘をつかない代わりに、黙る人でしょう。以前は。しかし今は——黙らなくなった」


 八上比売やがみひめを失ってから。黙ることが嘘と同じだと学んでから。


八上比売やがみひめという方がいたのでしょう。——噂で聞いた」


「……ああ」


「去ったのでしょう。——あなたが黙っていたから」


「……ああ」


「だから今は——正直に来た。同じ失敗をしないために」


「…………」


「……いい男だ。失敗から学ぶ男は」


 沼河比売ぬなかわひめが——微笑んだ。翡翠ひすいの光の中で。落ち着いた、大人の笑み。


「私は——あなたの正妻にはなりません。須勢理毘売すせりびめという方がいるなら——その方が正妻です。私は——高志こしにいます。あなたが来たいときに来なさい。来ないときは——来なくていい」


「…………」


「石は——待つものです。翡翠ひすいは何万年も待った。私も——待てます」


 この女は——覚悟していた。


 最初から。扉を閉めて「明日を待て」と言ったときから。妻がいる男を受け入れると決めたときから。全て——自分の速度で、自分の覚悟で、決めていた。


 朝。


 沼河比売ぬなかわひめは隣にいた。起きていた。髪を整えていた。翡翠ひすいの首飾りがそのまま胸元にあった。


「……帰りなさい。須勢理毘売すせりびめの元に」


「ああ」


「帰ったら——正直に話しなさい。全部」


「……ああ」


「また来ますか」


「……来たい」


「では来なさい。——でも、須勢理毘売すせりびめに正直に話してから」


 条件だった。正直であること。それが沼河比売ぬなかわひめの条件だった。


 館を出た。


 翡翠ひすいの光が背中に残っていた。石の温度が手に残っていた。


 宿に戻った。


 須勢理毘売すせりびめが——起きていた。夜通し起きていたのだろう。目の下が暗かった。藍色の目が——俺を見ていた。


 何かを——読んでいた。俺の体から。俺の手から。温度を。匂いを。


 暗闇で育った女は——全部、分かる。


「……話がある」


「…………」


「正直に——話す」


 須勢理毘売すせりびめの目が——揺れた。藍色の光が、一度だけ大きく揺れて——止まった。


「……聞きます」


 静かだった。嵐の前の静けさだった。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


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