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第二十章 扉を叩く夜

 高志こしの国は——寒かった。


 出雲より北。海が近い。風に塩が混ざっている。空が低い。雲が厚い。しかし——豊かだった。出雲とは違う豊かさ。川辺に翡翠ひすいの原石が転がっていた。緑色の石が、灰色の河原で光っていた。


「……きれいだな」


翡翠ひすいだ。この土地の力の源だ」


 少名毘古那すくなびこなが肩の上で解説した。


高志こし翡翠ひすいの国だ。石に力がある。この石を治める者が——この土地を治める」


「治める者」


沼河比売ぬなかわひめ翡翠ひすいの女神。——お前が会いたがっている相手だ」


「会いたがっているわけでは——」


「顔に書いてある」


 書いてあるのか。自分では分からないが——少名毘古那すくなびこなが言うなら書いてあるのだろう。


 須勢理毘売すせりびめが——隣を歩いていた。


 あの夜、「次からは一緒に行く」と言った通り、出雲を出るときについてきた。木俣このまたは老夫婦に預けた。三人旅になった。


 須勢理毘売すせりびめ高志こしの風景を見ていた。出雲とは違う景色。海が近い。波の音が聞こえる。


「……海は初めてですか」


「初めてだ。出雲からは見えなかった」


「根の堅洲国ねのかたすくににも——海はなかった」


 当然だ。地の底に海はない。


「……広い」


「ああ。広い」


「空と——同じ色」


 灰色の空と灰色の海が繋がっていた。境目が分からない。


 沼河比売ぬなかわひめの館は——川のそばにあった。翡翠ひすいが敷き詰められた道を上っていくと、石と木で作られた館が見えてきた。出雲の家より立派だった。高志こしは裕福な土地だ。


 館の前に着いた。


「……でかい館だな」


「女神の館だ。——さて、どうする」


「どうするとは」


「入るのか。声をかけるのか。名乗るのか」


「名乗るのが——先だろう」


 門の前に立った。声を出そうとした。


「……待て。何と言えばいい」


「名乗ればいい」


「それだけか」


「それだけでいい。——お前は名前が三つある。どれで名乗る」


 大穴牟遅おおなむぢ大国主おおくにぬし八千矛神やちほこのかみ


「……大国主おおくにぬしで」


「いいだろう。——行け」


 少名毘古那すくなびこなが肩から降りた。距離を取った。須勢理毘売すせりびめも——少し後ろに下がった。


 須勢理毘売すせりびめの目が——俺を見ていた。藍色の目。何も言わない。何も言わないが——見ている。


 俺は門の前に立った。


挿絵(By みてみん)


「——出雲より参りました。大国主おおくにぬしと申します。国作りの旅の途中——高志こし沼河比売ぬなかわひめにお会いしたい」


 声が館の壁に反響した。


 沈黙。


 返事がない。


 もう一度。


「——沼河比売ぬなかわひめ殿。道を繋ぎに参りました。お話を——」


 沈黙。


 扉が——動かなかった。開く気配がない。


 少名毘古那すくなびこなが後ろから小声で言った。


「……門前払いか」


「……そうらしい」


「お前、門前払いは初めてか」


「初めてだ」


「……まあ、そうだろうな。八上比売やがみひめは向こうから来たし、须勢理毘売すせりびめは初対面で契りを宣言したし。お前は——拒まれたことがない」


 確かにそうだった。白兎も八上比売やがみひめ須勢理毘売すせりびめも——向こうから来た。俺が何かをする前に、向こうが動いた。


 初めて——壁に当たっている。


「もう一度——」


「待て」


 声がした。


 扉の向こうから。女の声。低い。落ち着いている。しかし——冷たくはない。温かくもない。翡翠ひすいの温度。石の温度。


大国主おおくにぬしの名は——聞いている。道を繋ぐ神。歌う神。八千矛やちほこと呼ばれる神」


「……ああ。その通りだ」


「しかし——今夜は来ないでください」


「…………何」


「今夜は来ないでください。明日の夜を待ちなさい」


 明日の夜。


「……なぜ」


「今は——私の時間です。夜は鳥が鳴いて、私は休みます。明日の夜——日が沈んでから来なさい。そのときに——扉を開けます」


 断られた。


 いや——断られてはいない。「明日来い」と言っている。今夜は駄目だが明日ならいい。拒絶ではなく——延期。


 しかし——初めてだった。「待て」と言われたのは。


「……分かった。明日の夜に来る」


「お願いします」


 声が消えた。扉の向こうが静かになった。


 少名毘古那すくなびこなが肩に戻ってきた。


「……振られたな」


「振られていない。明日と言われただけだ」


「振られかけだ」


「……違う」


「まあいい。——面白い女だ。お前を待たせるとは」


 面白い——のか。面白いかどうか分からないが——新鮮ではあった。


 八上比売やがみひめは選んでくれた。待つ必要がなかった。須勢理毘売すせりびめは宣言してきた。待つ間もなかった。


 沼河比売ぬなかわひめは——「待て」と言った。自分の時間を持っている女。自分の速度で動く女。俺の速度に合わせない女。


 ——嫌いではなかった。


 嫌いではないことに気づいて——まずい、と思った。後ろを見た。


 須勢理毘売すせりびめが——立っていた。


 藍色の目が俺を見ていた。何も言わない。表情が変わらない。口元も動かない。目も動かない。


 完璧に——静かだった。


 須勢理毘売すせりびめが静かなとき——それが一番怖いと、俺は知っている。


「……須勢理毘売すせりびめ


「何ですか」


「これは国作りの——」


「分かっています」


高志こしとの繋がりを——」


「分かっていると言いました」


 分かっている。分かっているが——藍色の目の温度が、一度下がった。


 宿を取った。館の近くの村の空き家。三人で泊まった。


 夜。


 須勢理毘売すせりびめは部屋の隅で横になっていた。背中を向けている。


「……寒くないか」


「寒くないです」


「こっちに——」


「寒くないです」


 二度言った。同じ言葉を。声の温度が——下がっていた。


 少名毘古那すくなびこなが梁の上から小声で言った。


「……寝ろ。明日のことを考えろ。——须勢理毘売すせりびめのことは明後日考えろ」


「明後日に回すと——もっとひどくなるのでは」


「なる。——しかし今夜は手の打ちようがない」


 正しかった。今夜は手の打ちようがない。


 須勢理毘売すせりびめの背中を見ながら眠った。冷たい背中だった。いつもより冷たく見えた。


 翌日。


 一日中——落ち着かなかった。


 国作りの仕事をした。高志こしの村の水路を確認した。翡翠ひすいの採掘場を見た。少名毘古那すくなびこなが薬草を調べた。須勢理毘売すせりびめは——黙ってついてきた。何も言わなかった。


 夕方になった。


 日が沈み始めた。空がオレンジから紫に変わっていく。


「……行くのですか」


 須勢理毘売すせりびめが聞いた。


「行く。——国作りのためだ」


「……ええ」


「…………」


「行きなさい」


 行きなさい、と言った。許可ではなかった。もっと——重いものだった。


 館に向かった。一人で。


 門の前に立った。日が沈んでいる。昨日と同じ場所。


 扉が——開いた。


 今度は声ではなかった。扉が開いた。内側から。


 女が立っていた。


 翡翠ひすいの首飾りが最初に見えた。深い緑色の石が連なって、胸元で光っていた。それから——顔が見えた。


 夕焼け色の肌。出雲の女とも因幡いなばの女とも違う色。海の近くで育った肌。長い黒髪が背中まで流れていた。深緑の衣。


 目が——琥珀色だった。翡翠ひすいの緑ではなく——琥珀。温かい石の色。


「——お待たせしました」


 声が低かった。落ち着いていた。急いでいない。この女は——自分の速度でしか動かない。


「……待った甲斐があった」


 言ってから——色男すぎたか、と思った。しかし嘘ではなかった。


 沼河比売ぬなかわひめが——少しだけ口元を上げた。笑ったのか。笑いの予兆なのか。


「中にお入りなさい」


 入った。


 翡翠ひすいの光が館の中を照らしていた。壁に翡翠ひすいが嵌め込まれている。緑色の光が空間全体を満たしていた。根の堅洲国ねのかたすくにの生物発光とは違う——石の光。冷たくて、硬くて、しかし美しかった。


 沼河比売ぬなかわひめが座った。向かいに俺も座った。


「……国作りの旅と——聞いた」


「ああ。道を繋いでいる。出雲から各地へ。高志こしとも——繋ぎたい」


「繋ぐ。——どのように」


言霊式ことだましきで。歌で道を作る。出雲と高志こしを結ぶ道を」


「歌で。——聞かせてもらえますか」


「今か」


「今です。——昨夜待たせた分。今夜は——聞きます」


 歌った。


 言霊式ことだましき結縁けつえん。出雲と高志こしを繋ぐ歌。草が揺れる。風が動く。大地に薄い線が走る。


 沼河比売ぬなかわひめが——目を閉じていた。歌を聞いていた。翡翠ひすいの首飾りがかすかに光っていた。歌に応えるように。


 歌い終わった。


 沼河比売ぬなかわひめが目を開けた。琥珀色の目が——濡れていた。泣いていたのではない。感動で——湿っていた。


「……いい歌だ」


「……ありがたい」


「しかし——足りない」


「足りない」


「道は繋がった。しかし——心は繋がっていない。道だけでは国にならない。人の心を繋がなければ」


 正しかった。道は物理的な繋がりだ。心は——別のものだ。


「……心を繋ぐには——どうすればいい」


「もう一晩。——もう一晩、歌いに来なさい。明日の夜に」


「……また明日か」


「私の速度で動きます。——急いでも、石は磨けない」


 翡翠ひすいの女神。石を磨く女。時間をかけて——ゆっくりと。自分の速度で。


「……分かった」


 立ち上がった。帰ろうとした。


「——大国主おおくにぬし


「何だ」


「あなたには——妻がおられるのでしょう」


 止まった。


「……聞こえているのか」


「昨夜——扉の向こうで、女の声が聞こえた。あなたを呼ぶ声が」


 須勢理毘売すせりびめの声が——聞こえていたのか。


「……いる。妻が。出雲に」


「そう。——それでも来たのですね」


「国作りの——」


「国作りだけですか」


「…………」


 嘘はつかない。黙ることで嘘をつくのは——もうやめると決めた。八上比売やがみひめを失ったとき。


「……国作りだけではない。——お前に会いたかった」


 言った。正直に。


 沼河比売ぬなかわひめが——俺を見ていた。琥珀色の目で。長い間。


「……正直な方だ」


「嘘をつかないと決めている」


「そう。——では明日も、正直に来なさい」


 扉が閉まった。


 外に出た。夜空に星が出ていた。海風が吹いていた。


 宿に戻った。


 須勢理毘売すせりびめが——起きていた。部屋の隅で座っていた。膝を抱えて。


「……お帰りなさい」


「ああ」


「……どうでしたか」


「歌を聞かせた。——明日もう一度来いと言われた」


「……そう」


 それ以上聞かなかった。俺も——それ以上言わなかった。


 しかし今回は——黙っているのではなかった。言うべきことは言った。「国作りだけではない」と。沼河比売ぬなかわひめには正直に言った。


 須勢理毘売すせりびめにも——言うべきだろう。しかし今夜ではない。


 今夜は——ただ、隣に座った。須勢理毘売すせりびめの隣に。距離を取らずに。


 須勢理毘売すせりびめは動かなかった。離れもしなかった。


 二人とも——黙っていた。

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