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第十九章 須勢理毘売が来た

 二日が経った。


 座り込んだまま、ほとんど動けなかった。脇腹の肋骨が三本ひびで、呼吸のたびに痛みが走る。少名毘古那すくなびこなが近くで使える草を探してくれたが、枯れた大地には薬草がない。水が戻り始めたばかりで、草が生えるにはまだ時間がかかる。


 少名毘古那すくなびこなが水と、かろうじて見つけた食べられる根を運んでくれた。小さい体で。何往復もして。


「……お前、寝ていないだろう」


「お前こそ寝ろ。骨は寝ている間に治る」


「寝ると呼吸が深くなって痛い」


「面倒な体だな」


 二日目の夕方。


 枯れた大地の向こうから——白い影が走ってきた。


 須勢理毘売すせりびめだった。


 走っていた。裸足で。枯れた土の上を。黒い神衣の裾が泥で汚れていた。髪が乱れていた。息が切れていた。


 ——走ってきたのだ。出雲から。


 俺が地面を叩いた振動を感じて。応答して。そのまま——走ってきた。


 どのくらいの距離だ。出雲からここまで。少名毘古那すくなびこなと五日かけて歩いた道を——


「……何日走った」


「二日」


「……二日」


「道があったから。あなたが結縁けつえんで繋いだ道が。道を辿って走った」


 俺が作った道を。言霊式ことだましきで繋いだ道を。その道が——須勢理毘売すせりびめを俺のところまで連れてきた。


木俣このまたは」


「老婆に預けた。——泣いていた。でも大丈夫」


「お前が泣いていたのか。木俣このまたがか」


木俣このまたが」


 嘘だった。目が赤かった。須勢理毘売すせりびめも泣いていた。しかし——突っ込まなかった。


 須勢理毘売すせりびめが俺の前にしゃがんだ。脇腹を見た。血が乾いて固まっている。


「傷を見せなさい」


 命令形だった。この女の命令形には逆らえない。


 服をめくった。脇腹の傷。打撲と切傷。紫色の腫れが広がっている。


 須勢理毘売すせりびめが——手を伸ばした。冷たい指先が傷に触れた。


「……っ」


「動かないで」


「冷たい——」


「冷たい方がいい。腫れが引く」


 冷たい手が——傷の上に置かれた。確かに——冷たさが腫れに効いている。地の底育ちの冷たい体温が、ここでは薬になっていた。


「……肋骨に三本。ひびが入っている。折れてはいない。——少名毘古那すくなびこなの診断と同じ」


「お前にも分かるのか」


「触れば分かる。骨の位置が少しずれている。ここと——ここと——ここ」


 三箇所を正確に指で示した。暗闇で触覚だけで世界を読む女だ。骨の位置など——指先で読める。


 少名毘古那すくなびこな須勢理毘売すせりびめの手元を見ていた。


「……触診の精度が俺より高い」


「当然です。あなたより手が大きいから」


「それは反論できない」


 須勢理毘売すせりびめが背負ってきた袋から——布と薬草を出した。


少名毘古那すくなびこなに教わった薬草を持ってきた。——これで合っているか」


「……見せろ」


 少名毘古那すくなびこなが薬草を確認した。


「合っている。——お前、一回教えただけで覚えたのか」


「一回で十分です」


「…………大した女だ」


 二度目だった。少名毘古那すくなびこな須勢理毘売すせりびめを褒めたのは。虫呼ばわりしていた相手を——認め始めている。


 須勢理毘売すせりびめが薬草を潰して傷口に塗った。手際がよかった。しかし——丁寧ではなかった。


「痛い」


「我慢しなさい」


「もう少し優しく——」


「優しくしたら治りが遅い。強く押さえないと薬が入らない」


「…………」


「根の堅洲国ねのかたすくにでは——父が怪我をしたとき、こうしていた」


 スサノオが怪我を。あの老いた嵐の神も——怪我をしたことがあるのか。そしてこの娘が手当てをしていたのか。


「……お前が父の傷を」


「他に誰がいますか。——母はおられませんでしたから」


 さらりと言った。さらりと——重い言葉が落ちた。


 母はおられなかった。須勢理毘売すせりびめは母なしで育った。父の傷を一人で手当てしていた。暗闇の中で。冷たい手で。


 聞くべきか。母のことを。


 ——聞かなかった。聞くべきときではないと思った。


「……動けるか」


「動けない」


「なら——ここで休む。明日の朝まで」


高志こしの国に——」


高志こしは逃げない。あなたの肋骨が先です」


 正論だった。須勢理毘売すせりびめの正論はいつも鋭い。


 布を巻いてくれた。脇腹をきつく。呼吸が少し苦しいが——骨が動かなくなった。痛みが鈍くなった。


「……ありがたい」


「お礼はいいです」


 ——また、だ。比礼ひれをくれたときと同じ言葉。「お礼はいいです」。


「…………」


「何ですか」


「いや——思い出したことがある。前にも同じことを言われた」


「同じことを何度でも言います。——お礼はいいです。あなたが無事なら」


 夜になった。


 枯野かれのの大地に、三人で座っていた。少名毘古那すくなびこなは枯れ木の枝に。須勢理毘売すせりびめは俺のそばに。


 星が出ていた。枯れた大地にも星は出る。空は枯れない。


「……須勢理毘売すせりびめ


「何ですか」


「ここに来てくれて——」


「お礼はいいと言いました」


「礼じゃない。——嬉しかった」


「…………」


「お前が来てくれて、嬉しかった。それだけ」


 須勢理毘売すせりびめが——黙った。長い沈黙。


 暗い中で——白い肌がかすかに見えた。月明かりで。口元が——動いた。


「……私も」


「何だ」


「私も——嬉しかった。走っている間ずっと——あなたが生きているか分からなかった。振動は一度だけだった。三回叩いた後、何も来なかった」


「……すまない。叩いた後に意識が朦朧として——」


「分かっています。——だから走った」


 分からないから走った。生きているか死んでいるか分からないから。確認するために。二日間。裸足で。


「……足は大丈夫か」


「大丈夫です」


「嘘だな。見せろ」


「…………」


 須勢理毘売すせりびめの足を見た。裸足の足の裏。傷だらけだった。根の堅洲国ねのかたすくにの岩とは違う——地上の石と枯れた大地で、足の裏が切れていた。血が乾いて固まっている。


「……お前の方がひどいじゃないか」


「肋骨のひびと比べたら——」


「比べるな。痛いだろう」


「……少し」


「嘘だな」


「…………だいぶ」


 俺が薬草を取った。須勢理毘売すせりびめが持ってきた薬草の残りを。足の裏に塗った。冷たい足に。


「……何をしているのですか」


「手当てだ。お前がしてくれたのと同じだ」


「私は——」


「黙って受け取れ。お礼はいらない」


「…………」


 少名毘古那すくなびこなが枝の上から言った。


「……お前ら、同じことの返し合いをしているな」


「うるさい。寝ろ」


「寝るが——お前らも寝ろ。明日は歩くんだ」


 少名毘古那すくなびこなが枝の上で丸くなった。小さい体が枝に収まって、すぐに寝息が聞こえた。小さい分、眠るのも速い。


 二人になった。


 枯野かれのの大地で。星の下で。


「……足の裏、まだ痛いか」


「もう大丈夫です」


「嘘だろう」


「嘘です。——でもあなたの手が温かいから。痛みが——薄れてくる」


 温かい手と冷たい足。あの最初の夜と——逆だった。あのときは須勢理毘売すせりびめが俺の体に触れて「温かい」と言った。今は俺が須勢理毘売すせりびめの足に触れている。


 攻守が入れ替わっていた。守る側と守られる側が。


「……大国主おおくにぬし


「何だ」


「二日間走りながら——考えていた」


「何を」


「あなたが死んだら——私はどうするか」


「…………」


「結論が出なかった」


「……出なかったのか」


「出なかった。——根の堅洲国ねのかたすくにで、『別の人を待つ』と言った。あれは嘘だった。あなたが見抜いた」


「ああ」


「死んだら待てない。でも——死なないでくれとも言えない。あなたは国を作っている。国を作れば——こういう怪我をする。止められない」


「…………」


「だから——」


 須勢理毘売すせりびめが——俺の隣に座り直した。冷たい肩が俺の腕に触れた。


「——私も行く。次から。あなたが行く場所に、私も行く」


「……危険だ」


「知っています。——でも、出雲で待って、振動が来て、走って、間に合うか分からない——それが一番怖い。一緒にいれば——少なくとも、間に合う」


 論理的だった。感情ではなく——論理で決めている。しかし論理の根元にあるのは感情だ。怖かった。間に合わないことが。


「……少名毘古那すくなびこなが嫌がるぞ。三人旅は」


「嫌がらせます」


「…………」


「——冗談です」


 冗談。


 須勢理毘売すせりびめが——冗談を言った。


 初めてだった。この女が冗談を言ったのは。地の底育ちで、感情表現が地上と違って、口だけが笑って目は変わらないこの女が——冗談を。


 笑った。


 俺が。声を出して。脇腹が痛かったが——笑った。


 須勢理毘売すせりびめが——俺の笑いを聞いて——口元が動いた。それから——目が動いた。


 笑った。


 二人で。星の下で。枯れた大地の上で。傷だらけで。


 初めて——二人で笑った。


 痛くて、冷たくて、疲れていて——笑っていた

ご拝読いただきありがとうございました!

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