第十八章 枯野
高志の国に向かう道の途中で——大地が変わった。
草が枯れていた。
出雲を出てから、緑の草原が続いていた。言霊式・結縁で繋いだ道が伸びていた。しかしある地点から——草が茶色くなった。その先は灰色になった。さらに先は——何もなかった。土だけ。乾いた、ひび割れた土。
「……何だ、ここは」
「枯れている」
少名毘古那が肩の上で声を低くした。
「大地が——枯れている。水がない。草がない。虫もいない。死んでいる」
死んだ土地。しかし——殺されたのではない。枯れた。内側から力が失われて、干上がった。
風がなかった。出雲では常に風が吹いていた。ここは——空気が動かない。停滞している。
「引き返すか」
「……いや。この先を通らないと高志に行けない」
「迂回できないか」
「できる。しかし——」
「しかし何だ」
「この枯れた場所を放っておいたら、広がる。枯れは——伝染する」
少名毘古那が珍しく深刻な顔をしていた。小さい顔の深刻さは——見慣れないだけに重い。
歩いた。枯れた大地に足を踏み入れた。
土が硬かった。乾ききっている。ひび割れの隙間に指が入るほど深い溝がある。かつて水路だった跡が干上がって、白い塩の結晶が浮いていた。
村の跡があった。家の柱だけが残っている。屋根はない。壁はない。人はいない。
「……人が住んでいたのか」
「住んでいた。しかし——出ていった。あるいは——」
少名毘古那が言い淀んだ。
「あるいは」
「追い出された。」
地面が——震えた。
小さな震え。足の裏に伝わる。遠くで何かが動いている。
大きくなった。震えが。地面のひび割れが広がった。乾いた土の粉が舞い上がった。
前方の地面が——隆起した。
土が持ち上がった。盛り上がった。何かが——地面の下から出てくる。
腕だった。
大地から——腕が伸びてきた。土でできた腕。乾いた灰色の土の腕。指がひび割れている。関節に塩の結晶が光っている。
もう一本。
もう一本。
四本の腕が大地から生えて——体が出てきた。
でかかった。スサノオより大きい。しかしスサノオとは全く違う体だった。骨のような体ではない。土でできていた。乾いた土が人の形を取っている。顔がある。目がある。口がある。しかし全てが土で——ひび割れている。
目だけが——生きていた。黄色い目。枯れた大地の色。乾いた怒りの色。
「——ここは俺の場所だ。」
声は地面から来た。体からではなく——大地そのものが喋っているように聞こえた。
「……お前は」
「枯野。」
名前だった。
「ここの——神か」
「ここの大地だ。ここの水だった。ここの草だった。——全部、俺だった。」
大地の神。この枯れた土地そのものが——神だった。かつてここには水があり、草があり、人がいた。その全てを支えていた力が——枯野。
「なぜ枯れた」
「知らない。——気づいたら枯れていた。水が引いた。草が死んだ。人が出ていった。残ったのは——俺だけだ」
怒りだった。しかし——何に対する怒りか分からない怒り。枯れた理由が分からないまま、ただ怒っている。自分の体が壊れていくことへの怒り。助けを求める代わりに——全てを拒絶する怒り。
「……通してくれ。この先に用がある」
「通さない。——ここに来た者は、ここに留まれ。ここで枯れろ。俺と同じように」
四本の腕が——動いた。
地面から蔓のような——いや、蔓ではない。根だった。枯れた根が地面を走ってきた。俺の足元に。巻きつこうとした。
跳んで避けた。生太刀を抜いた。
「言霊式——」
歌おうとした。結縁で——繋ごうとした。この枯れた大地と、周囲の生きた大地を繋げば——
歌が——出なかった。
声が出ない。空気が乾きすぎている。言霊が——大地に届かない。死んだ大地は歌を受け取らない。結縁は生きているもの同士を繋ぐ技だ。死んだ場所では——機能しない。
「少名毘古那——」
「分かっている。ここでは言霊式が効かない。——剣でやれ」
剣。生太刀。
走った。枯野に向かって。四本の腕を避けて、体に近づいた。
斬った。
生太刀・穿根ノ型。傷口から根が生える——はずだった。
根が——枯れた。
生えかけた根が、傷口から伸びた瞬間に灰色になって崩れた。枯野の体に触れた生命は——吸い取られる。枯れる。生太刀の「生」の力が、枯野の「枯」に喰われた。
「……効かない」
「効くわけがない。——俺は枯れることの神だ。生を与えても——枯れる。」
腕が来た。横から。見えていた。避けようとした——遅かった。乾いた拳が脇腹に入った。
吹き飛んだ。
十メートルほど飛んで、枯れた地面に叩きつけられた。土の粉が舞い上がった。脇腹に激痛。肋骨が——折れていないが、ひびが入っている。
二度死んで組み直した体だ。頑丈にはなっている。しかし——痛い。
「大国主!」
少名毘古那が叫んだ。肩から吹き飛ばされて、近くの枯れ木の枝にぶら下がっている。小さいから軽いが、その分遠くまで飛んだ。
立ち上がった。脇腹を押さえた。血が出ている。二度死んでから——初めての出血。
死んでいない。死んではいない。しかし——傷ついている。生太刀が効かない。言霊式が通じない。力が——足りない。
枯野が来た。四本の腕で大地を叩きながら、ゆっくりと。急いでいない。急ぐ必要がない。ここは枯野の領域だ。どこまで逃げても——枯れた大地の上にいる限り、枯野の力は衰えない。
もう一撃。腕が振り下ろされた。横に転がって避けた。地面が砕けた。乾いた土が飛んだ。
起き上がった。生太刀を構えた。
——考えろ。
力で勝てない。技が通じない。なら——別の方法を。
「少名毘古那! この神は——何で枯れた」
「分からない! しかし——枯れる前は生きていた。生きていたなら——原因がある!」
「原因」
「水だ! 水が止まっている! この土地の——水源が何かに塞がれている! 水を戻せば——」
腕が来た。話している暇がなかった。跳んで避けた。着地の衝撃で脇腹が叫んだ。
水源。水を戻す。しかし——どこだ。この枯れた大地のどこに水源がある。
足の裏に——何かを感じた。
振動。微かな振動。大地の奥から。クシナダヒメの——いや。須勢理毘売が送ってくれた振動とは違う。もっと——弱い。もっと遠い。
水の気配だった。
地面の下に——まだ水がある。枯れた表面の下に。深い場所に。水脈が——塞がれて、出てこられないだけ。
「……ここにいる」
呟いた。
生太刀を——地面に突き立てた。
八十神を追い払ったときと同じ。地面に刃を入れた。しかし今度は祓いの祝詞ではない。
歌った。
言霊式は枯れた大地に届かない——しかし、枯れた大地の下にはまだ水がある。水は生きている。生きているものには——届く。
歌が——地面の下に沈んでいった。
枯野が止まった。
「……何をしている」
「繋いでいる。——お前の下にある水と、お前を」
「やめろ——」
遅かった。
地面が——割れた。
生太刀を突き立てた場所を中心にして、ひび割れが走った。乾いた土が崩れ落ちた。その下から——
水が噴き出した。
濁った水。長く閉じ込められていた水。しかし——水だった。生きている水。
枯野の体に——水がかかった。
乾いた土の体に水が触れた瞬間——枯野が叫んだ。
痛みではなかった。
もっと——深い声。何かを思い出す声。
「——水が……」
枯野の体が——変わった。土の色が灰色から茶色になった。ひび割れの隙間に水が染みて、緑の粒が——芽が——出てきた。小さな芽が、枯野の体から生えてきた。
枯野が——膝をついた。四本の腕が地面に触れた。
「……水が——あった。まだ——あった」
枯れてはいなかった。
水源が塞がれていただけだ。枯野自身が——自分の怒りで水を閉じ込めていた。怒りが大地を締め上げて、水脈を塞いでいた。
俺が繋いだのは——枯野の下の水と、枯野自身だ。切れていた縁を——繋ぎ直した。
枯野が——俺を見た。黄色い目。しかし色が変わっていた。乾いた黄色から——湿った琥珀色に。
「……お前は」
「大国主。——通りすがりだ」
言ってから——違う、と思った。通りすがりは俺の言葉ではない。あれは別の神の言葉だ。
「……通りすがりじゃない。ここにいたから——手を出した」
脇腹が痛かった。血が出ている。肋骨にひびが入っている。立っているのがやっとだった。
枯野が——立ち上がった。体から芽が出ている。水が染みた体が、少しずつ色を取り戻している。
「……殺さないのか。」
「殺す理由がない」
「殴った。お前を。傷つけた。」
「ああ。痛い」
「それでも——殺さない。」
「……お前は枯れていただけだ。水が戻れば——元に戻る」
枯野が——黙った。長い沈黙。
水が地面に広がっていった。枯れた大地に水が染みて、少しずつ——本当に少しずつ——色が変わり始めた。灰色から茶色に。茶色から——
時間はかかるだろう。しかし——戻る。
「……名前を聞いた。大国主。」
「ああ」
「……覚えておく。」
枯野が——地面に沈んでいった。大地に溶けるように。体が土に戻っていく。しかし今度は——乾いた土ではなかった。湿った土だった。
消えた。
枯れた大地の真ん中に、水が流れ始めていた。細い流れ。しかし確かな流れ。
俺は——座り込んだ。立っていられなくなった。
「……大国主」
少名毘古那が枯れ木から降りてきた。小さな体で走ってきた。俺の膝に登った。脇腹の傷を見た。
「……ひどいな。折れてはいないが——ひびが入っている。三本」
「……三本も」
「三本だ。——動くな。薬草が——この辺りにはまだない。出雲まで——」
「動けない」
「分かっている。——須勢理毘売に連絡できるか」
「ここからでは——言霊式が……」
「足の裏だ。お前の女——须勢理毘売は、大地を通じて振動を感じられるのだろう」
「……出雲まで届くか分からない」
「やれ」
地面に手をついた。枯れていた大地——しかし今は水が通い始めている。まだ弱い。しかし——繋がった大地だ。
叩いた。
三回。
——ここにいる。
届くか分からなかった。出雲は遠い。
しかし——俺が繋いだ道がある。言霊式・結縁で作った道が、出雲からここまで伸びている。道は——大地を通じて繋がっている。
届け。
脇腹が痛かった。血が止まらなかった。空が——高かった。
「……初めての怪我か」
「死以外では——初めてだ」
「死んだことはあるのに怪我は初めて。——順番がおかしい」
「……ああ。おかしい」
少名毘古那が笑った。俺も笑った。笑うと脇腹が激痛だった。
笑って、痛くて、血が出ている。
生きている。
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