第十七章 八千矛(やちほこ)の旅
旅を続けた。
八上比売が去って三日後に出発した。須勢理毘売が木俣を抱いて見送った。「行きなさい」と言った。「戻りなさい」とは言わなかった。言わなくても分かっている——ということだろう。たぶん。
少名毘古那が肩の上で、小さく言った。
「……大丈夫か」
「何が」
「お前が」
「……大丈夫だ」
「嘘だな」
「嘘じゃない。——大丈夫ではないが、止まっていられない」
「……それでいい」
珍しく優しかった。この小さな神は普段は辛辣だが、たまに——本当にたまに——優しい。しかし次の瞬間には戻る。
「さあ行くぞ。次の村は半日先だ。道がひどいから直すものが多い」
戻った。
歩いた。出雲を出て、東に。西に。南に。北に。方角を変えながら、少名毘古那の知識と俺の手で、各地の村を回った。
道を直した。橋を架けた。水路を引いた。田の位置を変えた。井戸を掘った。少名毘古那が設計し、俺が力仕事をする。いつもの形だ。
しかし——旅が長くなるにつれて、変わったことがあった。
歌が出るようになった。
最初は意識していなかった。水路を掘りながら、鼻歌が出た。道の石を積みながら、声が出た。知らない歌だった。誰にも教わっていない歌。しかし口から出てくる。
少名毘古那が最初に気づいた。
「お前——歌ってるぞ」
「……ああ。癖だ」
「癖じゃない。よく聞け——草が動いている」
見た。
俺が歌うと——周囲の草が揺れていた。風はない。しかし草が揺れている。歌に合わせて。
「……言霊だ」
少名毘古那が肩の上で目を見開いた。小さい目がさらに小さくなるかと思ったが——逆だった。大きくなった。
「言霊。お前の言葉に——力がある。歌うと、言葉が現実に触れる」
「現実に触れる」
「草が動いた。歌に応えて。お前の声が——大地に届いている」
言霊。言葉が力を持つ。スサノオの嵐が「悲しみ」の力だったように——俺の声には「縁」の力があるのか。
試した。
次の村で。村と村の間に道がなかった。獣道だけ。村人が不便を感じていたが、道を作る人手がなかった。
俺は道の起点に立って——歌った。
知らない歌だった。しかし——道が見えた。歌うと、道が見えた。ここからあそこへ。この村からあの村へ。繋がるべき線が、歌の中に浮かんできた。
歌い終わったとき——地面に、薄い筋が走っていた。
草が寝ていた。俺の歌った方向に。草が、道の形に、寝ていた。その上を歩けば——道になる。
「……言霊式だ」
少名毘古那が名前をつけた。
「お前の言霊は——繋ぐ力だ。縁を結ぶ。場所と場所。人と人。それが道になる」
「言霊式——結縁」
名前が浮かんだ。技の名前が。歌うと、縁が結ばれる。結ばれた縁が、現実の形を取る。
使った。
村を回るたびに使った。この村とあの村を繋ぐ。この田とあの田を繋ぐ。この人とあの人を繋ぐ。歌うたびに——線が増えた。出雲を中心にして、線が蜘蛛の巣のように広がっていった。
噂が広がった。
「歌う神が来る」
「歌うと道ができる」
「大国主が来たら村が豊かになる」
村人が——待つようになった。俺たちが来るのを。道の向こうから走ってきて、「こっちにも来てくれ」と言う。「うちの村も繋いでくれ」と言う。
嬉しかった。
待っていてくれる人がいる。迎えてくれる人がいる。荷物持ちのときは——誰も待っていなかった。待っていたのは八十神の罵声だけだった。
ある村で、老人が言った。
「大国主さま。あなたは——矛のような方だ」
「矛」
「矛は——突くものだ。道を突き開く。水路を突き開く。村と村の壁を突き開く。あなたが来ると——壁が開いて、繋がる」
「……矛か」
「八千の矛を持っているようなものだ。行く先々で——壁を開いていく」
八千矛。
少名毘古那が肩の上で笑った。
「いい名前だ。八千矛神。大国主の別名——いや、もう一つの名前だ」
「名前がまた増えるのか」
「増えるのはいいことだ。名前が多い神は——多くの顔を持つ。多くの人に、違う顔を見せられる」
大穴牟遅。荷物持ちの名前。
大国主。国を持つ者の名前。
八千矛神。道を開く者の名前。
三つ目の名前が生まれた。
旅は——楽しかった。
認めたくないが、楽しかった。八上比売を失った痛みはまだある。木俣を置いてきた罪悪感もある。須勢理毘売の目の奥の藍色が時折よぎる。
しかし——旅は楽しかった。
新しい村に着くたびに、知らない土がある。知らない草がある。知らない人がいる。少名毘古那が「この虫は食える」と言い、俺が「食べたくない」と返し、村人が笑う。笑い声が道に残る。それが——国の音だった。
国とは道だ。国とは水路だ。国とは——笑い声だ。そう思い始めていた。
「大国主」
「何だ」
「次は——高志の国だ」
「高志」
「北だ。遠い。しかし——翡翠が出る。豊かな土地だ」
「翡翠」
「繋いでおく価値がある。——ただし」
「ただし何だ」
「高志には——女神がいる。沼河比売という。翡翠の女神だ」
「…………」
「お前の顔がそうなると思った」
「どうなっている」
「色男の顔だ」
「……俺は何もしていない。名前を聞いただけだ」
「名前を聞いただけでその顔になるのが色男だと言っている」
少名毘古那が呆れた顔をした。小さい顔で。呆れが凝縮されていて密度が高い。
「忠告しておく。——また女か。须勢理毘売が怖いぞ」
「行くのは国作りのためだ」
「国作りのためだけか」
「…………国作りのためだ」
「三度目は嘘に聞こえるからやめておけ」
高志の国。北の国。翡翠の女神。
旅は続く。
道はまだ途中だ。国はまだ半分もできていない。
しかし——足は北を向いていた。
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