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第十六章 八上比売(やがみひめ)が去った

 八上比売やがみひめが出雲に来てくれた。


 因幡いなばの旅の帰り、一緒に来てくれた。木俣このまたを抱いて。少名毘古那すくなびこなが俺の肩で「赤ん坊は泣くな。うるさい」と言い、八上比売やがみひめが「赤ん坊は泣くものです」と返し、少名毘古那すくなびこなが「俺は泣かなかった」と言い、八上比売やがみひめが「小さすぎて泣き声が聞こえなかったのでは」と返した。


 俺は二人の掛け合いを聞きながら歩いた。木俣このまたが俺の腕の中で眠っていた。軽い。温かい。


 出雲が近づいてきた。


 嫌な予感がした。


 理由は分かっていた。出雲には須勢理毘売すせりびめがいる。


 八上比売やがみひめには——須勢理毘売すせりびめのことを話していなかった。


 話すべきだった。話す機会は何度もあった。因幡いなばの夜にも。旅の途中でも。しかし——言えなかった。嘘をつかない俺が、言わないことで嘘をつき続けていた。言わないことは嘘ではない、と自分に言い聞かせていた。しかし——嘘だ。言うべきことを言わないのは、嘘と同じだ。


 出雲の村に入った。


 清い川が光っていた。子供たちが走ってきた。


大国主おおくにぬしさま帰ってきた!」


「おっきい人帰ってきた!」


「赤ちゃんだ!」


 子供たちが木俣このまたを覗き込んだ。八上比売やがみひめが笑った。温かい笑い。


 ——館の前に、白い肌が見えた。


 須勢理毘売すせりびめが立っていた。


 館の入口に。黒い神衣を纏って。太陽の下で——あの白い肌が浮いていた。


 俺を見ていた。


 それから——八上比売やがみひめを見た。


 それから——八上比売やがみひめの腕の中の子供を見た。


 須勢理毘売すせりびめの目が——変わらなかった。


 変わらないことが、怖かった。


 怒りならまだいい。泣くならまだいい。しかし——何も変わらなかった。藍色の目が、同じ温度で、同じ角度で、八上比売やがみひめと子供を見ていた。


 静かだった。


 須勢理毘売すせりびめが怒るとき——静かになるほど危険だと、俺は知っている。


「……お帰りなさい」


 声も変わらなかった。いつもの声。冷たく、澄んでいて、感情が読めない声。


「ああ。帰った」


「……そちらの方は」


八上比売やがみひめ因幡いなばの——」


 何と言えばいい。


 妻か。恋人か。子供の母か。


「——俺が因幡いなばで出会った人だ」


 逃げた。曖昧な言い方で逃げた。嘘はつかなかった。しかし——全部を言わなかった。


 八上比売やがみひめが——須勢理毘売すせりびめを見ていた。


 目が変わっていた。八上比売やがみひめの目が。真っすぐな目が——揺れていた。白い肌の女を見て。暗闇育ちの姫を見て。


「……あなたが」


 八上比売やがみひめが言った。


須勢理毘売すせりびめさま——ですね」


「はい。」


「…………」


 八上比売やがみひめは——分かった。


 一目で分かった。この女が何者か。大国主おおくにぬしにとって何か。白い肌と藍色の目。地の底から連れてきた女。正妻。


 見定める目が——戻っていた。八上比売やがみひめの目に。あの、因幡いなばの館で八十人の兄を見定めた目が。しかし今度は——見定めた結果が、自分にとって不利だった。


 夕飯を共にした。三人で——いや、少名毘古那すくなびこなを入れて四人で。


 会話はほとんどなかった。


 須勢理毘売すせりびめが汁物を出した。地上の料理を覚え始めていた。味は——薄かった。地の底育ちは味覚の基準が違う。しかし八上比売やがみひめは全部食べた。何も言わずに。


 木俣このまたが泣いた。八上比売やがみひめが抱いた。須勢理毘売すせりびめが——子供を見ていた。藍色の目で。


 何を思っていたのか——読めなかった。二度死んだ目でも、須勢理毘売すせりびめの沈黙は読めない。


 少名毘古那すくなびこなが梁の上で小さく言った。


「……最悪の空気だな」


 聞こえないように言ったつもりだろうが——聞こえた。全員に。


 夜。


 俺は一人で川辺にいた。須勢理毘売すせりびめは館の中。八上比売やがみひめは別の部屋。


 間に合わなかった。話すのが。


 八上比売やがみひめ須勢理毘売すせりびめのことを。須勢理毘売すせりびめ八上比売やがみひめのことを。両方に、俺の口から言うべきだった。それを——言わないまま、会わせてしまった。


 最悪だ。


 少名毘古那すくなびこなが言った「最悪の空気」は——俺が作った。


 翌朝。


 八上比売やがみひめがいなかった。


 部屋にいなかった。布団は畳んであった。荷物は——ない。因幡いなばから持ってきた袋がない。


 木俣このまたが——外にいた。


 館の裏手。大きな栗の木の根元。木の股に——赤い布に包まれた子供が挟まれていた。眠っている。泣いていない。


 木俣このまただ。


 八上比売やがみひめが——子供を木の股に挟んで、去った。


 走った。


 村の出口に向かって走った。因幡いなばに向かう道を。


 いなかった。


 街道を見渡しても——赤い衣は見えなかった。朝のうちに出たのだろう。走って。俺が起きる前に。


 足が止まった。


 追えなかった。


 追う資格がなかった。


 言うべきことを言わなかった。二人の女を愛していると——言うべきだった。どちらも本当だと——言うべきだった。しかし言わなかった。言わないまま会わせた。八上比売やがみひめは——見定める女だ。一目で全部分かった。分かったから——去った。


 須勢理毘売すせりびめが怖かったのではない。


 俺が黙っていたことが——怖かったのだ。嘘をつかない男が、言わないことで嘘をついた。それが分かったから——信じられなくなったのだ。


 道の上に立っていた。追えないまま。


 少名毘古那すくなびこなが肩に乗った。いつの間に来たのか。


「……行ったか」


「ああ」


「追わないのか」


「……追えない」


「追えないのか。追わないのか」


「…………どちらもだ」


 少名毘古那すくなびこなが黙った。珍しく——何も言わなかった。忠告も皮肉も言わなかった。


 館に戻った。


 木俣このまたを木の股から抱き上げた。眠っている。温かい。八上比売やがみひめの温かさが、まだ布に残っていた。


 須勢理毘売すせりびめが——館の入口に立っていた。


 木俣このまたを抱いた俺を見ていた。


「……行ったのですね」


「ああ」


「…………」


「……お前が怖かったのだと思う」


「私が」


「お前が——というより、俺が。俺が何も言わなかったことが」


 須勢理毘売すせりびめの目が——少しだけ動いた。藍色の光がわずかに揺れた。


「……知っていました」


「何を」


「あなたに——別の女がいること。因幡いなばに。旅に出る前から」


「……なぜ」


「あなたの手が——知っていた。私以外の誰かを触った手は——温度が違う」


 見抜かれていた。最初から。須勢理毘売すせりびめは暗闇の中で触覚だけで世界を読む女だ。手の温度で——俺が別の女に触れたことを読んでいた。


「……なぜ何も言わなかった」


「言えば——あなたが困る。あなたは嘘をつかない人だから。聞かれたら答えるしかない。答えれば——壊れる。だから聞かなかった」


 須勢理毘売すせりびめが聞かなかった。俺が言わなかった。


 二人とも——言わないことで、何かを守ろうとした。しかし守れなかった。八上比売やがみひめが去った。子供を残して。


「……その子は」


木俣このまた。俺の——子だ」


「…………」


 長い沈黙。


「……育てます」


「…………何だ?」


「その子を。——私が育てます。あなたの子なら」


 須勢理毘売すせりびめが手を伸ばした。冷たい手。木俣このまたに触れた。温かい子供の肌に、冷たい指が触れた。


 木俣このまたが目を覚ました。須勢理毘売すせりびめの顔を見た。


 泣かなかった。


 俺に似ている、と八上比売やがみひめが言った。穏やかな目だと。その穏やかな目が——須勢理毘売すせりびめを見て、泣かなかった。


 須勢理毘売すせりびめの口元が——動いた。笑ったのか。笑わなかったのか。分からなかった。


「……いいのか」


「いい。——この子は何も悪くない」


 須勢理毘売すせりびめ木俣このまたを受け取った。抱き方がぎこちなかった。子供を抱いたことがないからだ。冷たい腕に、温かい子供。温度が混ざっていく。


「……重い」


「ああ。命は重い」


「……嫌いではない。この重さ」


 嫌いではない。須勢理毘売すせりびめの最大限の肯定だった。


 俺は二人を見ていた。白い肌の女と、茶色い肌の子供。光と闇の温度が混ざっている。


 八上比売やがみひめが去った。


 追えなかった。追わなかった。


 代わりに——残されたものを抱いている女がいる。


 それで救われたのかと聞かれたら——救われていない。八上比売やがみひめがいないことは、何によっても埋まらない。「選んでよかった」と言ってくれた女が、去った。俺のせいで。


 しかし——立ち止まることはできなかった。


 国を作っている途中だ。道は半分しか繋がっていない。水路は三分の一しかできていない。村はまだ村のままだ。国になっていない。


 止まれない。


 失っても——止まれない。


 これが国を作るということなのかもしれない。何かを失いながら——それでも繋ぎ続けること。


 清い川が、今日も光っていた。

ご拝読いただきありがとうございました!

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