第十五章 八上比売(やがみひめ)との夜
因幡に着いたのは、旅に出て五日目だった。
少名毘古那と二人で各地の村を巡りながら歩いた。道を直し、水路の位置を確認し、薬草の生える場所を記録した。少名毘古那の知識は尽きることがなく、俺の体力も——二度死んで組み直された体は——尽きることがなかった。
因幡の手前で、少名毘古那が肩の上から言った。
「因幡か。——お前の女がいる場所だ」
「女という言い方はやめろ」
「では何と言う。妻か。いや——妻は出雲に置いてきただろう」
「…………」
「面倒な男だな。二人いるのか」
「二人とも——大切だ」
「大切だからこそ面倒なんだ。一人に絞れ」
「……お前に恋愛の助言を求めた覚えはない」
「助言じゃない。忠告だ」
少名毘古那は正しかった。しかし正しいことと実行できることは別だった。
因幡の館が見えた。
——待っていた。
八上比売が、館の前に立っていた。赤い衣。短い黒髪。明るい茶色の肌。
変わっていなかった。あの夜から——何も変わっていなかった。背筋が伸びていて、目が真っすぐで、見定めるのではなく——見つけた目で、俺を見ていた。
「……戻ってきたのですね」
「ああ。戻ってきた」
「大国主、と聞きました。名前が変わったと」
「ああ」
「いい名前です」
微笑んだ。須勢理毘売の口だけの笑みとは違う。八上比売は——全部で笑う。目も口も頬も。太陽の下で輝く笑い。
「……肩の上にいるのは」
「少名毘古那。国作りの相棒だ」
「……小さい」
「よく言われる」
少名毘古那が俺の肩から八上比売の手のひらに飛び移った。勝手に。
「いい手だ。温かい」
「……ありがとう?」
「お前の女は温かいな、大国主」
「だから女と——」
「行ってこい。俺は海の方を見てくる。薬草がある」
少名毘古那が八上比売の手から飛び降りて、草の中に消えた。気を遣ったのか。いや——あの神が気を遣うとは思えない。本当に薬草を探しに行ったのだろう。
二人になった。
館の前で。昼の光の中で。
「……中に入りますか」
「ああ」
館に入った。変わっていなかった。あの夜、八上比売が来た小屋の匂い。土と草の匂い。因幡の匂い。
「……元気だったか」
「元気でした。——待っていました」
「…………」
「待つのは嫌いではないのです。でも——来てくれると、嬉しい」
正直な女だった。嘘をつかない。つく必要がない。感じたことをそのまま言う。須勢理毘売が「恥」の概念がない女なら、八上比売は「隠す」概念がない女だった。
「……あなたに見せたいものがある」
「何だ」
八上比売が——奥の部屋に入った。しばらくして戻ってきた。
腕に——小さなものを抱えていた。
布に包まれた。小さい。丸い。
「…………」
「あの夜の——後に」
子供だった。
小さな子供。まだ——何ヶ月も経っていない。眠っている。小さな手が布から出ていた。
俺の子だ。
「……名前は」
「木俣。木の股に挟んで育てたから」
「木の股に——なぜ」
「一人で育てたから。手が足りないとき——木の股に挟んで、寝かせた」
一人で。俺がいない間。地の底に逃げている間。名前を受け取っている間。この女は一人で——子供を産んで、育てていた。
「…………」
何か言うべきだった。礼か。謝罪か。どちらも違う気がした。
「——抱きますか」
「……いいのか」
「あなたの子です」
受け取った。軽かった。荷物より——ずっと軽かった。温かかった。八上比売の温かさと同じ温度の、小さな命。
目を開けた。子供が。黒い目が俺を見ていた。
「…………」
泣かなかった。俺の顔を見ても泣かなかった。
「泣かないな」
「あなたに似ています。——穏やかな目」
穏やかかどうかは分からない。しかし——この小さな命を抱いている間、頭の中が静かだった。二度死んだ記憶も、八十神の怒りも、根の堅洲国の暗闇も、全部——遠くなった。
子供を返した。八上比売の腕に。
「……強くなったのですね」
「何が」
「手が。前に触れたときより——太くなった。硬くなった」
「……道を直していたから」
「道を」
「国を作っている」
「…………あなたらしい」
八上比売が笑った。あの笑い。全部で笑う笑い。
夜。
子供は老婆に預けた。八上比売が頼んだ。「今夜だけ」と。老婆は何も言わずに子供を受け取った。全部分かっている顔だった。
あの小屋。あの夜と同じ小屋。
しかし今度は——月が出ていた。あの夜は暗かった。今夜は月明かりが窓から入っている。八上比売の顔が見えた。明るい茶色の肌が月の光を受けて、柔らかく光っていた。
「……見えますか」
「見える」
「前の夜は——暗かった。顔が見えなかった」
「ああ」
「今夜は——見ていてほしい」
須勢理毘売は「目を閉じなくていい。どうせ見えない」と言った。八上比売は「見ていてほしい」と言う。正反対だ。暗闇の女と光の女。どちらも——嘘がない。
八上比売が赤い衣の帯を解いた。衣が肩から落ちた。
月明かりの中で——明るい茶色の肌が露わになった。肩。鎖骨。胸。須勢理毘売の白さとは全く違う温かさがそこにあった。太陽を浴びて育った肌。子供を産んで変わった体。以前より少しだけ丸みを帯びた腰。
「……変わりましたか。前と」
「少し」
「子供を産んだから」
「ああ。——きれいだ」
「お世辞は要りません」
「お世辞ではない」
「…………」
八上比売が——俺に近づいた。月明かりの中で。前回は暗闇の中だった。今回は光の中。見えている。全部見えている。
触れた。
温かかった。須勢理毘売が冷たかった分だけ——八上比売の温かさが際立った。肌の温度が全然違う。触れた場所から熱が伝わってくる。須勢理毘売のときは俺の温度が移った。八上比売は——向こうから温度が来る。
胸に触れた。子供を育てた胸は前より柔らかく、前より重かった。八上比売が短く息を吐いた。
「……手が——前より優しくなった」
「……そうか」
「前は不器用だった。今は——少し慣れた」
「……別の女で練習したとは思わないでくれ」
「思いません。道を直す手が——優しくなっただけでしょう」
信じてくれているのか。本当にそう思っているのか。どちらか分からなかったが——八上比売の声に嘘がなかった。
腰を抱いた。引き寄せた。八上比売が俺の首に腕を回した。月明かりの中で——二つの体が重なった。
暗闇の中の須勢理毘売は、全てが触覚だった。光の中の八上比売は、全てが見える。表情が見える。目が合う。息遣いが見える。体の動きが見える。
八上比売は目を閉じなかった。俺を見ていた。ずっと。あの真っすぐな目で。見定める目ではなく——見つめる目で。
「……選んでよかった」
途中で——そう言った。息の間に。
「あなたを選んでよかった」
選んでくれた女。八十人の兄を全員断って、荷物持ちの末弟を選んでくれた女。その女が「選んでよかった」と言った。
嬉しかった。
単純に。混じりけなく。嬉しかった。
朝。
目を開けたとき、八上比売が隣にいた。今度は——先に起きていなかった。まだ眠っていた。子供を預けた夜は、久しぶりにゆっくり眠れたのだろう。明るい茶色の肌が朝日に照らされて、前回の月明かりとは違う色で光っていた。
寝顔を見ていた。
穏やかだった。この顔を見ていると——何も考えなくていい気がした。複雑なことが全部消えて、「ここにいたから」だけで十分になる。
しかし——俺は知っていた。
出雲に須勢理毘売がいる。待っている。冷たい体で、藍色の目で、待っている。
二人の女を愛している。
どちらも本当だ。どちらも嘘ではない。しかし——二人とも本当であることが、いずれ何かを壊す。そのことだけは分かっていた。
八上比売が目を開けた。
「……見ていたのですか」
「ああ」
「……前回と逆ですね。前は私が先に起きた」
「ああ」
「……いつまでいられますか」
「…………」
「いいのです。聞くべきではなかった」
八上比売が微笑んだ。目も口も頬も笑っている。しかしその奥に——分かっていた。分かっている笑い。この幸福が長くは続かないことを。
聞くべきではなかった——のは、答えを知っているからだ。
因幡の朝が明るかった。太陽が強かった。清い空だった。
幸福だった。
短い幸福だった。




