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第十三章 大国主

 出雲に帰った。


 清い川に沿って歩いて、村が見えてきた。変わっていなかった。家がある。畑がある。人がいる。何も変わっていない——はずだった。


 しかし空気が違った。


 村の手前で——人が逃げてきた。女が二人、子供を抱えて走っていた。俺たちを見て立ち止まった。見たことのない男と——白い肌の女。怯えた目。


「何があった」


八十神やそがみが——まだいる。暴れている。田を荒らして、蔵を壊して——」


 八十神やそがみ。兄たち。俺を二度殺した八十人の兄が、まだ出雲にいた。


 因幡いなばから戻って、出雲で暴れている。八上比売やがみひめに全員断られた怒りが——村に向いている。


「……いつからだ」


「ずっと。あなたが——消えてからずっと」


 俺が根の堅洲国ねのかたすくににいた間、ずっと。兄たちは出雲を荒らしていた。


 走った。村に向かって。


 須勢理毘売すせりびめが追いかけてきた。裸足で。土の感触にまだ慣れていない足で。


「——戦うのですか」


「追い払う」


「戦ったことがあるのですか」


「ない」


「…………」


「ないが——やる」


 村の中央に着いた。


 壊れていた。蔵の壁が崩されていた。畑が踏み荒らされていた。井戸の縄が切られていた。家の屋根に穴が空いていた。


 八十神やそがみは——村の広場にいた。


 八十人。全員いた。酒を飲んで、村人の蓄えを食い散らかして、笑っていた。俺が死んだと思っている。二度殺した末弟は、もう戻ってこないと。


 一人の兄が俺に気づいた。


 酒の器が落ちた。


「…………お前」


「ああ。俺だ」


「死んだはずだ——二度——」


「二度死んだ。二度蘇った。そして——名前が変わった」


 腰の生太刀いくたちに手をかけた。


 初めてだった。


 剣を抜くのは初めてだった。荷物持ちは剣を持たない。荷物を持つ。しかし今、俺の手にあるのは荷物ではない。


 生太刀いくたちを抜いた。


 赤い光が走った。刃が——脈打っていた。生きている刃。赤い光が刀身を走り、俺の手に流れ込んできた。温かかった。あの夜、壁から取ったときと同じ温かさ。


 八十神やそがみが——後ずさった。


 剣の赤い光に——怯えている。八十人が、一本の剣に怯えている。


「……何だその剣は」


生太刀いくたち。スサノオから受け取った」


「スサノオ——」


「嵐の神から。根の堅洲国ねのかたすくにで。試練を乗り越えて——受け取った」


 兄たちの顔が変わった。怯えから——恐怖に。スサノオの名前を聞いて、嵐の神の名を聞いて、体が強張った。


 一人の兄が——走った。逃げようとした。


 逃がさない。


 生太刀いくたちを振った。


 初めての一太刀。兄の肩を浅く斬った。血は——ほとんど出なかった。しかし傷口から——


 根が生えた。


 傷の断面から、植物の根が噴き出した。白い根。細い根が枝分かれして広がり、兄の腕を覆い、肩を覆い、体を地面に引きずり下ろした。根が地面に潜り、兄の体を大地に縛りつけた。


 生太刀いくたち穿根せんこんノ型。


 名前が——浮かんだ。生太刀いくたちの記憶の中から。この剣が持っている技の名前が、振った瞬間に俺の中に流れ込んできた。


 兄が叫んだ。根に縛られて動けない。もがいている。しかし根は強い。大地から力をもらっている。


 八十神やそがみが——一斉に動いた。


 逃げる者。向かってくる者。散る者。八十人がばらばらに動いた。


 向かってきた三人を斬った。同じように。浅く。傷口から根が生えて、地面に縛られた。


 逃げる者を——追わなかった。追う必要がなかった。


 生太刀いくたちを地面に突き立てた。


 歌が浮かんだ。


 歌うつもりはなかった。しかし口が開いた。生太刀いくたちの柄を握ったまま、声が出た。知らない歌だった。俺が作った歌ではない。生太刀いくたちの中にあった歌だ。あるいは——この大地の中にあった歌だ。


「——大祓おおはらえ清滌せいじょう祝詞のりと


 光が広がった。


 生太刀いくたちを中心に、白い光が円を描いて広がった。祓いの光。穢れを洗い流す光。八十神やそがみの怒りも、暴力も、嫉妬も——穢れだ。その穢れを、光が押し出していく。


 八十神やそがみが——押された。


 光に触れた兄たちが、体を弾かれるように後ずさった。走り出した。根に縛られた者たちは——根がほどけた。しかし立ち上がった途端に光に押されて、走り出した。


 山に向かって。川に向かって。出雲の外に向かって。八十人の兄が、白い光に追われて——散っていった。


 光が消えた。


 村が——静かになった。


 壊れた蔵。荒らされた畑。穴の空いた屋根。しかし——八十神やそがみはいなくなった。


 生太刀いくたちを地面から抜いた。赤い光が静かに脈打っている。力を使い終わった剣が、呼吸を整えるように光っている。


 鞘に納めた。


 振り返った。


 村人が——出てきた。家の陰から。蔵の裏から。畑の向こうから。


 老人がいた。


 あの老人。川辺にいた老人。「嵐の神が残した川だ」と教えてくれた老人。


 老人が俺を見ていた。長い間。


「……あんた」


「ああ。荷物持ちだ。戻ってきた」


「荷物持ちじゃない。——もう荷物持ちには見えない」


「…………」


「嵐の神と——同じ目をするようになった」


 同じ目。スサノオと同じ目。


 清い川を残した神と。八岐大蛇を鎮めた神と。同じ目。


 なぜ老人がスサノオの目を知っているのか——聞かなかった。聞くべきときが来れば、向こうから話してくれるだろう。


「……名前が変わった」


「何と」


大国主おおくにぬし


 老人が——笑った。涙ぐみながら。


大国主おおくにぬし。——いい名前だ」


 子供が走ってきた。老人の後ろから。


「おっきい人が帰ってきた!」


「おっきい人じゃない。大国主おおくにぬしだ。——この国の主だ」


 子供がきょとんとしていた。名前より「おっきい人」の方がしっくりくるらしい。


 須勢理毘売すせりびめが——村の入口に立っていた。


 遠くから見ていた。白い肌が太陽の下で浮いている。子供が須勢理毘売すせりびめを見つけた。


「……白い。お化け?」


「お化けじゃない」


「じゃあ誰?」


「俺の——」


 何と言えばいいか分からなかった。妻か。契りを交わした相手か。地の底の姫か。


「……一緒にいる人だ」


 子供が走っていった。須勢理毘売すせりびめに向かって。


 須勢理毘売すせりびめが——子供を見ていた。近づいてくる子供を。小さな人間を。初めて見る、地上の子供を。


 子供が須勢理毘売すせりびめの前で止まった。


「つめたい!」


 手に触れたらしい。須勢理毘売すせりびめの冷たい手に。


「……冷たいですか」


「うん。でもきれい」


「…………」


 須勢理毘売すせりびめの口元が——動いた。


 笑った。目も笑った。川辺で見せた、あの笑い。口と目が同時に動く笑い。


 二度目だった。


 一度目は俺に向けた。二度目は——子供に向けた。笑いの対象が広がっている。一人から二人に。これから——もっと増えるのだろう。


 この場所で。この出雲で。

 壊れた蔵を直した。荒らされた畑を耕し直した。屋根の穴を塞いだ。井戸の縄を結び直した。


 俺がやった。


 荷物持ちが得意なことは、結局——作業だ。重いものを持つ。壊れたものを直す。足りないものを補う。神の力ではなく人の手でやれることを、やる。


 須勢理毘売すせりびめは土に触れていた。畑の土。冷たくない土。「これで何が育つのですか」と聞いた。老婆が教えた。「米です。粟です。芋です」。須勢理毘売すせりびめは全部初めて聞く名前だった。


 三日が経った。


 朝。清い川のそばで顔を洗っていると——海の方から、何かが来た。


 小さかった。


 川面に浮かんでいるものがあった。小さな船。いや——船ではない。ガガイモの実だった。ガガイモの実の殻を船にして、その上に——


 何かが乗っていた。


 小さかった。手のひらに乗るほど小さい。虫かと思った。しかし虫ではなかった。人の形をしていた。小さな神。


 ガガイモの船が川岸に着いた。小さな神が——降りた。岸に立った。手のひらサイズの神が、岩の上に立って、俺を見上げた。


「…………」


「…………」


 沈黙。


「——お前、でかいな」


 小さな神が言った。声は普通の大きさだった。体は小さいのに声は大きい。


「……お前が小さい」


「小さくない。効率がいいだけだ」


「…………」


少名毘古那すくなびこな。医術と知恵の神だ。お前は」


大国主おおくにぬし


大国主おおくにぬし。——でかい名前だ。体に合っている」


「……来たのか。いきなり」


「いきなりじゃない。ずっと見ていた。ガガイモの上から。お前が白兎を助けたときから。面白い奴だと思っていた」


「…………」


「国を作るんだろう」


「……作る。たぶん」


「たぶんじゃ困る。作るか作らないか」


「作る」


「よし」


 少名毘古那すくなびこなが——笑った。小さな体で、大きな笑顔で。


「——では始めるか。国作りを」


 須勢理毘売すせりびめが後ろから来た。少名毘古那すくなびこなを見た。


「……小さい。虫かと思った」


「虫じゃない」


「……白い。お化けかと思った」


「お化けじゃない」


 二人が同時に言った。同時に俺を見た。


「……仲良くしてくれ」


 二人が同時に「無理だと思う」という顔をした。


 ——先が思いやられた。


 しかし——悪くなかった。


 出雲の清い川が光っていた。朝日を受けて。スサノオが残した川が。


 国作りが——始まる。

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