第十二章 光
須勢理毘売は、しばらく動かなかった。
坂の上で。太陽の下で。涙を流しながら、空を見ていた。
俺は隣に立っていた。何も言わなかった。この瞬間に言葉を挟む権利は誰にもない。
スサノオの背中は、もう見えなかった。坂の下に消えていった。地の底に戻っていった。娘に光を見せて——名前を渡して——去った。
風が吹いた。
須勢理毘売の黒髪が揺れた。
「…………」
手を伸ばしていた。風に向かって。何もない空間に向かって手を伸ばしていた。
「……何をしている」
「……風に触っている」
「風に」
「父の嵐とは——違う風。匂いがする。草と——土の匂い。根の堅洲国の風は——父の嵐だけだった。匂いがなかった。これは——生きている風ですか」
「ああ。地上の風だ」
「……温かい。父の嵐より——ずっと温かい」
風に触れて「温かい」と言った。三度目だ。最初の夜に俺の手に触れたとき。俺の肌に触れたとき。そして今——風に触れたとき。この女にとって、地上は「温かいもの」でできている。
草を見ていた。
足元の草。緑色の——しかし地の底の生物発光の緑とは全く違う緑。太陽を受けて光る草。須勢理毘売がしゃがんで、草に触った。指先で葉をなぞった。
「……硬い」
「硬いか?」
「根の堅洲国の草は——もっと柔らかかった。湿っていたから。これは——乾いている」
「地上の草は太陽で乾く」
「乾いているのに——生きている」
当たり前のことだ。地上の草は乾いていて生きている。しかし須勢理毘売にとっては当たり前ではない。湿っていることが生きている証だった場所で育った。乾いた草は死んだ草だった。ここでは——乾いているのに生きている。
立ち上がった。空を見上げた。
「……明るい」
「ああ」
「目が——痛い」
「慣れる」
「…………」
長い沈黙。
「……慣れたくない」
「…………何だ?」
「慣れたくない。——この明るさに。慣れてしまったら——初めて見たときの気持ちを忘れる。忘れたくない」
慣れたくない。
この言葉の重さを、俺はこのとき完全には理解できなかった。後から——ずっと後から、この言葉の意味が分かった。
須勢理毘売は、母を知らない。
母がどこにいたかも知らない。しかし——母が地上にいたことだけは、どこかで感じ取っていたのかもしれない。地上に憧れる理由が、ただの好奇心ではなかったのかもしれない。
しかしこのときの俺は——そこまで読めなかった。ただ、「慣れたくない」という言葉の温度だけを覚えた。
須勢理毘売が——俺を見た。
藍色の目。太陽の下で見ると——藍色がもっと深かった。暗闇の中で見えていた色とは違う。光を受けて、藍色の中に紫が混ざっている。
「……大国主」
初めて——その名前で呼ばれた。
須勢理毘売が、初めて俺を「大国主」と呼んだ。父が坂の下から叫んだ名前を。
「……今のは」
「あなたの名前でしょう。父がつけた」
「ああ。しかし——」
「大穴牟遅より——いい名前」
「…………」
「大穴牟遅は荷物持ちの名前だった。大国主は——国を持つ者の名前」
「……国を持つ。大きく出たな」
「父がそう叫んだ。『葦原中国を治めよ』と」
「聞こえていたのか」
「聞こえていた。泣きながら」
泣きながら聞いていた。父が名前を叫ぶのを。光の中で。涙の中で。
「……治められるのか。俺に」
「知らない。でも——名前を受け取ったなら、やるしかない」
正論だった。須勢理毘売の正論はいつも鋭い。
歩き出した。坂を降りた。出雲に向かって。
須勢理毘売が——裸足で歩いていた。岩の上は慣れているが、土の上は慣れていない。足の裏が柔らかい土に沈むたびに、少しだけ驚いた顔をした。
「……柔らかい」
「土だ」
「根の堅洲国の地面は全部岩だった。こんなに柔らかい地面は——初めて」
「ここは出雲だ。土が豊かな土地だ」
「……出雲」
その名前を噛みしめるように——繰り返した。
川が見えてきた。
あの川だ。清い川。スサノオが残した川。老人がいた川。
須勢理毘売が——川の前で止まった。
「…………」
何も言わなかった。しかし——目が変わっていた。川を見る目が。さっきまでの「初めて見るもの」への驚きとは違う目。もっと——深い場所から見ている目。
何かを感じ取ったのだろうか。この川に——何かが残っていることを。
聞かなかった。聞くべきときではなかった。
「……きれい」
「ああ。この川は——特別だ」
「誰かが——守った川ですか」
「……ああ。嵐の神が。お前の——父が」
須勢理毘売が——また泣いた。
二度目の涙。今度は静かだった。目から流れるだけの涙。声はない。口元も動かない。ただ——涙だけが、頬を伝って、顎から落ちて、川辺の土に染みた。
「……父は——ここにいたんですね」
「ああ。ずっと昔に。ここで川を清くした」
「…………」
須勢理毘売が川辺にしゃがんだ。水に手を入れた。
「……冷たい」
「川の水は冷たい」
「でも——温かいのとは違う冷たさ。根の堅洲国の冷たさじゃない。生きている冷たさ」
生きている冷たさ。地の底の死んだ冷たさとは違う。水が流れていて、魚がいて、草が揺れていて——冷たいけど生きている。
須勢理毘売が水から手を上げた。濡れた手で——自分の頬の涙を拭った。川の水で涙を拭った。
「……ここで——暮らすのですか」
「ここから始める。国を」
「国」
「治めろと言われた。なら——治める」
「……あなたは」
「何だ」
「言われたことをやる人ですね。白兎に——ここにいたからと言った。八上比売に——選ばれた。父に——治めろと言われた。全部——外から来ている」
「……そうかもしれない」
「でも——外から来たものを、自分のものにしてしまう。それが——あなたの力だと思う」
力。荷物持ちの力。力がないことが力。縁で乗り越えること。外から来たものを受け取って、自分の足で立つこと。
「……慣れたくない」
須勢理毘売がまた言った。「慣れたくない」。三度目だった。
「この明るさにも。この川にも。あなたの温かさにも。慣れたくない。全部——初めてのまま、覚えていたい」
口元が——動いた。
笑った。
いつもの口だけの笑いではなかった。
目が——笑っていた。
藍色の目が。太陽の光を受けて。涙の跡を残して。初めて——口と目が同時に笑った。
地の底で生まれた笑い方が変わった瞬間だった。
俺は——その顔を見ていた。
見ていたことだけを覚えている。何を思ったかは覚えていない。思考が止まっていた。二度死んでも止まらなかった思考が、この笑顔で——止まった。
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