第十一章 天沼琴
走った。
根の堅洲国の通路を。須勢理毘売が先を走り、俺が後を追った。暗い通路。生物発光の緑が足元を照らしている。天沼琴を脇に抱え、生太刀を腰に、生弓矢を背に。
走りにくかった。琴が重い。太刀と弓矢が揺れる。荷物持ちの経験が役に立つとは思わなかったが——重い物を抱えて走ることには慣れていた。
須勢理毘売は速かった。裸足で岩の上を走っている。暗闇が庭だ。この女は暗い通路で育った。足の裏が岩を知っている。どこに出っ張りがあり、どこに窪みがあり、どこで曲がるか——全て体が覚えている。
「こっちです」
短い指示。無駄がない。この女は暗闇で生きてきた分、言葉も最短距離で届ける。
通路が上り坂になった。地上に向かっている。出口が近い。
天沼琴の端が——蔓に触れた。
走りながら。脇に抱えた琴の角が、通路の壁から垂れ下がっていた蔓に引っかかった。蔓が弾かれた。蔓が壁に当たった。
琴の弦が——鳴った。
ゴン。
一音。たった一音。
——地底が揺れた。
冗談ではなく——根の堅洲国全体が揺れた。天井から石が落ちた。壁がひび割れた。床が波打った。たった一音で。
天沼琴。これは——普通の琴ではない。音が世界を揺らす。一音で大地が動く。
須勢理毘売が振り返った。藍色の目が見開かれていた。
「——起きる」
それだけで十分だった。
背後から——風が来た。
枯れかけていたはずの風。くすんで、衰えて、蝋燭の炎ほどしかなかった風。
それが——変わった。
金色だった。
通路の奥から、金色の嵐が押し寄せてきた。老いてなお——これだけの力が残っていた。天井の岩が嵐で削れた。壁の菌類が吹き飛んだ。生物発光の緑が消えて、金色の光だけが通路を照らした。
「——大穴牟遅!!」
スサノオの声が追いかけてきた。
老いた声ではなかった。若い声でもなかった。もっと——深い声。何百年分の力が、最後の炎として噴き出す声。
「走って!」
須勢理毘売が叫んだ。初めて聞く——叫び声。口だけが笑う女が、初めて全力で声を出した。
走った。
走るしかなかった。嵐が後ろから迫っている。通路の空気が金色に染まっている。温かい——熱い。老いた嵐が目覚めて、根の堅洲国を灼いている。
坂を駆け上がった。上り坂。足が滑る。岩が濡れている。天沼琴が重い。
「捨てろ!」
須勢理毘売が振り向いて叫んだ。
「琴を捨てれば軽くなる!」
「捨てない」
「なぜ!」
「お前の父が持っていたものだ。捨てられない」
「——馬鹿!」
初めて罵倒された。この女に。「馬鹿」と言われた。契りを交わした相手に「馬鹿」と言える女は強い。
嵐が近づいている。背中に熱が当たる。あと数十歩で追いつかれる。
須勢理毘売が俺の手を掴んだ。冷たい手。引っ張った。坂の上に向かって。
「こっち——抜け道がある」
壁の隙間だった。人一人がやっと通れる亀裂。須勢理毘売は知っていた。ここで育ったから。壁のどこに亀裂があるか。どこを通れば近道になるか。
体を横にして亀裂に入った。狭い。琴が引っかかる。無理やり押し込んだ。弦がまた鳴りかけて——手で押さえた。もう一音でも鳴ったら、何が起きるか分からない。
亀裂を抜けた。別の通路に出た。ここは——嵐が来ていない。迂回路だ。
「走って。止まらないで」
走った。須勢理毘売の冷たい手が俺の手を握っている。引っ張っている。暗い通路を、二人で走っている。
背後で嵐が亀裂にぶつかった音がした。岩が砕ける音。嵐が亀裂を広げようとしている。時間の問題だ。すぐに通ってくる。
坂が急になった。足元の岩が変わった。湿った岩から——乾いた岩に。空気が変わった。地の底の湿った空気から——
匂いがした。
草の匂い。土の匂い。風の匂い。
地上の匂い。
「——近い」
須勢理毘売の声が変わった。走りながら。息が切れながら。声の中に——何かが混ざった。
恐怖ではなかった。期待だった。
光が見えた。
坂の上から。暗い通路の先に——白い光が漏れていた。太陽の光。地上の光。
あと十歩。
背後から嵐が迫っている。金色の風が通路を駆け抜けてくる。あと五歩。
須勢理毘売の手を引いた。今度は俺が引く側。最後の三歩を——跳んだ。
光の中に——飛び出した。
目が潰れた。
比喩ではなく——光が強すぎて、目が開けられなかった。地の底の暗闇から、いきなり太陽の下に出た。白い光が全てを覆って、何も見えなくなった。
しかし——温かかった。
全身が温かかった。太陽の温かさ。地の底では一度も感じなかった温度が、全身に降り注いでいる。
目が——少しずつ慣れた。光に。
空が見えた。青い空。雲が流れている。白い雲。
草が見えた。緑の草。生物発光ではない。太陽を受けて光っている、地上の草。
坂の上だった。地の底への入口を見下ろす坂の上。出雲の山の斜面。
隣で——息を呑む音がした。
須勢理毘売が——止まっていた。
目を見開いていた。藍色の目が、太陽の光を受けて——光っていた。暗闇の中で光る目ではなく、太陽を受けて光る目。初めて。生まれて初めて。
涙が——流れていた。
口元は動いていなかった。笑っていない。いつもの口だけの笑いがない。代わりに——目が泣いていた。
この女が泣くのを、初めて見た。
口だけが笑って目は変わらない女が——目だけが泣いて口は動かない。逆だった。地上の光が、この女の感情表現を反転させた。
「…………」
何も言わなかった。言えなかった。何を言っても邪魔になる。この瞬間は——言葉がいらない。
須勢理毘売が——空を見ていた。青い空を。白い雲を。太陽を。初めて見る、全部を。
坂の下で——嵐が止まった。
金色の嵐が、坂の入口で止まっていた。追ってこなかった。追えなかったのではない。追わなかった。
スサノオが——坂の下に立っていた。
老いた体。痩せた体。しかし嵐が——金色に燃えていた。枯れかけていた嵐が全力で燃えて、スサノオの体を照らしていた。
スサノオの目が——上を見ていた。
坂の上を。光の中に立っている二人を。
須勢理毘売を。
光の中にいる娘を。
スサノオの口が——動いた。
声は聞こえなかった。坂が長いから。しかし唇の形は読めた。二度死んだ目なら、この距離でも読める。
——須勢理が、光の中にいる。
スサノオの目が——潤んでいた。
嵐の神が泣いていた。
追うために走ったのではなかったのだ。確認するために走ったのだ。娘が光の中に出る瞬間を——見たかったのだ。
そして——坂の下で止まった。追わないと決めた。光の中にいる娘を、闇に引き戻さないと決めた。
嵐が——凪いだ。スサノオの嵐が。金色の輝きが静かに消えて、老いた風が体に纏わりつくだけに戻った。
スサノオが——叫んだ。
坂の下から。最後の力を込めて。
「——大国主!!」
地が揺れた。名前が大地を震わせた。
大国主。
大穴牟遅ではない。新しい名前。国を主る者。大いなる国の主。
「——その太刀と弓矢で——八十神を追い払え!!」
「——葦原中国を——治めよ!!」
命名だった。
スサノオが——大穴牟遅を大国主に変えた。荷物持ちの末弟を、国の主に変えた。
試練は——これのためだった。
蛇も、ムカデも、蜂も、火も、虱取りも、全て——この名前を渡すための試練だった。渡す相手を見極めるための。
渡した。
スサノオが——何かを渡した。名前だけではない。名前と一緒に——重さを渡した。国を治める重さを。嵐の神が守れなかったものを、次に渡した。
坂の下で、スサノオが背を向けた。地の底に戻っていく。老いた背中。小さくなった背中。
須勢理毘売が——父の背中を見ていた。涙が流れていた。光の中で。
俺は——大国主になった。
坂の上で。光の中で。泣いている女の隣で。
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