第十章 嵐が止まった
火の試練から戻ると、スサノオが宮殿の広間にいた。
岩の椅子に座っている。いつもの姿勢。腕を組んで、壁にもたれて。しかし今日は——何かが違った。嵐が弱い。いつもより弱い。くすんだ金色の嵐が、体のまわりでほとんど動いていなかった。
疲れているのか。四つの試練を出す側にも消耗があるのか。あるいは——老いが、今日は特にきついのか。
「——虱を取れ。」
「……何だ」
「虱だ。頭の虱を取れ。」
虱取り。頭に手を入れて、虱を探して潰す。子供が母親にやってもらうようなことだ。
この老いた嵐の神が——虱取りを、俺に頼むのか。
「……なぜ俺に」
「他に誰がいる。」
確かに。この宮殿にいるのは、スサノオと須勢理毘売とヒサメだけだ。ヒサメに頼めるかと言えば——あの笑顔で髪に手を入れられるのは、スサノオでも嫌だろう。須勢理毘売は娘だ。娘に虱を取らせるのは——プライドが許さないのだろう。
スサノオの後ろに座った。
白髪の頭に手を入れた。長い白髪。かつては黒かったのだろう。嵐を纏った若い神の黒髪を、俺は知らない。しかし——この白髪の中に、かつての力の残響がある。触れると、指先がかすかに痺れた。嵐の名残。
髪をかき分けた。
——虱ではなかった。
指先に触れたものは、虱より大きかった。硬かった。脚があった。たくさんの脚が。
ムカデだった。
スサノオの髪の中に——ムカデがいた。小さいが、確かにムカデだった。何匹も。髪の根元に絡みついて、蠢いている。
声を出しそうになった。出さなかった。二度死んだ神経は、ムカデ程度では叫ばない。しかし——これを「虱」と言い張るのは無理がある。
これも試練なのか。虱取りに見せかけて、ムカデを処理させる。素手で。噛まれたら毒がある。小さいムカデでも、根の堅洲国のムカデの毒は——たぶん、地上のものより強い。
どうする。
背後から——気配がした。
振り向かずに——気配だけで分かった。須勢理毘売だ。通路の影にいる。
何かが飛んできた。小さな物体が、音もなく俺の膝に落ちた。
木の実だった。赤い殻の硬い実。それと——赤い粘土。
須勢理毘売が通路の影から口の形だけで伝えてきた。暗闇の中で育った目は、暗がりでも見える。俺も——二度死んだ目なら、薄暗い中で唇の動きを読めた。
「実を噛め。ムカデを吐け。」
——なるほど。
木の実を口に含んだ。噛んだ。硬い殻が砕ける音がした。ぱりっ、と。
同時に、髪の中のムカデを指で摘んだ。引き抜いた。噛まれる前に——素早く口元に持っていき、吐き出した。赤い粘土を唇につけて。
スサノオの後ろで——木の実を噛みながら、ムカデを吐き出す。噛む音は虱を潰す音に聞こえる。吐き出したムカデの体液の代わりに、赤い粘土が唇を濡らす。
スサノオからは見えない。後ろに座っているから。聞こえるのは——ぱりっ、ぱりっ、という音だけ。虱を潰している音。
「……うまいな。」
スサノオが言った。
「手つきがいい。慣れているのか。」
「……八十人の兄の虱を取らされたことがある。」
嘘だった。しかしスサノオには見えない。
「そうか。——荷物持ちは虱取りもやらされるのか。」
「何でもやらされた。」
これは嘘ではなかった。
ぱりっ。ぱりっ。木の実を噛む。ムカデを抜く。噛む。抜く。
須勢理毘売が通路の影で見ている。口元が動いている。笑っている。目は——暗くて見えない。しかしたぶん、笑っていない。いつもの、口だけの笑い。
ぱりっ。ぱりっ。
スサノオの体が——緩んだ。
肩の力が抜けた。背筋が少しだけ丸くなった。腕組みがほどけた。手が膝の上に落ちた。
嵐が——さらに弱くなった。
ぱりっ。
スサノオの首が——傾いた。前に。
寝息が聞こえた。
——眠った。
嵐の神が眠った。俺の膝の後ろで。虱を取らせながら。
嵐が——止まった。
完全に。金色のくすんだ嵐が、体のまわりから消えた。風がなくなった。根の堅洲国の空気が、初めて完全に静まった。
嵐が止まるのを——俺は二度目に見た。
一度目は知らない。しかし——老人が話していた。嵐の神が出雲にいたとき、嵐が止まった瞬間があったと。その瞬間に——大切なものを奪われたと。
今、スサノオの嵐が止まっている。
この神は——信用したのだ。
俺を。後ろに座らせて、髪に手を入れさせて、虱を取らせて——眠った。背中を預けて。嵐を止めて。
試練を出す側が——試される側に背中を見せた。
何かが——終わった気がした。試練が。四つの試練ではなく——この虱取りが、本当の最後の試練だったのかもしれない。蛇でもムカデでも蜂でも火でもなく、「背中を預けられるか」が。
スサノオの寝息が規則正しくなった。深い眠り。何年ぶりの——あるいは何十年ぶりの、深い眠り。
足音がした。
須勢理毘売が来た。今度は影からではなく、正面から。白い肌が暗闇に浮かぶ。藍色の目が俺を見ている。
口が動いた。今度は声を出さなかった。唇だけで。
「神器を取りなさい。」
壁に掛けてある生太刀と生弓矢。赤い光が脈打っている。
「天沼琴も。」
天沼琴。宮殿の奥に置いてある琴。見たことはあったが、触れたことはなかった。何の琴かは分からないが——須勢理毘売が「取れ」と言うなら、必要なものだろう。
「今すぐ逃げるのです。」
逃げる。
この宮殿から。根の堅洲国から。スサノオが眠っている間に。
「……逃げるのか」
声を出した。小さく。スサノオが起きない程度に。
須勢理毘売が頷いた。
「父が起きたら——追ってきます。」
「追ってくる」
「嵐が——まだ残っています。枯れかけていても。父が本気で追えば——追いつかれます。」
「……お前は」
「一緒に行きます。」
迷いがなかった。父を裏切る。育ててくれた父を、眠っている間に置いて逃げる。神器を持って。それを——この女は、迷いなく言う。
「……お前の父だぞ」
「はい。」
「いいのか」
「あなたと契りを交わした。あなたが行く場所が——私の場所です。」
地の底の姫の論理だった。契りを交わしたら、もう迷わない。父より、夫。選んだ瞬間に、全てが決まる。
スサノオの寝息が聞こえている。静かな寝息。嵐のない寝息。
この老いた神が——何年も眠れなかったことを、俺は知らない。しかし感じた。この眠りは深い。深すぎる。ずっと眠れなかった者が、ようやく眠った眠りだ。
——起こしたくなかった。
起こさずに、静かに出て行きたかった。感謝を言いたかった。しかし起こせば追ってくる。追いつかれれば——三度目の死があるかもしれない。
立ち上がった。スサノオの頭をそっと岩の椅子の背もたれに預けた。白髪が広がった。ムカデはもう全部取った。
壁に歩み寄った。
生太刀を取った。手に触れた瞬間——剣が俺に力を入れてきた。赤い光が脈打って、腕に何かが流れ込んだ。温かかった。生きている温かさ。
生弓矢を取った。弓に弦がある。矢は三本。矢じりが赤く光っている。
天沼琴を取りに行った。宮殿の奥。岩の台の上に置かれていた琴。触れた。
——何も起きなかった。
まだ鳴らしていない。鳴らすのは——外に出てからだ。
須勢理毘売が先に歩き出した。通路を。出口に向かって。俺は生太刀を腰に、生弓矢を背に、天沼琴を脇に抱えて、後を追った。
荷物持ちに戻った気がした。ただし今度の荷物は——八十人分の雑貨ではなく、神器だ。
通路を歩きながら、一度だけ振り返った。
広間の奥で、スサノオが眠っていた。岩の椅子に深く座って、白髪を垂らして。嵐のない体。静かな体。
この神が何を渡そうとしていたのか——生太刀の温かさが、腰から伝わっていた。
答えはまだ出ない。しかし——重さは感じている。
背を向けた。
走った。
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