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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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9/11

第9話 聖人の名前

 宗教の授業で、珍しく少し面倒な課題が出た。

「自分の名前の由来、あるいは自分に関わりのある聖人について、短くまとめて提出しなさい」

 教壇の前でシスターがそう言うと、教室のあちこちで小さなざわめきが起きた。

 いかにもこの学校らしい課題だった。普通の学校なら、名前の由来を家で親に聞いて終わるかもしれない。でもここでは、そこに聖人伝や洗礼名や守護聖人の話が自然に混ざる。

「え、めんどくさい」 「うち、由来とか特にないかも」 「洗礼名ならあるけど」 「マリア系は多そう」 「親に聞けばいいかな」

 そんな声が飛ぶ中で、路沙は配られたプリントを見ていた。

 名前の由来。

 自分の名前には、ちゃんと由来がある。ありすぎるくらいある。

 路沙。

 リマのローザ。

 幼いころから何度も聞かされてきた。

 珍しい名前だね、と言われるたびに、親は少しだけ誇らしそうに説明した。カトリックの聖人から取ったのだと。

 だから今さら驚きはしない。しないけれど、課題として改めて向き合わされると、少しだけ面倒だった。

「路沙さんは、もう決まってるじゃん」

 隣の佐伯が言う。

「決まってるけど、決まってるから面倒なんだよ」

「何それ」

「ちゃんと聖人由来だから」

「いいじゃん」

「よくない。逃げ道がない」

 佐伯は少し笑った。

「そんなに嫌?」

「嫌っていうか、立派すぎる」

「リマのローザって、そんなにすごい人なの?」

「たぶん、かなり」

 実際、かなりだった。

 授業のあと、図書室で簡単な資料を開いてみると、禁欲、祈り、清貧、神秘体験、苦行、列聖、そういう言葉が並んでいる。

 あまりにもちゃんとしている。

 御ミサをさぼり、昔は御ミサ後の茶話会で『ブレア・ウィッチ2』と『パッション』の話をしてアメリカ人シスターに追い出された自分とは、だいぶ遠い。

「こんな立派な人の名前をつけられても困る」

 思わず小さく呟くと、向かいの席に座っていた有馬が顔を上げた。

「困るの」

「困るよ」

「どうして」

「ちゃんと聖女すぎるから」

 有馬は手元のノートを閉じた。

「リマのローザ?」

「うん」

「たしかに、かなりちゃんとしているわね」

「でしょ」

「でも、あなたが困る理由はそこだけじゃないでしょう」

 路沙は少し黙った。

 有馬は、たまに先に言う。

「……わたし、御ミサもさぼってるし」

「そうね」

「ブレア・ウィッチ2の話で追い出されてるし」

 有馬が少しだけ笑う。

「それは前にも聞いた」

「最悪だったよ」

「あなたが?」

「シスターが」

「そう」

 有馬は笑いを引っ込めて、少しだけ考えるような顔をした。

「でも、名前って、本人の性格診断じゃないでしょう」

 路沙はそちらを見る。

「性格診断」

「こうなりなさい、というより、こういうものに守られていてほしい、みたいな祈りなんじゃない」

 その言い方は、路沙が思っていたよりずっとやわらかかった。

 名前を、評価や義務ではなく、祈りとして置き直す言い方だった。

「だから、あなたがリマのローザみたいに生きていなくても、別におかしくないと思う」

 路沙は黙った。

 有馬はさらに続ける。

「ポールが全員、聖パウロみたいに生きるわけではないし、マイケルが聖ミカエルみたいに生きるわけでもないでしょう」

 路沙は思わず少し笑った。

「急に例が雑に広くなったね」

「わかりやすいほうがいいかと思って」

「ポールとマイケル」

「かなり一般的でしょう」

「まあ、そうだけど」

 有馬は平然としていた。

 でも、その平然とした言い方のおかげで、路沙の中で少し固まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。

 自分の名前を、ずっと少しだけ“立派すぎるもの”として持て余していた気がする。

 聖人の名前なのに、全然聖人らしくない。

 御ミサもさぼるし、共同体の中での正しい話し方もよく外す。

 そういう自分は、どこか名前に対して失格なのではないかと、少しだけ思っていた。

 でも有馬は、それを失格判定の材料にはしなかった。

 ただの由来、あるいは祈りとして置き直してしまう。

 その置き直し方が、有馬らしくて、少しずるいと思った。

     *

 課題の話は、その日の昼休みに少し広がった。

「路沙さんって、聖女っぽくないよね」

 中村がパンを食べながら言う。

「知ってる」

「どっちかっていうと、異端審問にかけられそう」

「ひどい」

「でもちょっとわかる」

 佐伯まで頷く。

「何でみんなそんなにひどいの」

「だって、御ミサのあとにホラー映画の話するんでしょ」

「その話、まだ生きてるんだ」

「有名だよ」

「最悪」

 みんな笑っている。

 路沙も一応笑ったけれど、少しだけ刺さる。

 聖人の名前を持っているのに、全然そう見えない。

 そのズレが、冗談として可視化される。

「でも、名前はきれいだよね」

 佐伯が言う。

「路沙って、音が」

「ありがとう」

「中身はともかく」

「余計」

 有馬は少し離れた席でそのやりとりを聞いていて、何も言わなかった。

 でも、目が合ったときにほんの少しだけ笑った。

 たぶん、さっきの続きを知っている人の顔だった。

     *

 放課後、予備校へ向かう途中でその課題の話を真壁にすると、真壁は少し意外そうな顔をした。

「名前の由来を学校で調べさせられるの、いかにもだな」

「カトリック校だから」

「そういう感じなんだな」

「そういう感じ」

 駅までの道を歩きながら、路沙はプリントを鞄から少しだけ出して見せた。

 真壁は覗き込んで、ふうん、と言う。

「でも、お前の名前にそんな由来あるの、ちょっといいな」

 路沙はそちらを見た。

「いいの」

「うん」

「何で」

「なんか最初から物語がついてる感じする」

 その言い方は、有馬とは全然違った。

 祈りとか守りとかではなく、物語。

 でも、路沙にはそのほうが少しわかりやすかった。

「真壁って、たまにそういう言い方するよね」

「たまに?」

「いつもじゃない」

「便利だな」

「便利だから」

 真壁は少し笑った。

「でも、お前っぽいよ。名前に由来があって、しかも本人はちょっと持て余してる感じ」

「褒めてる?」

「半分くらい」

「便利だね」

「便利だから」

 同じやりとりなのに、有馬と真壁では少し温度が違う。

 その違いが、路沙には少し面白かった。

     *

 その週、宗教の授業では聖人祭の掲示物づくりもあった。

 色画用紙に聖句を書き、聖人の名前を整った字で写し、廊下に貼るための小さな説明文を作る。

 路沙はこういう作業には慣れていた。幼稚園のころから、マリア祭だのクリスマスだの復活祭だの、そういう行事のたびに似たようなものを作ってきた。

 祈りの言葉をきれいに書き写しながら、ふと、自分はこういうものを信じているのか、ただ知っているだけなのか、よくわからなくなる。

 めでたしも、主の祈りも、言おうと思えば口が勝手に言える。

 でも、それが信仰なのか習慣なのかは、たぶんずっと曖昧なままだ。

 課題用のノートに、路沙はリマのローザについて短くまとめた。

 南米最初の列聖者。祈りと禁欲の人。神に向かって徹底的に生きた人。

 書きながら、あまりにも自分とは違うと思う。

 でも同時に、遠いものに向かって本気で手を伸ばした人なのだとも思った。

 その一点だけなら、少しだけわかる気がした。

 何かに強く惹かれて、そこへ向かってしまう感じ。

 きれいに信じることはできなくても、遠いものに目を向けてしまう感じ。

 それが聖性と呼べるものかどうかはわからない。

 でも、まったく無関係でもない気がした。

     *

 提出前、名前を書く欄で、路沙は少しだけ手を止めた。

 路沙。

 ただのラベルみたいに書いてきた自分の名前が、今日は少しだけ違って見える。

 誰かの祈りの名残。

 親が、自分にそうあってほしいと願ったもの。あるいは、何かに守られていてほしいと思ってつけた名前。

 それを信じ切ることはできない。

 でも、完全に無視することもできない。

 聖人の名前を持っていて、御ミサをさぼっていて、共同体の中での正しい話し方をよく間違える。

 それでも、この学校に長くいて、この名前で呼ばれてきた。

 その半端さごと、自分なのだと思う。

 路沙は名前を書き終えて、ノートを閉じた。

 窓の外では、午後の光が校舎の壁を白くしている。

 遠くでチャイムが鳴った。

 立派すぎる名前を、まだ少し持て余している。

 でも前よりは、少しだけそのまま持っていてもいい気がした。


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