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空(くう)は空(そら)ではない  作者: はまゆう


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8/11

第8話 御ミサのあとで

 六月の半ば、朝から講堂に集められる日がある。

 宗教行事の日だった。

 正面の壇上には十字架があり、白い布のかかった祭壇の脇に花が飾られている。窓から入る光は薄く、講堂の空気には、古い木の匂いと、どこか乾いた布の匂いが混じっていた。聖歌の伴奏が始まると、生徒たちは立ち上がり、慣れた調子で歌い出す。

 路沙は歌詞カードを見なくても、だいたい歌えた。

 幼稚園からこの学校にいる。聖歌も、祈りの言葉も、立つタイミングも座るタイミングも、身体のほうが先に覚えている。

 だからといって、信心深いわけではない。むしろ慣れすぎていて、空気みたいになっている。十字架も、聖母像も、シスターの白いヴェールも、特別なものというより、ずっと背景にあるものだった。

 朗読があり、短い説教があり、共同祈願があり、最後にまた聖歌を歌う。

 前の列に座っている一年生たちはまだ少しぎこちない。外部から入ってきた子たちは、立つタイミングを半拍遅れて合わせる。

 そういう小さなずれを見ると、路沙は自分がこの学校に長くいるのだと、妙に実感した。

 講堂を出ると、廊下に朝の光が戻ってきた。

 宗教行事のあとの空気は、いつも少しだけ静かだ。みんな、さっきまで祈っていた名残で、声を落として話す。

「白谷さんって、ほんとに全部覚えてるよね」

 隣を歩いていた佐伯が言った。

「幼稚園からだもん」

「やっぱり内部ってそうなんだ」

「そういうものかも」

「聖歌とか、全然見てなかったじゃん」

「見なくても歌える」

「すご」

 そのまま教室へ戻る途中、前を歩いていた中村が振り返った。

「そういえば、路沙さんって名前、カトリックっぽいよね」

「急に」

「いや、なんか。路沙って珍しいし」

「当て字っぽいけど、ちゃんと由来あるの?」

 路沙は少しだけ肩をすくめた。

「あるよ。リマのローザ」

「えっ」

「聖人の?」

「たぶん、それ」

 中村が目を丸くする。

「そんなちゃんとカトリック由来なんだ」

「幼稚園からここだから、親がそのへん素直だったんじゃない」

「素直って」

「洗礼名じゃなくて本名でそれなの、すごいね」

「そうかな」

 路沙自身は、自分の名前を特別ありがたく思ったことはあまりなかった。

 珍しい名前だとは思う。説明するときに少し面倒だとも思う。

 でも、リマのローザにちなんでつけられた、と聞かされて育ったので、それが自分の名前の一部として最初からそこにあった。

 教室に入ると、有馬が席でプリントを整えていた。

 中村がそのまま話を振る。

「有馬さん、知ってた? 路沙さんの名前、リマのローザ由来なんだって」

 有馬が顔を上げる。

「そうなの」

「うん」

「きれいね」

 その言い方があまりに自然で、路沙は少しだけ困った。

「そんな反応されると、逆に落ち着かない」

「どうして」

「今までそんなにありがたがられたことないから」

「ありがたがってはいないわ」

「じゃあ何」

「似合うと思っただけ」

 有馬はそう言って、またプリントに目を落とした。

 その“似合う”の意味を、路沙は少し考えたけれど、よくわからなかった。

     *

 四時間目の宗教の授業でも、聖人の話が少し出た。

 リマのローザの名前も、教科書の端に小さく載っている。南米最初の列聖者。禁欲と祈りで知られる聖女。

 路沙はその説明を聞きながら、自分の名前の由来になった人が、たぶん自分とはあまり似ていないことをぼんやり思った。

 授業のあと、昼休みに有馬と廊下の窓際に立っていると、さっきの名前の話の続きになった。

「リマのローザって、ちゃんと知ってる?」

 有馬が訊く。

「教科書に載ってるくらいのことは」

「それだけ?」

「それ以上は、たぶん親のほうが詳しい」

「そう」

 有馬は少しだけ笑った。

「でも、幼稚園からここにいるのは、なんとなくわかる気がする」

「何それ」

「聖歌の入り方が自然だったから」

「そんなところ見てるんだ」

「見てるわよ」

 路沙は少しだけ笑った。

 有馬は、たまにそういう変なところを見ている。

「でも、わたし、そんなに敬虔じゃないよ」

「そうでしょうね」

「即答だね」

「敬虔な人は、御ミサのあとに『ブレア・ウィッチ2』の話をしないでしょう」

 路沙は思わず有馬を見た。

「何で知ってるの」

「前に誰かが言っていたから」

「最悪」

「本当なの?」

 路沙は少しだけ黙ってから、観念したように言った。

「本当」

「何があったの」

「昔、御ミサのあとの茶話会で、映画の話になったの」

「茶話会で?」

「うん。たぶん中一とか、そのくらい」

「それで」

「ネットで見た『ブレア・ウィッチ2』とか、『パッション』とかの話をした」

 有馬が一瞬だけ黙る。

「……どうしてその流れで」

「宗教と恐怖表現って近いじゃない」

「近いけれど」

「あと『パッション』は普通にキリスト教映画だし」

「そうね」

「だから、わたしとしてはそんなに外してるつもりなかったんだけど」

「場が悪いわね」

「でしょ」

 路沙は窓の外を見た。

 中庭の木が、風もないのに少しだけ揺れて見える。

「そしたら、アメリカ人のシスターが、すごい顔して」

「すごい顔」

「ほんとにすごい顔。今まで見たことないくらい」

「何て言われたの」

「“You, get out.”みたいな感じ」

「みたいな感じ」

「正確には覚えてないけど、要するに出ていけって」

 有馬は少しだけ目を伏せた。

 笑うかと思ったのに、すぐには笑わなかった。

「それ以来、御ミサほとんど出てない」

「茶話会も?」

「茶話会は完全に行ってない」

「それはそうかもしれない」

「でしょ」

 少し遅れて、有馬が小さく笑った。

「あなた、ほんとうにそういうところがあるのね」

「何、そのまとめ方」

「論点はわかるのに、場所が最悪」

「それはわたしも思う」

「でも、あなたがそういう話をするのは少しわかる」

 路沙はそちらを見た。

「わかるの」

「ええ」

「何が」

「信仰そのものというより、人が何を神聖だと思うかに興味があるんでしょう」

 路沙は少し黙った。

 かなり正確に言い当てられた気がした。

「……そうかも」

「怖いものも、聖なるものも、少し似た場所にあるから」

「有馬さん、たまにそういうこと言うよね」

「たまに?」

「いつもじゃない」

「便利ね」

「便利だから」

 二人とも少しだけ笑った。

 でも路沙の胸の奥には、今の言葉が静かに残った。

 自分でもうまく説明できなかったことを、有馬はときどき先に言葉にしてしまう。

     *

 放課後、予備校へ向かう途中でその話を真壁にすると、真壁は案の定、かなり笑った。

「お前、何で御ミサのあとに『ブレア・ウィッチ2』の話するんだよ」

「だから、宗教と恐怖表現って近いじゃん」

「近いけど、そこじゃない」

「有馬さんにも同じこと言われた」

「そりゃ言うだろ」

「あと『パッション』も出した」

「余計だよ」

「でもキリスト教映画だよ」

「そういう問題じゃない」

 真壁は笑いながら首を振った。

「お前、ほんとに共同体の中での正しい話し方が下手だな」

「共同体って言い方やめて」

「でも合ってるだろ」

「合ってるけど」

 有馬が横で静かに言う。

「論点はわかるのよ」

「有馬まで」

「ただ、場所が最悪だっただけ」

「それも言われた」

「じゃあ正しいでしょう」

「二人とも同じこと言うね」

「だって同じ感想だもの」

 駅までの道を歩きながら、路沙は少しだけ肩をすくめた。

「でも、あの学校って、そういうのあるよね」

「どういうの」

 真壁が訊く。

「ずっとカトリックの空気の中にいるから、逆に、どこまで本気で信じてて、どこからただの習慣なのか、よくわかんなくなる感じ」

 真壁は少し考えた。

「俺にはそのへん、外からだからわかんないけど」

「まあ、そうだよね」

「でも、お前がその学校に深く属してるのに、ちょっとずれてるのはわかる」

「ひどい」

「褒めてる」

「褒めてない」

「半分くらいは」

 有馬が少しだけ笑う。

「でも、たぶんそれがあなたでしょう」

「何が」

「深く属しているのに、きれいには馴染まないところ」

 その言い方は、少しだけやさしかった。

 路沙は返事をしなかった。

 返事をすると、何かを認めることになりそうだったからだ。

     *

 予備校の帰り、路沙は少し遠回りして学校の前を通った。

 もう校舎の窓は暗く、正門の脇の街灯だけが白く光っている。聖堂のほうから、かすかにオルガンの音が聞こえた。誰かが練習しているのかもしれない。

 路沙は門の外から、しばらくその音を聞いた。

 御ミサには、もうほとんど出ていない。

 茶話会にも行かない。

 シスターたちと親しく話すことも、昔よりずっと減った。

 それでも、この空気自体は嫌いではなかった。

 聖歌の旋律も、祈りの言葉も、祭壇の白い布も、幼いころから身体の中に入っている。

 名前の由来も、聖人の話も、自分の中にちゃんと残っている。

 ただ、それを“正しく”持てないだけだ。

 敬虔な優等生みたいには、どうしてもなれない。

 興味の向け方が少し変で、話す場所をよく間違えて、共同体の中での正しい振る舞いをたまに外す。

 でも、それでも自分はこの学校の一部なのだと思う。

 幼稚園からここにいて、聖歌を歌えて、リマのローザの名前を持っている。

 きれいには馴染まなくても、外の人間ではない。

 路沙は鞄からノートを出して、表紙の裏に自分の名前を書いた。

 路沙。

 ローザ。

 リマのローザ。

 聖人の名前を持っているのに、御ミサをさぼっている。

 そのねじれが少しおかしくて、少しだけ自分らしかった。

 オルガンの音が、夜の空気の中で細く伸びる。

 路沙はノートを閉じて、もう一度だけ校舎のほうを見た。

 帰る場所みたいな顔をして、完全には馴染ませてくれない。

 その感じが、たぶん嫌いではなかった。


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